まじないの飴
第54話 これは特別な一品
「はぁ……」
毒味番の
ひっつめにした黒髪からはらりと落ちた一房の毛を人差し指に巻き付けて遊ぶ。
「旦那ってば、いつになったらアタシに手を出してくれるのかしら」
同じく御膳所の御料理番頭を勤める、通称「
寡黙だが実直、皇帝に差し出すその料理には彼の真心が篭っていて、美梅は彼の作る料理が好きである。
いつ毒にあたって死ぬかもわからない美梅だが、この昼餉だけは率先して毒味をしていた。
御膳所内で毒味番というのは特殊な立ち位置だ。
今代皇帝は宮中に敵が多い。理由は彼が
先代皇帝が崩御してから
白元妃からすれば腕っ節が強いだけの田舎皇族が土足で
本来ならば帝位に就くのは白元妃と先代皇帝の間に生まれた皇子のはずだったのだ。
先代皇帝が崩御するよりも前に不幸にも命を落とした皇子に代わり、混乱する宮中を取りまとめていた白元妃様。女だてらに権謀術数渦巻く宮中を操縦し、狸じじい達を取りまとめたのは凄いと素直に美梅は思う。
なのに、唐突にやってきた凱嵐があっさり皇帝になってしまってはやりきれない気持ちになるのも無理はない。
「あーあ、いっそ奥御膳所で雇ってもらえないかしら」
現在の御膳所より奥御膳所の方が危険は少ないはずだ。白元妃に毒を持って殺そうなど、今代皇帝は考えるはずがない。
(……いや、待って。
美梅ははたと考えを変えた。
柔和な笑みを讃える賢孝は一見して事を荒立てない穏便な性格の持ち主に見えるが、とんでもない。腹の中が真っ黒な、冷徹で猜疑的な人物である。
御膳所の毒味番の数を異常に増やした張本人である賢孝は、陛下の命が守れるならばその他の人間の犠牲などどうでもいいと言わんばかりの人間だ。あれは敵に回すと恐ろしい。秘密裏に邪魔者を始末する策があれば迷わずに実行するタイプである。
例え美梅が奥御膳所に移動しても、結局は毒味番が抱える危険性は変わりないだろう。
(やれやれ、嫌な仕事だよ)
美梅は先ほどとは違う意味で息をつく。
(さっさと結婚して、辞めちまうのが得策だ)
そのためには旦那を落とさなければ。
美梅の見立てでは、旦那も美梅に気があるのは間違いない。しかし四十歳近くまで独身を貫く旦那はなかなか奥手であり、決め手に欠けていた。
美梅とてもう二十七歳。初心な小娘でもあるまいし、手作りの和菓子をもらって喜ぶような年齢はとうに過ぎている。
もっと手っ取り早く旦那を落とす方法はないものか。
そう思案しながら歩いていると、後ろから小さく声をかけられた。
「ん?」
「もし……そこに美人様」
「アタシの事かい?」
「そうだよ。他に誰かいるか?」
言われて周囲を見回せば、確かに人っ子一人いなくなっていた。
「美梅さんというんだね」
美梅の腰あたりまでしか背丈のない人物は、しわがれた声で美梅を呼ぶ。
知り合い? 名乗ったっけ? いいや、こんな特徴的な人物、知り合いにいない。
声の感じからして女だろう。顔はかぶりものをしているため見えないが、女物の着物を着て、皺皺の手に杖をついている。
美梅は数歩後退り、老婆から距離を取って話しかける。
「アタシに何の用?」
「なぁに、恋のお悩みがあるようだったからね。手伝ってあげようかと思って」
そして老婆は懐に手を突っ込むと、そこから紙の包みを数個取り出した。
「これを意中の相手にあげてごらん。すぐにあんたの虜になる」
「何よ、これ」
「飴じゃよ、飴。婆あの特別なまじないの篭ったのう」
「怪しすぎるでしょ」
雰囲気も言動も何もかもが胡散臭い老婆の差し出してくる飴を、どうして美梅が受け取れようか。
美梅は曲がりなりにも
見ず知らずの老婆が渡してくる飴を簡単に受け取るはずがない。
「悪いけど、アタシ急いでるんだよ。じゃ」
踵を返してこの場を立ち去ろうとする美梅だったが、次の瞬間には老婆が目の前に迫っていた。
「ひっ……!」
今、確かに老婆に背を向けたはずなのに、なぜ前にいる?
人間離れした老婆の動きに美梅が恐れて短い悲鳴を漏らすと、老婆は被り物の隙間からぎらつく赤い瞳を覗かせる。老人のものにしてはあまりに力強い瞳の色に、美梅はそこ知れぬ恐怖を感じた。
「つれないのう。怖がらんでもええんじゃよ。私はあんたの味方じゃ。ほれ、ほれ。受け取れ。たくさん作ったんじゃからのう」
「やめっ……いらないわよ!」
「ほう?」
老婆の赤い眼光が鋭く光ったかと思うと、美梅の体が石のように硬直する。
「ほれほれ」
老婆が美梅の目の前で腕を振ると、ふわりといい香りが漂ってきた。
頭に
あぁ、アタシ一体何に怯えていたんだっけ。
「よしよし、それじゃ、この飴、お前さんに渡しておこうのう」
美梅の手を取った老婆が、右手に何かを乗せてくる。カサカサした質感のそれを美梅はされるがままに受け取った。
「たーくさん作ったんじゃよ。あんたと同じく恋に悩む女子に分け与えてやるとええ。ほれ」
老婆が次々に美梅の手に何かを乗せてくる。山のようにものが乗った美梅の手を、老婆が最後にぎゅっと握る。
「じゃ、頼んだぞい」
それを最後に、老婆はくるりと背中を向けるとスタスタとどこかへ歩き去ってしまった。
「ねえ、あなた大丈夫?」
肩を掴まれゆすられると美梅は弾かれたかのように我に返る。
「え? あれ、ここ……」
見回すと、美梅が立っているのは
「往来でぼうっと突っ立っていると危ないわよ」
「え、ええ、ごめんなさいね」
言って美梅が歩き出そうとすると、右手の間から何かが地面に落ちていく。
「何か落ちたわよ」
女性が拾ったのは、茶色い紙包み。差し出されたそれをありがとう、と言って受け取る。
(…………? アタシ、こんなもの持っていたっけ)
確か買い物に来たはずだけれど。不思議に思い包みを開けて中身を確かめてみると、そこには人差し指の爪ほどの琥珀色の飴が入っていた。
(あぁ、飴だ。そう、そうだったわ)
美梅は思い出した。
この飴は、特別なもの。意中の相手に渡すと想いが通じ合うまじないの飴。
美梅は右手を胸の前に上げると、左手でそっと包み込んだ。
大切な大切な飴。
今から美梅は、これをあの人に渡しにいかなければならないのだ。
(そうよ…………そうだったわ)
美梅は向きを変え、歩き出す。
自身の勤め先であり、愛しい人が待っている天栄宮に向かって。
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