第105話 寂しい妖怪
「紫乃!」
「紫乃姐さん!」
「あっ、紫乃様。目を覚ましましたか!」
「うおおおお、紫乃様!!」
目を覚ました紫乃の視界には、見慣れない木の天井、それから見知った顔に混じって一人だけ知らない顔が映った。
上半身を起こすと、少し頭がクラリとする。
押しとどめたのは
「紫乃様、いけません。血を流しすぎていますからもう少し横になっていて下さい」
「いや……ここはどこだ?」
「役人殿にある医務室にございます。紫乃様は妖怪、四凶が一角の
「そうか…………」
息をついた紫乃の耳には、断続的な破壊音が聞こえてきた。弾かれたように外の方角を見る。大鈴が極めて真剣な声で紫乃に告げた。
「
妖怪。
紫乃は意識を失う直前に対峙した、巨大な虎のような化け物を思い出した。
紫乃の頭ほどもある前脚を持つ妖怪の赤黒い目と目があった瞬間、底知れぬ恐怖が紫乃の全身を襲った。
巨体に気圧されたのではない。あの妖怪の持っている感情に心が揺さぶられたのだ。
どす黒く塗りつぶされた闇のような瞳の奥には、凄まじいまでの憎しみと、怨念と、怨嗟と、そして負の感情の中に隠すかのように一抹の寂しさが見てとれた。
花見の時と同じだ。
妖怪というのは難しい生き物で、人間を害そうと虎視眈々と狙っているくせに、心の奥底では優しさを求めている。
寿命がなく、人間よりよほど長く生きる妖怪は、名前すら持たない。集団で過ごさない性質ゆえに常に孤独で、愛に飢えているのだ。
だから紫乃が害意なく差し出した料理を食べた花見も野菊も、心が満たされ紫乃との距離を縮めてくれた。
彼らが満たされていないのは胃袋じゃなく、心だ。
あの窮奇だって同じだ。
満たされない心の隙間を埋めるように暴れ回り、全てを破壊しようとしている。
なんて、寂しいんだろうと思った。
寂しくてつらくて苦しい。
一瞬でも窮奇の気持ちを理解してしまった紫乃はもう、いても立ってもいられなかった。
上掛け布団を捲って立ちあがろうとする。
視界がぐらつき、足元が揺れた。
咄嗟に支えた花見は批判の声を上げた。
「紫乃、何してんだにゃあ。まだ寝てないと」
「花見。私、行きたい所がある」
「にゃに? どこ?」
紫乃は、ぐるぐると回る視界の中で花見に訴えた。
「御膳所」
「御膳所ぉ?」
「あの妖怪のために、飯を作らないと」
「…………紫乃様、僭越ながら申し上げますが、凱嵐様が必ずや窮奇を討伐してくれます。私たちに出来ることは、凱嵐様の邪魔にならぬよう天栄宮から離れること」
「駄目だ」
紫乃は大鈴の申し出をキッパリと断った。
「このまま倒してしまったら、なんの解決にもならない。ちゃんと……向き合って、心を解してあげないと」
「相手は大妖怪、四凶でございますよ。並の妖怪とは違います」
「それでも、駄目なんだ」
紫乃は夢の最後に見た、母の言葉を思い出しながら言う。
『紫乃って名前には、紫の字が使われているだろう? 父さんと母さんの色を混ぜて出来上がる色なんだよ』
あの時はわからなかった。凱嵐に己の出自の秘密を聞いた今は、完全に理解してしまった、紫乃の名前の由来。
ーー母の色は、紅。父の色は、貴色である蒼。だから二つの色を混ぜた紫を娘の名前に使った。
母は紫乃に「ひっそり暮らせ」と言いつつも、途方もない手がかりを娘の名前に与えていたのだ。
紫乃は、無謀とも無茶とも思えるお願いを花見に向けて訴える。
紫色の瞳に強い意志を乗せ、再度言葉を口にした。
「私は御膳所に行く。行って、飯を作らないといけない。花見、力を貸してくれ」
「当然」
付き合いの長い花見は紫乃の言わんとする全てを理解した上で、口の端を持ち上げて笑った。
「ワタシも! 行きますのう!」
「ありがとう野菊」
「どうなっても知りませんよ」
「ごめん、大鈴」
「…………うおおお!
最後に感極まったような野太い声がして、紫乃はこの場で唯一見知らぬ顔である男を見た。
外見は恐ろしく特徴のない男である。
どこにでもいそうな顔立ちに、どこにでもいそうな髪型と体格、ありふれた着物。
しかしやたらに声がデカく、両目から滂沱の涙を流し、前のめりになって紫乃に迫ってくる男が普通であるはずもなく。
「紫乃、そいつが
「えっ、黒羽?」
いつもいつも紫乃に食材を届けてくれていた、あの黒羽?
紫乃が思わず聞き返すと、特徴はないが妙に存在感のあるその男は力強く頷いた。
「いかにも。先代陛下の命を受け、紫乃様並びに紅玉様を見守っていました。某が黒羽にございます。危急と思い、馳せ参じました。さあ、紫乃様! 某を手足と思い、存分に使って下さいませ! この天栄宮の中は、某にとって庭のようなものにございます!!」
「ありがとう。じゃあ、皆で御膳所に行こう」
色々と聞きたいこともあるが、全部後回しだ。
とにかく御膳所に行き、飯を作らねばならない。
体調が万全ではない紫乃は花見に抱えられ、御膳所を目指した。
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