第56話 昼餉の旦那

「………………大鈴だいりん夕餉ゆうげの、御料理番頭……っ」


 柿色の着物に藍色の帯を締めて白い前垂れを身につけた、黒髪を短く刈ったその男は、胸元を抑えてふらつく足取りでくりやの中にふらふらと入って来る。


昼餉ひるげの旦那?」

「旦那様? いかがしたのですか?」


 異様に上気した頬で全身ダラダラと冷や汗をかいている。尋常ではない様子の男は紫乃と同じく御料理番頭の職についている、通称『昼餉の旦那』と呼ばれる人物だ。

 寡黙で冷静。同じ役職とはいえ食事ごとにくりやが分かれているので、話すのは朝の食材の仕入れの時くらいである。わざわざこうして夕餉の厨に来るのは珍しいし、しかもどうみても普通の状態ではない。

 旦那は厨の真ん中で膝をつくと、胃のあたりを抑えて四つん這いにうずくまってしまった。

 あまりに具合の悪そうな旦那に駆け寄った紫乃は、背中をさすりながら声をかけた。


「大丈夫か? 医官のいる部屋に行ったほうがいいんじゃないか」

「いや、大丈夫だ……原因はわかっている」

「ですが、どうして私と紫乃様をお呼びになったんですか?」


 大鈴もそっと旦那に駆け寄ると、疑問を呈した。


「ちょっと相談したいことが、出来た…………っ、あまり、近づかないでくれるかっ」


 息も絶え絶えの旦那は、自分で呼んだくせに身を捩って紫乃と大鈴を振り解こうとする。

「うっ」と短く声を漏らした旦那の額からは汗が滴り落ちていた。

 これはまずいんじゃないか。様子を見ていた伴代ばんだいが、踵を返して言う。


「俺、医官を呼んで来ます」

「いい……っ、やめろ!」

「だが……」

「いいんだ!」


 騒ぐ旦那の目は血走っており、いよいよ持ってどこかおかしい。

 先代の夕餉の御料理番頭であり、旦那とも親しい伴代ばんだいが膝をつくと言い聞かせるように旦那へと話しかける。


「今の旦那は誰がどうみても普通じゃない。医官を呼んでくるぞ」

「やめろ……っ、大ごとには、したくないんだ!!」


 旦那は厨から出て医官を呼びに行こうとする伴代の胸ぐらを掴んで抑えにかかった。勢いよく体当たりされた伴代は、たたらを踏んだが堪えきれずに体勢を崩す。旦那は伴代を行かせるものかと馬乗りになって押さえつけた。 


「おい、旦那。落ち着いてくれよ!」

「いいんだ! もうだいぶ抜けているんだ!」


 騒然とする夕餉の厨。

 普段とは異なる、旦那の変貌ぶりに唖然とする面々。伴代一人を抑えてもここには他の御料理番たちがいる。そのうちの数人が旦那を伴代から引き剥がそうとし、数人が医官を呼びに走ろうとする。


「やめろ……やめてくれ!」


 旦那は苦しそうに声を腹から搾り出した。

 伴代から降りると、今度は厨から出て行こうとする他の御料理番に向かって突進する。


「ひっ、ひぃぃ!」


 旦那に恐れをなした御料理番が逃げるように厨から出て行こうとした瞬間ーー。


「あ、ごめんにゃ」

「花見!」


 緑と白の縦縞の着物を着て、桜色の帯を締めた十歳の儚げな美少年が御料理番にぶつかった。

 線の細い美少年はびくともせず、反対にぶつかった御料理番の方が吹っ飛ばされて厨に逆戻りして尻餅をつく。


「ん? なんか取り込み中だった?」


 厨の様子をキョロキョロと見た花見は呑気にもそんな感想を漏らす。


「あれ、お前……隣の厨の人間だろ。何の用だ」


 朝の弱い花見は食材の調達に同行する事はない。おそらく天栄宮てんえいきゅうをうろついている時、旦那を一方的に見知ったに違いない。首を傾げた花見は次の瞬間、目をスッと細めた。


「お前、体の中になんか変なもん混じってるぞ」


 この花見の言葉に、旦那は体をこわばらせた。様子の変わった旦那を見て紫乃は花見に問いかける。


「変なもん? 一体何だ?」

「んー、多分……妖術で作った……なんかの食べ物」

「…………?」


 予想外の花見の答えに、厨中の視線が再び旦那へと集まる。

 旦那は居心地悪そうにその場に座り込んだまま小刻みに体を震わせ、それから床に手をついた。


「…………頼むから、話を聞いてくれ」


+++


 夕餉の厨は扉が閉め切られた。

 中にいるのは紫乃、花見、伴代ばんだい大鈴だいりん、それに昼餉の御料理番頭である通称「旦那」。

 他の御料理番は帰らせた。悪いが、今日の自分達の夕餉は使用人宿舎の方で取ってもらう。

 小上がりに輪になって座った五人は、旦那の話を聞こうと待っていた。

 大鈴が茶を淹れてくれたのでそれを皆で飲む。厨に来た当初より落ち着いた顔色の旦那は茶を一気に飲み干すと湯呑みを盆の上に置き、懐に手を入れると何かを取り出した。


「……まず初めに、これを見てくれ」


 旦那の手のひらに乗っているのは、和紙である。

 かさりと和紙の包みを開くと、三つの人差し指の先ほどの細長い球体が現れた。琥珀色のそれは密度が高く、中心に行くほどに色の濃さが増していた。

 紫乃は首を傾げ、旦那に質問をした。


「飴か?」

「そうだ」

「匂いを確かめてもいいか」

「ああ」


 許可をもらったので、つまみ上げて鼻先に飴を近づける。

 特に変な匂いはしない。伴代と大鈴も同じく匂いを嗅いでみたが、これと言っておかしな感じはしないようだった。


「普通の飴に見えるけど、舐めた感じどうだったんだ?」

「…………林檎、柘榴ざくろ無花果いちじく、それからおそらく甘草かんぞう刺草いらくさも入っている」

「何っ」

「そりゃあまた……!」


 旦那の答えに紫乃と伴代が目を丸くした。大鈴は話についていけずに首を傾げる。


「あの、それらの材料がどうかしたんですか?」

「どうしたもこうしたも……全部、人を惑わす類の材料だよ」

「いわゆる媚薬ってやつですよ、大鈴さん」

「まぁ、媚薬?」


 大鈴は今度こそ目を見開き、驚きをあらわにした。

 旦那もこくりと頷く。

 媚薬が何だかわかっていない花見であるが、その目つきは胡乱で、まだら模様の耳を伏せながら飴を凝視している。


「ワテからすれば、食材云々よりも混じっている妖気の方が問題だにゃあ」


 歯茎を剥き出しにしてフーッと唸る花見。

 紫乃は小粒の飴を紙包の上へと戻すと、じっと見つめて考えた。

 これでもかと使われた、人を惑わし思考を鈍らせる類の食材。花見曰く、妖気さえも練り込まれているという。どう考えても普通の代物ではない。


「旦那、これを誰から貰ったんだ?」

「……………」


 紫乃の質問に旦那はびくりと体を震わせた。細い目を左右に忙しなく泳がせ、一旦落ち着いたはずの汗が再び額を流れ落ちる。

 辛抱強く答えを待っていると、旦那の震える唇が開かれた。


「誰にも言わないと約束してくれるか」

「まぁ、それは答え次第だけど」


 例えば凱嵐がいらんの命を狙っているという刺客の仕業であるならば、黙っている訳にはいかない。

 どんな名前が飛び出るか。


「これは……毒味番の美梅みうめから貰ったものだ」


 固唾を飲んで見守る一同の前、告げられた名前は予想外の人物のものであった。

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