第57話 美梅の話

美梅みうめ……?」


 想像だにしていなかった名前を前にして、紫乃たちは固まった。

 旦那はこくりと首を縦に振る。


「最近疲れているだろうから、気分転換に舐めるといいと言われて貰ったんだ。まさか媚薬とは思わず舐めてしまって……すぐに異変に気がついたからあの程度で済んだものの、舐め切ってしまっていたら大変だった」


 旦那はぶるりと体を震わせると両腕で体をかき抱く。そして縋るような目つきで紫乃達を見つめた。


「なあ、どうして美梅は俺にこんな飴なんぞくれたんだ? この飴は、ただの媚薬なんかじゃない。舌にピリリときて、脳が支配されるようで……暴力的な思考に支配されそうになった。どうにかなりそうだった」


 紫乃は旦那の話を聞き、顔をしかめた。

 毒味番の美梅と紫乃は一度しか顔を合わせた事がない。

 この御膳所に来たばかりの時、紫乃の料理なぞ食べられないと言った美梅に「なら毒味は自分でやる」と紫乃が啖呵を切ったので、それ以来美梅たち毒味番はこの夕餉ゆうげくりやに寄り付かなくなっていた。なので正直、紫乃には美梅がどんな人物なのかがわからなかった。

 しかし、旦那が美梅をどう思っているのかはなんとなくわかる。

 おそらく好意を寄せているのだろう。

 以前、木の影から美梅を見つめ、作った菓子を渡そうか渡すまいか迷っているのを目撃した事があるからだ。あの時は結局、紫乃が旦那を木の影から押し出して上手く菓子を渡せたのだが、何か進展があったのかと思えばこの有様である。

 正直紫乃には何がどうなっているのかが全くわからない。

 紫乃が何も言えないでいると、口を開いたのは大鈴だいりんだった。


「旦那様、落ち着いてくださいませ。おそらく美梅は、旦那様との距離を縮めたかったんでございますよ」

「俺との、距離を……?」

「左様でございます。美梅が旦那様を憎からず思っているのは周知の事実でございますから」

「そ、うなのか?」


 旦那は信じられないとでも言いたげに伴代ばんだいを横目で見る。すると伴代も頷いた。


「あぁ。知らんのは当人である旦那だけだよ。さっさとくっつきゃあいいのにって、御膳所中の誰もが思っていた」

「そうか……全く気がつかなかった」

「だから痺れを切らした美梅が旦那様との距離を縮めようと飴を渡した、と考えるのが自然かと」

「こんな凶悪な飴でか? 少し舐めただけで思考が焼き切れそうになったぞ」

「…………」


 旦那の疑問に大鈴は困って口をつぐむ。


「確かに、思いを成就させるためとはいえやりすぎだな」


 伴代も腕を組み首を捻って旦那の言葉に同意する。紫乃も疑問が浮かんだ。


「そもそもこの飴、どこで手に入れたんだ? 妖術が使われているなら普通に売ってるものじゃないだろ」

「用心深いはずの毒味番の美梅が、このようなものを旦那様に渡すなんて只事ではない気がしますね」


 大鈴の言葉に伴代も賛成した。


「あぁ。あいつは食べ物に関しては人一倍神経質で過敏だ。意中の旦那にあげるものならまず自分で味を確かめてからにするだろうし、異変があるとわかったら差し出す真似はしないだろう。変だな」


 妙な点しかない話に、皆が押し黙った。

 紫乃は美梅をよく知らないが、確かに毒味番を努める人間が味見もしないで飴を想い人にあげるというのは違和感がある。


「駄目だ、考えてもわからない。直接美梅に話を聞きに行こう」


 紫乃は言って、立ち上がる。


「大鈴、美梅がどこにいるかわかるか?」

「この時間なら宿舎でお休みになっていると思います。もう時間も遅いので……」


 確かに、夕餉が終わったこの時間はもう遅い。


「仕方ない。明日、美梅を捕まえて問いかけるとしよう」


 使用人宿舎にいるならば朝一番で宿舎の厨ででも待ち構えていれば確保できる。簡単だ。

 旦那は小上がりに拳をつくと深々と頭を下げる。


「……ありがとう、助かるよ。お前たちに相談して、よかった」

「なぁに、同じ御膳所で働く仲間だろ。気にするなよ」

「あら、伴代様、さすがですわね」

「夕餉の御料理番頭も、妙な事を相談してしまいすまない」

「いいんだ、それに私にも思うところがある」


 紫乃は小上がりの上に未だ置かれたままになっている飴を、紫色の瞳でじっと見つめた。


「…………食べ物を使い、人を害するような奴がいるならば、私は絶対許せない」


 それは紫乃の、料理人としての矜持だ。

 料理を愛し、料理に敬意を払う紫乃が、食物を利用して危害を加えようとする人間をどうして許せるだろう。おまけに妖術まで関わっているというならば、只事ではない。

 紫乃は奥歯をぎりりと噛み、まだわからない犯人への憎しみを募らせた。


+++


「降りて来ないな」


 翌朝、予定通り起きてすぐに宿舎のくりやで美梅がくるのを待ち構えていた紫乃だったが、美梅がやってくる気配がまるでない。もはや自分達の朝餉あさげを取り終わり、あとは美梅が降りてくるのを待っているだけの状態だ。

 宿舎の厨は慌ただしい。

 凱嵐がいらんがいないので御膳所は休暇状態だが、他の仕事はそうもいかない。今日も今日とて大勢が立ち働き、天栄宮てんえいきゅうの機能が麻痺しないようにしている。

 暇な紫乃はやってくる使用人たちに朝餉を準備する係となっており、今も羽釜はがまから炊き立ての米を丼に盛り付け、上に煮詰めた味醂みりんと醤油で味付けした薄切りの肉を乗せているところだった。ちなみに味噌汁も作ってある。本日は菜花と切り干し大根を具材にしていた。意識して野菜を取らないと、雨綾病うりょうびょうにかかる可能性があるからだ。

 隣にいる大鈴が給仕を手伝いながらもソワソワする紫乃に助言をくれる。


「休暇なのでまだ寝ているのかも知れませんよ」

「ならもう、面倒だから叩き起こしに行こう。ほら、朝餉だ」

「おぉ、どうも」


 紫乃は今しがた出来上がった朝餉を待っていた使用人に手渡すと、使用人宿舎の二階へと上がっていく。


「大鈴は美梅の部屋を知っているか?」

「えぇ、私の部屋の二つ隣……こちらです」


 大鈴が示した部屋はふすまがきっちりと閉まっている。紫乃は部屋の前で立ち止まると、声をかけた。


「美梅。休みのところを悪いがちょっと聞きたい事があるんだけど」

「美梅、お休みのところごめんなさいね。旦那様の件で話があって」


 大鈴と二人で声をかけると、襖の奥で人が動く気配がした。そして夜着のままの女が一人、襖を開けて紫乃と大鈴を見る。


「あら、大鈴じゃないの。休みだっていうのにこんな朝早くからどうしたのよ」


 どうやら大鈴の顔見知りらしい。


「ちょっと美梅に用事があって」 

「ふぅん? 珍しいわね。美梅なら昨日の夜から帰ってないわよ」

「何ですって? どこへ行ったか知っている?」

「うぅん。昨日の昼餉ひるげの毒味が済んだ後から、どっかに行っちゃったのよね。なーんか、配るものがあるとか言って」


 この言葉に紫乃と大鈴は顔を見合わせた。


「ま、今日は休みなんだし、美梅も羽を伸ばしたいんじゃない? 何せこんな仕事してると、いっつも神経張り詰めちゃうからさぁ。じゃ、もういいかしら? 私もう一眠りしたいのよ」


 言って女が襖を閉めた先で、紫乃は困惑した。


「どういう事だろう? 帰ってない?」

「美梅とはそこまで親しくないので、行き先に心当たりは無いのですが……」


 いきなり捜査が難局してしまった。

 途方に暮れる紫乃は、すがるような気持ちで足元にいる花見を見た。

 女子宿舎にいるため猫形態でいた花見は紫乃の視線を感じ取り、紫乃を見上げる。


「ワテに任せておけだにゃあ」

「花見……」

「あの飴には、妖気が混じっていた。つー事は、同じ妖気を探れば、きっと美梅のとこにたどり着けるにゃあ」

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