第55話 紫乃、突然の休暇を言い渡される
「休暇ですか?」
「あぁ。地方へ行く用事が出来た。明後日には戻る予定だ」
「左様ですか」
この国の皇帝である
彼がいるのは大勢の臣下にかしづかれる絢爛豪華な御殿の広間でも、美しい姫がたおやかに微笑みながら食事の相手をする皇帝のための女の園、奥御殿でもない。
隣で夕餉を共にしているのは皇帝の右腕と称される美貌の男、
そして真向かいに座っているのは二百五十人を要する御膳所でたった三人しかいない役職、
わずか十六歳の紫乃は、成り行きから皇帝の住まう
ただし、御膳所に留まろうと思ったのは自分の意志である。
理由としては、紫乃の母がかつてこの
山で母と二人暮らしをしていた紫乃は母の過去を何も知らない。
自分の知らないあれこれを知るために、紫乃は御料理番頭として天栄宮に勤め続けると決めた。
そんな紫乃の仕事はといえば、皇帝の
目の前で紫乃の作った料理を実に美味しそうに食べる皇帝陛下。
別段、
「今度は鹿狩りだ」
「それはお気をつけくださいませ」
これは本心からの言葉だ。何せ紫乃と凱嵐の出会いは、山で鷹狩りをしていたところを政敵に射すくめられ、川に落ちて死にそうになっていたところを助けた、というものだったのだ。
「鹿狩りにかこつけて、また命を狙われないといいですね」
「それは無い、大丈夫だ。今度の鹿狩りの相手は古くからの知り合いでな。共に妖怪討伐をした仲なんだ。あいつが俺を裏切るというのはあり得ん」
「それなら良いのですが」
「何だ、俺が怪我をするのが心配か?」
「はい」
紫乃の返事が予想外だったのか、凱嵐は箸を咥えたまま目を見開いて紫乃を見つめる。
「陛下がいなくなると、調べ物が滞るので」
「……ああ、なるほど……」
凱嵐はあからさまに落胆して肩を落とした。
その様子が面白くて、紫乃は思わす口角をあげた。
調べ物というのは、紫乃の母親についてである。紫乃の母は
この謎を解き明かすため、今は凱嵐が同じく影衆の一人である
仮に凱嵐が暗殺されてしまえば、全てが有耶無耶になってしまうだろう。
なので紫乃としては、凱嵐が死んでしまうと困るのだ。
「それに……陛下が私の料理を食べる様子を見ているのが、結構好きなので」
「は?」
「麦飯のお代わり、お持ちしましょうか?」
「ちょっと待て、お前今なんと言った? もう一度申してみよ」
「嫌です」
紫乃はさっと立ち上がると、麦飯を盛るために小上がりから降りてゆく。
「なあ、今の聞いたか、賢孝? 紫乃が俺を好きだと」
「陛下が食事をお召し上がりになる顔が好きだと申しておりましたよ」
「同じであろう」
「そこには深い溝があると私は思いますが。と言いますか、陛下。こんな小娘に
賢孝のつれない返答に、凱嵐は顔を顰めて座ったままに一歩距離を置いた。
「お前は面白みがないな」
「陛下のお戯れが過ぎるのです」
一体どこまでが本気なのかよくわからない皇帝であるが、紫乃は全てを戯言として聞き流すことに決めている。本気で取り合うだけ無駄であった。紫乃の料理を気に入っている、それ以上でもそれ以下でもないのだと紫乃は結論づけていた。
凱嵐は賢孝から望む返答を引き出すのを諦めたのか、二杯目の麦飯を食べてから平皿に箸を伸ばした。
「この
「ありがとうございます」
一晩水に浸して
美味い美味いと言ってくれる凱嵐はいい。問題は隣の男である。
紫乃はちらりと凱嵐の横ですました顔で
帝国皇帝の懐刀、執務上の右腕、賢孝。
凱嵐が男らしい偉丈夫であるならば、賢孝は中性的な顔立ちの美丈夫だ。
国で最高権力を持つ皇帝に信頼されている執務補佐官である賢孝は、夕餉時に厨に現れては凱嵐と食事を共にしている。きっと凱嵐が羽目を外しすぎないよう見張っているのだ。
しかし、既に紫乃の作る料理を食べ始めて十日ほどが経っているが、彼の口から「美味い」という言葉が出たことは一度もない。
「食事など腹が満たされればそれで良い」と考えているらしい賢孝と紫乃の相性は最悪である。紫乃はこの男から「美味い」と言わせるために密かに奮闘しているのだが、なかなか手強い相手だった。
そもそも食の好みがよくわからない。旧知の仲であるらしい給仕番の
甘いものが好きだ、という情報が入った時には気合を入れて饅頭など作ってみたが、特に感想はもらえなかった。後から凱嵐がこっそりと教えてくれたのだが、「あいつは甘いものが好きというより、冷めても味が変わらないから食べているだけだ」とのことだった。
なんて料理を作りがいの無いやつなのだろう。
しかし、凱嵐に付き従って日々の夕餉を共にする以上、この作りがいの無い人間にも作らなければならないのだ。そして作るからには美味いと言ってもらいたい。紫乃の料理人としての矜持がかかっている。
そんな紫乃の思いとは裏腹に賢孝は食事について感想を漏らすことはおろか、紫乃を見向きもしなかった。
「馳走になった。今日も美味かったぞ」
「陛下、参りましょう」
素直に美味いと言ってくれる凱嵐とは異なり、今日も今日とて賢孝は紫乃の顔も見もせずに立ち去っていく。
二人を見送った後、小上がりを見た紫乃はぎりりと歯噛みをした。
綺麗に完食されているのがまた何とも言えない。
「くそう、あの男、絶対ぎゃふんと言わせてやる」
「でも、明日はお越しになりませんよ」
「そうだった!」
膳を下げる
凱嵐が来ないのであれば賢孝だってやって来ない。だってここは皇帝のために食事を作る御膳所なのだから。
「まあまあ、姐さん。賢孝様から食事についてのお褒めの言葉をいただくのは、なかなか骨が折れますぜ」
「
「いーや、全く」
紫乃は隣にやってきた先代の御料理番頭の伴代に聞いてみたが、渋い顔で首を横に振っている。
「賢孝様、本当に食事に興味がないんですよきっと……」
「…………」
あれほど食事に執心している凱嵐と長く一緒にいて、なぜ興味がないままでいられるのだろう。純粋な疑問である。
「まあ、一旦賢孝様の事は忘れましょうや。明日は休みですよ! 姐さん、何します?」
「そうだな、何しようか」
「
伴代は休みが嬉しいのか、ウキウキしながら休暇の計画を話してくれた。
周囲の他の御料理番たちもどこか楽しそうで、弾む口調で何をしようかと話し合っていた。
「あら、紫乃様。伴代様だけでなく、わたくしと一緒に小物屋や化粧屋なども周りましょうよ」
横から大鈴がやって来てそんな風に口を出してくる。
「紫乃様の肌、雪のように真っ白でお綺麗だから薄桃色の頬紅などが似合うだろうって、ずっと思っていたんです」
言って大鈴はうっとりと紫乃を眺めた。
休暇にどこに行き何をするかと盛り上がる夕餉の厨。
ーーしかし、突如一人の男が転がり込んできて、その雰囲気はあっという間にぶち壊された。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます