第108話 皇帝の責務


 バキバキと音がして、はりが崩れ、天井が落ちてくる。

 燃ゆる豊楽ほうらく殿の内部は尋常ではなく熱せられ、あまりの高温に視界が揺らいで見える。

 周囲に立ち込める煙により、肺にはまともな酸素が取り込めなくなっていた。

 その中でただ一人、足を踏ん張り、窮奇きゅうきに立ち向かう男が。

 真雨皇国しんうこうこく今代皇帝、雨 凱嵐う がいらん

 彼は「討伐」に長けた雨一族の中でも、とりわけ武芸に優れていた。

 愛刀である天泣てんきゅうを駆り、数多の妖怪を屠ってきた凱嵐は、今また立ちはだかる妖怪を相手取っている。

 凱嵐にとって妖怪討伐とは己がなすべき使命の一つであり、相手がどれほど強大であろうと関係がなかった。

 民を蹂躙し、人々の安寧を脅かす存在を屠る。

 それは天栄宮てんえいきゅうという宮中で古狸を言葉で相手取るより、よほど単純で明快だ。

 目の前の窮奇はかつて凱嵐が幼少の時に倒した渾沌こんとんと同格に並べられる妖怪、四凶しきょうが一角。


 ーーとはいえ窮奇の力は、渾沌以上のものであった。


 巨躯から繰り出される攻撃は単純で、鉤爪のついた前脚で切り裂いてくるか、牙で噛み砕こうとしてくるか。

 しかし体躯の大きさからは考えられない程の俊敏な動きを見せている。凄まじい跳躍力で地を蹴り襲いかかって来るのを避けたとしても、すぐさま向きを変えて追撃をしてくるのだ。

 凱嵐は水縹みはなだ色の着物を翻しながら、窮奇の攻撃を避け、そして反撃に転じる。

 雄叫びを上げたなら突進してくる窮奇に対し、凱嵐は軽やかな身のこなしで避ける。梁や柱を豪快にぶち破る窮奇は、既に豊楽殿のほぼ全ての建造物を破壊していた。

 火の手は広がり、このままでは隣の至誠しせい殿や桜雲おううん殿に燃えうつるのも時間の問題だ。

 そうなればどんどんと炎は勢いを増し、天栄宮全体が焼失してしまってもおかしくないだろう。そしてやがて、雨綾うりょうの都までもを巻き込む大火災へと発展する。

 そうなる前に決着をつけなくては、と凱嵐は焦る。

 窮奇が突っ込んだ先で柱が倒れ、天井がその頭にガラガラと降り注いだ。見事な青い瓦が窮奇の黒々とした体を殴打する。

 一瞬、窮奇の視線が凱嵐から逸れた隙を逃さなかった。

 崩落した建造物の上、足場の悪い瓦礫を蹴って凱嵐は剣を振りかぶる。

 そのまま窮奇の体、ちょうど首の辺りに、己の体重を乗せて剣を深く突き立てた。


「ーーーーーっ!!」


 獣の雄叫びが聞こえ、血飛沫が飛び散る。

 だが、まだ浅い。

 皮膚は硬く太い毛に覆われており、致命傷を与えるには至らなかった。

 暴れる窮奇の背に乗ったまま、凱嵐はなおも剣をズブズブと沈めていく。

 窮奇からすれば、凱嵐など蟻にも似た小さい存在だ。体全体を大きく揺さぶり、振り解こうともがいている。

 凱嵐の愛剣、天泣は刃を三分の一ほどまで窮奇の体に沈めたが、そこから先がピクリとも進まなくなった。

 生物の弱点であるはずの首筋を狙ったというのに、恐ろしいほどに頑強な体が、これ以上の攻撃を受けるのを拒んでいる。

 窮奇は身を捩って顔を凱嵐の方へ向け、腹の底に響くような雄叫びと共に血反吐を浴びせかけてきた。

 生暖かい血液をまともに被り、錆びついた鉄の匂いが鼻をつく。

 同時に、血液が窮奇の体にもかかり、それを踏んだ凱嵐は足を取られた。

 ずるりと足が滑ってバランスを崩した凱嵐は、天泣にしがみついて背に再び登ろうとするも、剣の方が保たずに窮奇の皮膚から抜けていき、凱嵐の体は地に落とされた。

 咆哮を上げる窮奇は傷を負いながらも追撃の手を緩めず、むしろこの機を逃さずに凱嵐を叩きのめそうと向かってきた。

 血まみれの歯を剥き出しにし、赤黒い瞳に底知れぬ憎しみの色を宿らせて、目の前の敵を屠ろうと追撃の手を緩めない。

 負けられない。

 負けてはならない。

 ここで凱嵐が倒れてしまえば、この化け物は天栄宮を飛び出し、雨綾の罪なき人々を蹂躙するであろう。

 平和に過ごす町人たちは、突如襲ってきた妖怪に対し逃げ場もなく、圧倒的な暴力を前にしてなすすべなく殺されてしまう。

 断じて許されることではない。

 皇族として生まれ落ち、力と才能に恵まれている凱嵐は今、真雨皇国の最高地位である皇帝の座に君臨している。

 己の両肩には、国中に住まう人々の命が乗っているのだ。


ーー目に見える妖怪一匹止められずして、何が皇帝だ。


 凱嵐は妖怪討伐をする時、いつも一人だった。

 周囲に人がいると落ち着かないし、己の傍若無人な戦いぶりに巻き添えを食らうかも知れない。

 そうした懸念事項を排除するためにも、一人の方が良かった。

 天栄宮にいる人々の避難は賢孝けんこうや蒼軍、剛岩ごうがんの親族がどうとでもしてくれる。

 凱嵐が考えるべきたただ一つ、目の前の妖怪を倒すこと。

 煙を吸い込み、体を強かにうちつけ、熱気に肌が焼かれそうになっても。

 凱嵐は剣を握り、立つ。

 それが皇帝としての己の責務であると考えているから。

 薄ぼんやりとし始めた脳に喝を入れようと、頭を左右に振って己を叱咤する。

 

「ーー熱っ、紫乃、これヤバいよ、熱気で釜の中身が再沸騰しそうしそうだにゃあ」

「熱々を食べてもらえるから、いいんじゃない?」

「姐さん、呑気ですのう」

「紫乃様、煙を吸わないように濡らした手拭いを口元に当てていてくださいよぉ! ーーゲホッ! ウェッ!!」

黒羽こくう、喋らない方がいいよ。煙が肺に入る」


 人の声が聞こえ、凱嵐は一瞬、目の前の窮奇から意識が逸れた。

 まさかと思う。

 この炎に呑まれ、四凶が殺意を撒き散らす場所にわざわざ来る者がいるか?

 しかし複数人の声と足音が炎の中から確かに聞こえ、おまけにどんどんこちらに近づいてきている様子だった。


「しっかしこんだけ壊されてるとなると、あの男が生きてるかどうか怪しいもんだにゃあ」

「ただの人間がこれほど炎と煙に呑まれた場所で生きているとは、考えづらいですのう」

それがしは今代陛下を詳しく存じませんが、いくらなんでも長時間いられる場所ではないですね……ゲホッ!」

「いや、陛下はきっと生きてるよ」

「ゲホッゲホッ、なんで言い切れるんですか?」

「うーん……なんとなく、あの人は死にそうにないから」

「そんな適当な……!」

「あ、でもほら、見えてきた」

「! なんと、本当に生きておりましたな!」

「しぶとい男だにゃあ」

「妖怪並みの体力ですのう」


 呆気に取られる凱嵐の前に、話し声の主たちが現れる。

 一行は凱嵐がよく見知った人物たちだった。

 人間形態の花見はなぜか手に羽釜を持っており。

 同じく人間形態の野菊は膳を手にしていて。

 紫乃は手ぶらであるものの、側に見知らぬ、特徴のない町人風の男を侍らせている。

 おおよそ四凶の一角と戦う激戦地に現れるのに場違いな人物たちに、さしもの凱嵐も混乱せざるを得なかった。

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