第32話 静の賢孝
怒っているのは
(私は陛下の不信を買ったのだろうか)
賢孝はいつだって凱嵐のためを思って動いてきた。
この権謀術数渦巻く
薄ら寒い笑顔を貼り付け美辞麗句を並べたて、その下で腹黒い算段を付け、虎視眈々と
国の重鎮たちは国の事などまるで考えていない。誰も彼もが保身に必死だ。
直接刺客が放たれたならば返り討ちにする術を凱嵐はいくらでも身につけている。
皇帝直属の隠密部隊である影衆をはじめ、信頼のおける護衛を四六時中はり付けていた。陛下が自ら罠にかかりにほいほい出歩かない限り、暗殺も襲撃も絶対に成功しないと言い切る自信があった。
問題は、毒殺だ。
食事や酒に毒を盛られては、いくらなんでも太刀打ちできない。
毒を盛られて苦しむ凱嵐を想像しては賢孝は肝が冷える。もっと厳重に毒味をしなければ、万が一があってからでは遅いのだ。
だから賢孝は、「温かい飯が食いたい」と苦言を呈する凱嵐を笑顔で諭し続けた。
生涯の主人と定めた凱嵐に何かあったら困る。
御膳所に出入りする人の数を絞れないのであれば、毒味を増やすしかない。
大量の膳を用意させ、どれが凱嵐の口に入るかわからなくし、毒を盛る機会を奪う。
仮に毒が盛られていてもわかるよう、何度も何度も毒味をさせる。
そうしてやっと安心を得た上で凱嵐が食事にありつけるよう仕向けたのは他ならない賢孝の仕業だった。
(殺されてなるものか)
凱嵐は稀代の傑物だ。人の上に立ち、人を束ね、国を平和に導くために生まれてきたような人物だ。
くだらない政権争いに巻き込まれ、命を散らすなどもってのほかである。
せめて目の上の
空木は強靭な意志を持って、絶対に黒幕の名前を吐かなかった。
空木を陰で操っていたのが
この宮中を裏で掌握している女狐を思い出し、賢孝はぎりりと歯を噛んだ。
先代皇帝との間に一人の子供しかもうけず、しかもその子も命を落とす不幸に見舞われた
だからこそ、より一層凱嵐の食事の一切を取り仕切る御膳所だけは守らねばならないと賢孝は胸に誓っていたのだ。
その矢先の、得体の知れない娘の話である。
なぜ素性のわからない娘を大切な御料理番頭などに据える?
凱嵐の意図がわからない賢孝はひたすらに疑問だった。
もしやその娘、陛下の心を射止めるほどの美しさを持っているとでもいうのだろうか。
白元妃の支配する奥御殿には住ませられないから、あえて御膳所の御料理番頭に任命したとか。
しかし賢孝は頭を振って考えを追い出した。
(ともかく、会ってみなければ)
その上でどうしようもない人間だったら、陛下には申し訳ないが秘密裏に処分しよう。
賢孝は、
信じている、心から忠誠を誓っているからこそ、冷静になって敵味方を区別しなければならない。
この天栄宮での賢孝の二つ名は『静の賢孝』。笑顔を浮かべながら静かに、しかし確実に政敵を追い詰めて排除する様に怯える人間は多かった。
一体どんな娘なのかあれこれと考えを巡らせながら、賢孝は御膳所に向けて足を進める。
最低限のかがり火に照らされた
自分の手に持った灯火の灯りを頼りに長い外廊下を進み、賢孝は御膳所へと入って行った。
人の気配がする
そこに向かって迷いなく歩くと、賢孝は厨の扉をガラリと開けた。
そしてそこで目に飛び込んできた光景に驚愕した。
厨中の人間が巨大な鍋を囲んで立ったまま、一心不乱に何かを食べている。
立ち込める香りは甘くしょっぱく、香ばしい。
箸で豚肉を掴んだ娘が
「…………どちら様?」
「け、賢孝様!?」
娘の疑問に答えたのは賢孝ではなく、娘の隣に立っていた大鈴だった。
賢孝の姿を見た厨の料理番たちの中で最も素早く動いたのが、娘だった。即座に腕を台へと置くと、礼の姿勢を取る。
「新しく御料理番頭になった紫乃です」
なるほどこの娘が、陛下が山から掘り出して来た人物か。確かに立礼はなかなか様になっている。
しかし続く紫乃の言葉に、賢孝は耳を疑った。
「陛下に冷や飯を食べるよう強要したのは、あなたか」
「…………はい?」
見事な自己紹介と立礼を披露した娘から飛び出した挑発的な言葉に、賢孝は笑顔の裏で青筋が浮かぶのを感じた。
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