第65話 紫乃、ようやくの勝利に感動する

 結局、皇太子の世話係を名乗る老婆とはまともな会話が出来ず、ひとまず牢に閉じ込めておく事となった。

 紫乃は尾花おばなと名乗った老婆が連行されていくのを眺めたのち、縁台に座り込み動かなくなった賢孝けんこうにそっと近づき、皿を差し出した。

 賢孝がわずかに首を動かし、皿と紫乃を交互に見つめる。


「これは何だ」

「稲荷寿司です」


 紫乃が皿の中身を見せつけるようにしながら、手を差し出す気配のない賢孝にぐいと押し付ける。


「せっかくなので食べて頂きたく」

「何故だ」

「賢孝様が甘いものを好んで食べるのは、冷めた料理がお嫌いだからと聞きました。初めから冷めている前提で作られた料理ならば、お口に合うのではありませんか?」

「とんだ理論だな。……まあ、いい。丁度腹が空いていたところだ。頂くとする」


 賢孝は行儀よく箸を持つと、稲荷寿司の一つを掴み、口に運ぶ。

 噛みちぎった稲荷寿司をゆっくりと咀嚼すると、もう一口、もう一口と黙々と食べ進めた。

 それから一言。


「…………美味い」


 勝った。紫乃は賢孝の言葉を聞いた瞬間にそう思った。

 何を食べても同じという思考回路を持つ強敵である賢孝から、ようやく「美味い」の一言を引き出せた。

 感無量だ。紫乃は戦いに勝ったのだ。

 紫乃は拳を握ってじんわりと勝利の余韻に浸った。


「そなた、何か無礼な事を考えているだろう」

「滅相もない。美味いと言っていただけ喜んでいるだけです」

「変な奴だ」

「料理人にとって、美味いの一言に勝る褒め言葉はありません」

「そういうものか」

「そういうものです」

「……そうか」


 賢孝は険の取れた顔つきだった。


「私は、天栄宮てんえいきゅうに来て以来、料理とは敵が陛下に毒を盛る恰好の機会だと考え常に疑ってきた」

「はい」

「陛下が食事好きであることは剛岩ごうがん時代に散々宴をやっているのを見ていた故、よく存じ上げている。しかし陛下からその楽しみを奪ってでも、毒殺の可能性を減らすほうが重要だと考えてきたのだ。……陛下も私の意見を否定しなかった」

「毒殺されたら元も子もありませんからね」

「しかしそなたの料理を食べた事で、陛下の心の均衡が崩れたのであろうな」


 賢孝は眼差しを紫乃に向けると、口を開く。


「そなたは不思議だ。まるで素性がわからぬ得体の知れない娘だというのに、易々と陛下のお心を捕らえ、掴んで離さない。その手が作り出す料理は、妖怪すらも引き寄せる」

「…………」

「そなたが何者かはわからぬが、陛下の信を勝ち取った事実。心して受け止めよ」

「はい」

「ならば良い」


 ようやく賢孝は、顔立ちに似合った柔和な微笑みを見せてくれた。

 会話が一段落したところで、紫乃は気になっていた事を聞こうと口を開く。


「ところで、皇太子の秋霖しゅうりん様って誰なんですか」

「私も直接お会いした事はないが、秋霖しゅうりん様は先代皇帝と白元妃はくげんぴ様との間にもうけられた一人息子で、体の弱い方だったと伺っている。

 なんでも、幼い頃から病がちで伏せっていて、二十歳の若さで亡くなったとか。先代皇帝の実子は秋霖様お一人で、帝位を継ぐ者がいなくなり、先代皇帝の崩御と共に皇帝の座が空白になった」


 賢孝は息を吐きながら言う。


「その世話係の者がなぜ今更天栄宮を混乱に陥れようなどと考えたのかは謎だが、ひとまずは解決してよかったとしよう。……此度の件では良い働きをしてくれた。礼を言うぞ、紫乃」

 さらっと放たれた言葉に、紫乃は「はい」と言おうとして思わず足を止めた。

「…………え?」

「何を驚いている。そなたの働きに対して礼を言っているのだ」


 見上げると、亜麻色の髪を持つ見目麗しい賢孝がじっと紫乃を見据えながら、至極真面目な顔をして同じ言葉を繰り返しているではないか。 

 礼? を言われたのか? それよりも……。


「…………名前、初めて呼んでくれましたね」


 今まではずっと「小娘」「お前」呼ばわりされていたのが、初めて「紫乃」と呼んでくれた。


「私は、働きに応じて評価をする人間だ。認めよう、そなたは陛下のお側に仕えるに相応しい」

「おぉ……」


 紫乃はなんだか感動した。

 紫乃に対して敵意剥き出しだった賢孝がこのような台詞を口にするなどと、誰が想像できようか。

 賢孝は紫乃から視線を外し、明後日の方向に彷徨わせてから、ポツリと付け加えた。


「…………それにこの稲荷寿司は、美味いからな」


 賢孝は本当に寿司を気に入ってくれたらしく、更に箸を伸ばしてもう一つ稲荷寿司を食べようとする。

 と、弱々しい声が地面から聞こえてきた。


「稲荷寿司…………羨ましいですなぁ。ワタシも食べたい」


 そこにはがくがくと震え続けている野弧やこの姿が。結局この野弧は、油揚げにつられて悪行の片棒をかつがされただけであった。護符で守られている天栄宮の空気が肌に合わないらしく、ずっと居心地が悪そうにしている野弧が何だか可哀想になり、紫乃は賢孝にちらりと目線を送る。賢孝は静かに首を横に振った。


「捕らえた妖怪は処分か封印が妥当。いつどこでまた悪さをするかわからない故、逃す事はできない」


 厳しい処断だ。紫乃はせめてもの慰めにと、稲荷寿司を一つ手にとって野弧の前に置いた。野弧は震える前脚で寿司を掴むと、パクリと一口で食べた。


「うまぁああああ……! さっき食べたものより、うまあぁぁぁ!」

「私が作ったんだ」

「何か、力が湧いてくる気がするのう! あっ、何か、動けるようになった! 怖くない! もうこの場所が、ワタシ、怖くない!!」


 稲荷寿司を食べた野弧は何故か急に元気になり、すっくと立ち上がると腹の白い毛をわっしゃわっしゃと前脚でなでさする。


「ありがとう! アナタの稲荷寿司を食べたら元気になった!」


 そんな馬鹿な。稲荷寿司一つで元気になるはずがない。しかし実際、目の前の野弧は元気全開! といった様子で動き回っている。


「あーあ、紫乃。妖怪を調伏してるにゃあ」


 のんびりした声が聞こえたかと思ったら、両手に稲荷寿司を握り口いっぱいをモゴモゴさせている花見がやって来た。


「見ろよ、ワテの時と同じ。紫乃の料理を一度食べた妖怪は、たちどころに虜になる」


 俄には信じ難い話であるが、確かに花見は紫乃の料理を食べる対価として紫乃に使役されるのを良しとしている。


「でも、何で元気になったんだろう」

「知らね。紫乃の寿司が美味すぎたんじゃにゃい?」


 寿司が美味すぎたくらいで元気になるなら苦労はない。

 何となく紫乃が賢孝を振り返ると、そこには先ほどの穏やかな表情を一転させて鋭い視線で野弧と花見、紫乃を見つめる賢孝がいた。


「一応確認だが、猫又妖怪もそなたの使役する妖怪だな」

「え、はい」

「猫又妖怪」

「花見だにゃあ」

「……花見。この天栄宮で、何不自由なく自由に行動できるのか?」

「にゃあ」

「紫乃。花見の調伏には皇族の血を染み込ませた札を使ったのか」

「いえ。ご飯をあげたらいつの間にか懐いていました」

「…………」


 賢孝は顎に手を添え、これでもかと眉間に皺を寄せながら考え事をする。


「紫乃、そなた…………母親から父親に関して何か聞かされた事は無いのか」


 少し考えて紫乃は首をゆるゆると横に振った。


「何も」

「そうか」

「何か思い当たることがあるんですか?」


 ただならぬ賢孝の様子に今度は紫乃が尋ねるも、賢孝は「何でもない」と口を閉ざして立ち上がった。


「馳走になった。明日には陛下も戻る故、また夕餉ゆうげをよろしく頼む」

 箸を紫乃に返すと、賢孝はそのまま去っていく。後ろ姿を見送った紫乃は、足元で転げ回っている野弧へと視線をうつした。

「さて」


 この野弧。どうしよう。

 見られていることに気がついた野弧は、シュッと立ち上がると華麗な礼をした。


「お世話になります! 紫乃姐さん!」


 まさか妖怪にまで姐さん呼ばわりされるとは思っていなかった紫乃はクラリと眩暈を覚えた。

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