第106話 これより調理を開始する
「ヨォ、俺たちも逃げたほうがいいんじゃないですか、
「そうっすよ。さっきからやべえ音が貴人殿の方角から鳴り響いてますよ」
「
御膳所、
「お前たち、先に逃げていいぞ。俺は火の始末をしてから行く」
「そんな悠長な、兄貴……」
「しっかり火を消さなきゃ、火事になるだろうが」
「じゃ、行っちまいますよ、俺たち」
「兄貴も早く来るんですよ」
「おう」
伴代は逃げ去る御料理番に手を振ると、自分は竈門から目を離さず後始末を続ける。
春来の祝宴が終わったあと、御膳所の面々は休みを挟んでから厨の後片付けをしていた。祝宴は大規模だったが、数日前からの仕込みと前夜からの追い込みでなんとか無事に終わった。
客人たちの反応も上々だったと給仕番たちから聞いている。
御膳所の御料理番たちもささやかに酒を酌み交わし、自分達の祝宴を済ませ、さあ厨を綺麗にして明日に備えようと思ったところでの非常事態。
貴人殿群の方角で何やら凄まじい音がしたかと思えば、しばし後に地獄の底から響くような咆哮が轟き、御料理番の約半数が腰を抜かした。
かと思えば蒼軍が御膳所にやって来て、
異常事態にすぐさま御料理番たちは北門に向かい、同じく逃げ惑う使用人たちの群れに混じって天栄宮から脱出した。
そんな最中にあって、伴代は未だに厨に残り続けている。
非常時だからこそ、厨の始末をきっちりつけたいと思ってしまうのは御料理番としての
まして夕餉の厨の御料理番頭は紫乃であり、自分は紫乃が後宴の準備のために一時的に厨を抜けた穴埋めにすぎない。
穴埋めである自分には、厨の状態を最高に保っておく義務がある。
「よし、こんなもんか」
いつも通りに厨が綺麗になっていることを確認した伴代は、鍵を閉めて厨を後にする。
そのとき丁度、並んだもう二つの厨から人が出てくるのが見えた。
朝餉のじさまと、昼餉の旦那だ。
「……なんだ、まだ残っていたのか」
「そういう旦那こそ」
「お前さんたち、真面目じゃのう」
「そりゃあ、まあ。不始末で厨が燃えたら大変ですから」
伴代の言葉に旦那も同意するように頷く。
じさまは毛むくじゃらの口髭を揺らしながら、ふむぅと唸った。
「とはいえ、ここが危険なのに違いはない。儂らも脱出を急ごう」
じさまを筆頭に御膳所の出口に向かっていた三人は、外の崩壊音とは別の音が近づいてくるのを聞いた。なんだ? と伴代が思っているうちに、音に混じって話し声も聞こえてくる。
「もう時間がありませんよ!」
「めっちゃ燃えてますのう!」
「うおおお、
「紫乃、大丈夫かにゃ!?」
バタバタバタと複数人の足音がして、御膳所の扉がバァンと大きく開かれ、ものすごい勢いで誰かが突っ込んでくる。
伴代と昼餉の旦那は入ってきた人物たちと正面衝突しないように、じさまの両肩を掴んで壁際に引き寄せた。
入ってきたのは、見知らぬ町人風の男に背負われた紫乃、花見、野菊、それに
駆け抜けようとした一団だが、伴代たちに目を止めた紫乃が声を上げた。頭に布を巻いているところを見ると、怪我をしているようだ。
「あっ、伴代!」
「あら、御料理番頭様たちもお揃いで」
「姐さん、大鈴。何だってここに来たんですか? 俺たちはもう天栄宮から出るところですが」
「料理しないといけないんだ。厨を開けてくれないか」
「今、この状況で!?」
紫乃の返答を聞いた伴代は目を剥いて尋ね返した。対する紫乃の眼差しは真剣そのものである。
「今、この状況だからこそ作る」
紫乃の紫色の瞳には強い意志が宿っていた。紫乃は元々決断性に優れた職人気質な娘だが、今この瞬間は、それが最大限に引き出されている気がする。
伴代は紫乃が発する目に見えないオーラのようなものに気圧され、手に持っていた鍵を差し出した。
「……使ってください。それと、もし俺でお役に立てるなら、手伝います」
「ありがとう、伴代」
鍵を受け取った紫乃に、昼餉の旦那がずいと前に出てきて問いかける。
「待て、夕餉の。本気で料理するつもりか? 陛下が食い止めているとはいえ、いつここが戦場になるかもわからないんだぞ」
「旦那、心配ありがとう。でも私、やると決めたらやり遂げないと気が済まないんだ」
「…………なら俺も、手伝おう。お前には助けてもらった恩がある。何を作るつもりか知らないが、人手は多い方がいい」
「ふむぅ、若い者が頑張るなら、儂一人で逃げ出すわけにはいかんのう」
じさままでもがそんなことを言い出した。
「しかしのぉ、作ると言っても今は食糧庫も貯蔵蔵も空じゃぞ。何せ春来の祝宴でほぼ全ての食材を使い切ってしまったからのぉ」
「そういやぁそうですね」
「何を作るつもりなんだ?」
旦那の問いかけに、紫乃は答える。
「何を作るかはまだ決めていない。好みが分からないから……ひとまず食糧庫を見てみよう」
一体誰に作るつもりで、どこに持って行こうとしているのか。
好みのわからない者のために、この非常事態に御膳所にやってきて料理をしようと言う紫乃に従い、一行は御膳所内の食糧庫へと向かう。
扉を開けるとひんやりとした空気が肌を撫でた。薄暗い貯蔵庫の中はほぼ何も入っていない。
紫乃は謎の町人風の男の背中から降りると、ふらふらとした足取りで庫内を確認する。
「確かに野菜や肉、魚といった類のものは全然ないな」
「大豆や鰹節、昆布なんかもほぼ尽きていますよ」
伴代は紫乃の言葉を受けて補足した。
祝宴、後宴の翌日は陛下は朝餉を摂らない慣習となっている。
よって翌朝のじさまの仕事はなく、朝のうちに調達番は仕入れてきた食材を大量に食糧庫へと運ぶ手筈となっていた。
なので今現在の庫内は、ほぼ空だ。
「いや……あるじゃないか」
紫乃は食糧庫内に立ち尽くしたまま、一点を見据えていた。
そこに積んであったのは、本日使わなかった麦米だ。
祝宴では白米を出すので、いつも陛下が食べる麦米は使っていないので、確かにたっぷりと残っている。
「これ。使えるだろう」
「そりゃあ使えますが」
「それから大根の葉も大量にあるな」
「祝宴で大根葉は使いませんでしたからねえ」
「あとは、壺に梅干しがあるな。三色団子作った時の残りか」
紫乃は自分が御膳所に持ち込んだ壺の中身を確かめながら言う。
「よし、麦米と大根葉、梅干しを運ぶの手伝ってくれ。あとは残っている鰹節と、塩と醤油も必要だ」
紫乃はもう献立を決めたらしく、てきぱきと指示を出してくる。
居並ぶ面々は手伝うと決めて残っている奇特な連中ばかりなので、伴代を筆頭に素直に従う。
頭に布を巻いている紫乃は、今しがた伴代が出てきたばかりの厨に入ると、前垂れをつけて
「よし! これよりーー調理を開始する!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます