第36話 紫乃、都の食事に興味を示す

「何? 夕餉ゆうげはいらない?」

「はい。陛下が先ほどそうお伝えするようにと」

 大鈴だいりんに言われた言葉に紫乃は面食らった。

「急すぎるな……もう下拵したごしらえに入っているというのに」


 凱嵐がいらん一人のために十人前用意する必要があるので、夕餉とはいえ支度は昼から行われている。まあ十人前のうち一膳は毒味用だし、残る九膳も全てを凱嵐が平らげるわけではない。食べずに手付かずで残る数膳は弁当にして役人に売りつけているので純粋に凱嵐がいらん専用の膳ではないのだが、それでも十人前を作る必要があるのに変わりない。

 唐突に告げられた夕餉ゆうげがいらない発言に、紫乃はどうしたものかと考える。するとそれに反応したのは伴代ばんだいだ。


「あぁ、よかったじゃないですか、姐さん。休みですよ」

「休みって、そんな悠長な」

「いいんですよ。御料理番ってのは基本的に休みのない仕事でしょう。だからこうして陛下から『要らない』と言われない限り自由はないんです。御料理番ってのは結構大変な仕事で、饗応きょうおうの要望なんかも降ってくるんです。そうすりゃ朝餉あさげ昼餉ひるげの人員も総動員して、陛下のみならず貴賓の料理も作らなきゃなりません。休める時に休んでおくのが正解ですよ」

「そういうものなのか」

「そういうもんです。俺も若い時には休みなんぞいらんと思っていましたけど、紅玉こうぎょく様に言われたんですよ。『休める時に休まないと体がもたないぞ』って」


 言って笑う伴代ばんだいを見ていると、紫乃は肩に入っていた力が抜けるのを感じる。

 確かに、母ならそう言っているだろう。


「じゃあ、そうする」

「どうします? この豪勢な食材で、自分達の夕餉ゆうげでもつくっちまいますか?」

「うーん……」


 それも楽しそうだが、せっかく休みならば紫乃には一つやりたい事があった。


雨綾うりょうに出て、飯を食べたいなぁ」


 明け六つから食材の選定をし、昼からは夕餉の準備。終わってからは自分達の食事をして、後片付け。それで一日が終わってしまうので、紫乃には雨綾うりょうに出かける暇がない。

 きらびやかな皇都に住む人たちが何を食べているのか、興味があった。


「なら、俺が案内しましょうか」


 伴代ばんだいが案内を買って出てくれたが、紫乃は首を横に振った。


「適当に自分で見て回るよ」

「そうですか。なら、天栄宮てんえいきゅう出てすぐよりもちょっと行ったところにある『大市』がおすすめですよ。出店も多いんで、見ているだけで楽しめます。それから、出るなら着替えて行った方がいいですよ。柿色の着物に藍色の帯は、一目で天栄宮てんえいきゅうの上級役職者だとわかります。物取りとかに狙われるかもしれません」

「ありがとう。今日の皆の夕餉ゆうげ伴代ばんだいに任せる」

「はい、お任せください」


 いい笑顔で請け負う伴代と料理番たちを残し、紫乃はくりやを出た。

 伴代の忠告に従うべく、着替えをしようと一旦自室に戻る。部屋に入るとそこには、部屋でダラダラする猫姿の花見がいた。腹側を上にして大の字で寝そべる姿は、完全に野生を失った猫の姿である。こんな状態で外にいては、たちまち野犬や他の猫に襲われてしまう。

 しかし本物の猫ではない花見にとってはどうだっていい些事だった。彼は寛ぎやすい格好でいるだけだ。

 着物をするすると脱ぎ出した紫乃を見て花見は仰向けのまま怪訝そうに首を傾げる。 


「にゃあ。紫乃、仕事はいいのかにゃ?」

「夕餉は要らないらしい。休みになったから、雨綾うりょうの美味いものでも食べに行こうかと。花見も行く?」

「行く!」


 それまでのだらけていた姿から考えられないほど、花見の動きは素早かった。

 その場で一回転した花見はいつものごとく十歳ほどの人間形態に変化する。緑と白の縦縞模様の着物に、桜色の帯。頭頂部から飛び出る猫耳と臀部から伸びた尻尾は、わしゃわしゃと両手で触ると消え失せた。

 これで花見はどこからどう見てもただの十歳の子供だ。


「これでどう?」

「ばっちり」


 頷く紫乃の返事に満足した花見は、紫乃が山で着ていた地味な着物に着替えるのを待った後、二人で使用人宿舎を出た。

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