第33話 元凶の男

 紫乃の言葉にくりや中の人間が絶句し、固まった。

 しかし紫乃にとってはどこ吹く風である。散々噂で聞いていた賢孝けんこうという男と対峙できたのだ、一言、いや二言は言ってやらないと気が済まない。

 賢孝けんこうは紫乃が考えていたよりずっと若く、凱嵐と同じくらいの年齢に見えた。柔らかな美貌を持つ人物で、浮かべる笑顔からは思考が読み取りづらく何を考えているかよくわからない。

 紫乃が何か言うよりも早く、穏やかな笑顔をたたえた賢孝が優しいが威圧感のある口調で話を切り出した。


「誤解をしているようだがな、娘。全ては陛下のためを思って指示した事だ。天栄宮てんえいきゅうは一枚岩ではない……陛下の口に入るものに毒が盛られては大変だろう」

「だとしても、出来上がってから一刻もたった食事を毎食毎食食べさせ続けるなど、どうかしている。どんなに良い食材を使っていても、そんなに時間が経ったら冷えて固くなり不味くなってしまいます」

「娘、お前は何もわかっていない」


 賢孝は笑顔を浮かべたまま肩をすくめ、紫乃を小馬鹿にする口調で言った。


「一介の御料理番は命じられた通りに料理を作れば良い。そこに色々な感情を持ち込むな」

「…………」


 紫乃は賢孝けんこうに対する評価がどんどん下がっていくのを感じた。

 もともと底辺だったが、今や地面を突き抜けて奈落へ向かって評価が下方修正され続けている。

 この男は料理に対する敬意の念というものがまるで無い。「胃が満たされればそれでいい」とでも言いたげな態度に、紫乃の怒りが腹の底から沸々と湧き上がってくる。

 紫乃が黙っていたせいか、賢孝は会話の矛先を紫乃の隣に立っている大鈴だいりんへと向けた。


「大体、大鈴。お前がついていながらなぜこんな事態になったんだ」

「……紫乃様は凱嵐がいらん様が御自らお連れになったお方。そこに異論を挟むのは、陛下に忠誠を誓うわたくしの職務からは逸脱いたします」

「陛下が間違えを犯したらそれをお諌めするのも我々の職務のうちだ」

「わたくしには、紫乃様をお連れした出来事が間違えとは思えません」


 大鈴だいりんの紫乃を庇う発言に賢孝けんこうの笑顔の仮面がわずかに崩れた。


「……まあ、良い。私が戻ったからにはこれから先は好き勝手をさせない。それをよく覚えておく事だ」


 言うだけ言って踵を返してくりやを出ようとする賢孝に、紫乃は「お待ちください」と声をかけた。

 振り向いた賢孝の顔は相変わらず笑顔だったが、水面下から友好的ではない雰囲気が醸し出されている。


「肉鍋、食べて行きませんか」

「結構だ」


 言い捨てた賢孝はそのまま厨を立ち去ってしまった。

 厨に残された面々は、冷や汗を拭いながらやれやれと息を吐く。


「……あぁ、賢孝様が介入してきたとなれば、また元に戻るんだろうなぁ」


 伴代ばんだいがしょんぼりとしながら元気なく呟いた。

 肉鍋をつついてうまいうまいと言っていた時の元気さのかけらもない、陰気さである。

 首を傾げた大鈴が、未だ厨の出入り口を睨むように見つめ続ける紫乃に問いかけた。


「紫乃様、なぜ賢孝様に肉鍋を薦めたんです?」

「あたたかな飯を食べれば心がほぐれるかと」

「まあ。お気持ちはわかりますが、賢孝様はそんな殊勝な心の持ち主ではありませんよ。凱嵐がいらん様とは違うのです。何せ『食事など胃が満たされればいいのだ』と言ってのけるお方ですから」


 本当にそんな台詞を言うような人物だったのか、と紫乃は目を見開いて驚いた。

 なんという料理を作りがいのない人間なのだろう。

 そんな風に言うようなやつは、野草でもむしって食べてればいいのだ。

 憤慨する紫乃は、ぶち壊しになった自分達の夕食をやり直すべく、肉鍋を再び竈門に戻して温め直したのだった。


+++


「陛下。明日から夕餉ゆうげは私もお供します」

「…………」


 厨から凱嵐の休む寝殿に戻った賢孝は開口一番に凱嵐にそう告げた。

 告げられた凱嵐は非常に嫌そうな顔をしていた。


「元々、夕餉はいつも共にしていたでしょう。今更何をそのようなお顔をしておられるのです」

「お前は本当にいい性格をしているよな」

「お褒めに預かり光栄にございます」


 嫌味を真正面から受け止めた賢孝に、凱嵐はますます顔を顰めた。

 なんと言われようとも賢孝が譲る事はない。凱嵐の身を守るためなら進んで嫌われ役も引き受けようと、賢孝は固く誓っている。

 遠い目をする凱嵐に、賢孝はニコニコとした笑顔を向けるのみであった。

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