第62話 御膳所特製、稲荷寿司
原因は、門の前に出ている一つの屋台のせいだった。
「さあ、御膳所の御料理番たちが作る、特製の稲荷寿司はいかがかね!」
「こっちに稲荷十個!」
「こっちには二十個だ!」
「はい毎度、ありがとうござい!!」
屋台に詰めかける人を着々とさばいているのは柿色の着物を着て袖を
寿司を買った人が口々に言う。
「いやぁ、陛下のために料理を作る、御膳所の稲荷寿司が買えるなんて、中々粋な試みだなぁ!」
「違いねえ。少し値が張ろうと、ここは是非とも買わねば損ってやつだ!!」
一方で
「ご覧よ。あの柿色の着物を着た人たちの美しいことったら」
「本当。御膳所で働くお人ってのは、見目も麗しいんだねぇ」
「あのひっつめ髪の女の方が凛々しくて素敵だわ」
「私はあの黒髪を玉結びにしているお方がいい。大柄なのにたおやかで、誰よりも女性らしいじゃないか」
稲荷寿司を買いに来ているはずの客は、いつの間にか御膳所の人物査定を行なっていた。
御膳所とは皇帝の料理を作るための場所であり、いくら
それがこうして稲荷寿司を売るというのだから評判になって当然だった。
噂が噂を呼び、瞬く間に伸びる大行列。それをちゃきちゃきとさばくのは柿色の着物を身に纏った、御膳所の人々。滅多にお目にかかれないその人物たちを見て、雨綾の町人たちは興奮を隠せずにいた。
「おーい、姐さん! 追加の稲荷寿司持ってきたぜ!」
「
「なぁに、お安い御用ですよ」
木製の
「それより姐さんは? 大丈夫ですかい?」
「うん、問題ない」
番重から寿司を取り出しながら紫乃は返事をした。
この大掛かりな稲荷寿司販売には、ある一つの思惑があった。
ーー即ち、
紫乃は、花見を餌付けして調伏した過去の経験から知っていた。
妖怪というのはーー案外、美味しいものが好きだと。
特に今回の敵は妖狐。妖狐といえば油揚げが好きだと花見は言っていた。ならば、油揚げを使った稲荷寿司を用意して罠に掛かるのを待とうという寸法だった。
だが、ここで一つ問題が発生する。
それは、どうやって大量の稲荷寿司を作り上げるかだ。
その問題を解決したのは
彼は本日休暇をとっている中でも、
「今から大至急、夕餉の御料理番頭の指示に従って大量の稲荷寿司を作れ」と。
せっかくの休みにのんびりしていた御膳所の人間からしてみれば、なんのこっちゃである。
しかし皇帝の右腕と称される権力者に命じられてしまえば、首を縦に振るほかない。
おまけに賢孝はこうも言った。
「稲荷寿司を作るのに協力してくれた者には、特別褒賞を与える」
賢孝が定時した金額は法外だった。
かくして天栄宮に残って宿舎でダラダラとしていた人間たちはやる気を出し、
次なる問題は、どうやって噂を広めるかだ。
これを解決したのも賢孝だった。
「調達番と運び番を
調達番は日々、雨綾の有力商人や問屋と懇意にしている。だから彼らをひとっ走りさせようという腹づもりだ。運び番というのは肉体労働を主とする労働者で、雨綾の町中から通いで天栄宮に働きに来ている者が多い。だからそうした人々に、馴染みの店や友人、恋人、家族などに話を広める。すると噂が噂を呼び、あっという間に雨綾中に「御膳所の御料理番が作る稲荷寿司が、今日限定で天栄宮の北門にて買えるらしい」という話が広まったという次第だ。
有能。
味方になるとあまりにも有能な賢孝に、紫乃も花見も旦那も
紫乃は少々の恐ろしさと共に、国の権力者の実力の一端を垣間見た。
「にしても賢孝様、太っ腹だよなぁ。私財を切り崩してまでこの稲荷寿司騒ぎを作り上げたんだからよ」
伴代のしみじみした言葉に、賢孝の恐ろしさが凝縮されていた。
賢孝はこの一連の騒動にかかる金額をーー全て懐から捻出したのである。
己の財産を捧げてまで絶対に犯人を捕まえてやろうとするその心意気には、平伏せざるを得ない。紫乃は心の内で、賢孝に向かって頭を下げた。そして何としてでも犯人を捕まえなければと決意を新たにする。これだけの大騒動に発展させて何の成果もなしだと、流石にバツが悪すぎる。
紫乃は美梅や大鈴といった毒見番や給仕番がせっせと稲荷寿司を売りさばく傍らで、うずくまって寿司を渡していた。
本来であれば紫乃も御膳所で稲荷寿司を作るのを手伝いたい。が、そうはいかない事情があった。
「紫乃、妖狐は用心深いから、ワテがいると寄り付かないかもしれにゃい」
「わかった。じゃあ、代わりに私が妖狐を見つける」
「頼んだにゃあ。何かあったらすぐ駆けつけられるよう、なるべく近くで見守ってるから」
「ありがとう」
仮に妖狐の状態でやってくるならば、紫乃にしか見えないだろう。見逃すわけにはいかないので、紫乃は売りさばいている現場にいなければならない。
とはいえ紫乃は給仕には不慣れだ。大鈴のような愛想の良さもない。
よって、しゃがみ込んで
木の番重にはぎっしりと稲荷寿司が詰まっている。
パンパンに膨らんだ黄金色の油揚げの中には、白胡麻と刻んだ
たっぷりの鰹節を使い丁寧に作った出し汁と共に、醤油と砂糖で濃く味付けをした油揚げ。
甘酸っぱく仕上げた酢飯を噛み締めれば、ツンとした辛味が鼻から抜け、胡麻のプチプチとした食感が感じられる。
一口食べればやみつきになる、特製の稲荷寿司である。
「ねえ、次の番重をおよこしよ!」
「はいはい、今渡す」
額に玉のような汗を浮かべた美梅に声をかけられ、紫乃は動いた。
昨夜一晩天栄宮を徘徊していたと思われる美梅は、この騒動を収める手助けをしたいと自ら手伝いを買って出て、率先して稲荷寿司を売っている。
ほぼ休んでいないはずの彼女は、疲れを感じさせない動きと笑顔で客の相手をしており紫乃は内心で舌を巻いた。
出会い頭に決裂してしまったので知らなかったが、美梅はかなり仕事ができる人間だった。
(そもそも有能でなければ御膳所では働けないか)
皇帝の食事をお出しする重要な役職。そんな仕事に就いている者が無能であるはずがない。
そう思い至った紫乃は、新たな番重を美梅に渡そうとしてーー動きを止めた。
番重のそばに一匹の狐がうずくまっている。
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