第35話 動の凱嵐
「
朝議の終わった昼下がり、正殿に戻った凱嵐は
ぼんやり見下ろす膳の上では、すっかり冷め切った食事の数々が並んでいた。
箸を手に取り、時間が経って固まってしまった
梅を模したお
そんな凱嵐が残念に思っていることを知ってか知らずか、賢孝はお麩を口にしてから凱嵐の呟きに疑問を投げかけた。
「何か気になる点がおありでしょうか。……もしや、
「そんなもの信じているわけがないだろう」
「それならば良いのですが。では、一体どうされたんですか?」
「いや、ここ数年で流行り出したというのが気になっていてな」
都で病が流行っているという話は時々朝議に上がっていた話題だった。初めは些細な人数だったはずだが、気がつけば徐々に数を増やし、いつの間にかこの
これ以上放っておけば民の不安も広がるばかり、いい事は何もない。
ここらで本腰を入れて原因を探らねばならない。
「患者を診察した医師の話では、大半が働き盛りの男たちであると。出稼ぎで
「出稼ぎ労働者用の長屋で蔓延している病という線は?」
「十分にあり得る話でございます」
伝統だか格式だか知らないが、そんなものは犬にでも食わせてしまえと凱嵐は思う。
飯の事などなんとも思っていなさそうな
「疾患した者は都外れの小屋に集め、順次帰郷を促しているとの話」
「帰郷した先で病は流行っておらんのか」
「今のところ、そうした訴状は上がっておりませんね」
「普通、流行病を患えばあっという間に農村部に広がるだろう」
不可解な話に凱嵐は首を傾げる。
衛生状態や食生活は都より農村部の方が格段に悪い。そんな場所に病を患った人間が帰れば即座に病が広がりそうであるが、そうではないらしい。
「何故だ」
「医師の話では、
皇都である雨綾には人が多い。
人混みに慣れていない人間が体を壊し、慣れ親しんだ故郷に帰ると治るのでは、というのが医師の推測であるらしかった。
「釈然としないな……」
凱嵐は胡座の上に肘を乗せて考えに耽る。
病気に弱いはずの女子供や年寄りではなく、働き盛りの男たちが次々に罹ってしまうという謎の病気、『雨綾病』。
病気の者が帰っても農村部では同じ病にかかる者はいないという点。
どうも普通の病ではない気がする。
「陛下、お食事はもうお済みでしょうか」
考え込む凱嵐に控えめに声を掛ける者がいた。
「ああ。もう良い」
「では食後の茶菓子をお持ちいたします」
そっと膳を下げた大鈴は、ひとまわり小ぶりの膳を持って戻ってくる。
饅頭の乗った小皿と茶の乗った膳(もちろん毒味済み)を凱嵐と賢孝の前へと置くと、御前を辞去しようとしたので引き留めた。
「
「はい、最近は耳にすることが多うございます。ですが、今のところ宿舎の女人では罹患している者はおりません」
「やはりそうなのか」
「反対に、男性ではちらほら患う者がいるみたいでございますね……幸いにも御膳所の御料理番で罹患している者はいないようですが」
「そこも気がかりだ。御膳所の御料理番といえば、働き盛りの男が多い。なぜ御料理番は病に罹らない?」
凱嵐は大鈴にというより、自分に問いかけるようにして呟く。
しばし俯き考えていたが、頭を振って「駄目だ、わからん」と
「わからん事を考えるのは性に合わん」
凱嵐は畳の上で座って物事を考えるというのが好きではない。
わからないのであれば足を使い、この目で見て確かめるのが一番だ。凱嵐は幼少期よりずっとそうして過ごしてきたし、皇帝になってからも変わらない。
病が流行っているのはここ皇都、雨綾。
患者に会いに行こうと思えばすぐにでも行ける。
「大鈴、
「かしこまりましてございます」
平伏する大鈴を見て苦言を呈したのは賢孝である。
「陛下、この件は私にお任せくださいませんか」
「だが俺もこの雨綾に住まう者として病の現状を把握しておきたい」
「陛下。……万が一陛下が罹患しては大事にございます」
「さてなぁ」
「……御身をもっと大切になさいませ!」
はぐらかす言葉を放った凱嵐に、賢孝は歯を食いしばって言葉を漏らした。
凱嵐は饅頭を手に取ると、それを弄びながら言葉を選んだ。
「賢孝。
「…………」
「俺は豪華な広間で高官たちと顔を突き合わせ、全ての物事を決めるのを良しとしない。もっと現状を見て決めたいんだ。俺がそういう性格だという事を、お前は重々承知しているだろう?」
賢孝はいつも浮かべている笑みを引っ込め、むっつりと無表情で黙り込んでいた。
「……護衛は……」
「
皇帝直属の隠密である影衆の名を出せば、曖昧ながらも頷いた。紫乃の見張りにつかせるはずだった流墨だったが、天栄宮に連れ帰ったのでその役目は不必要になっていた。
代わりに紫乃の素性を探るよう命じているのだが、数日その任務がなくなっても不都合はない。
「であれば、まあ……ですがくれぐれも、病人の収容されている場所には近づかないでください。医師に話を聞く程度にとどめおくと誓ってください」
「あぁ、そうする」
心配性の賢孝だが、凱嵐の行動を本気で阻害するのは稀だ。付き合いの長い賢孝には、動いている事こそが凱嵐の性分であると十分すぎるほど知っている。
話がまとまったところで凱嵐は掴んでいた饅頭を齧った。
餡子の甘ったるい味わいが口いっぱいに広がる。
酒を好む凱嵐はあまり甘いものが得意ではなかった。
賢孝は実に上品に饅頭を口に運ぶと、ゆっくりと味わうように咀嚼している。
ふと気になった凱嵐は賢孝に尋ねてみた。
「お前、
「甘いものは冷めていても美味しいからですよ」
その答えに、やっぱりお前も冷めた飯が嫌なんじゃないかと思った凱嵐だったが、それは口に出さずに残りの饅頭を一気に頬張った。
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