第31話 凱嵐と賢孝

 その日の夕餉ゆうげの後、凱嵐がいらんは正殿に戻ってきてから夕餉に思いを馳せていた。

 本日の夕餉も旨かった。

 豚肉とえのきを煮立てた鍋は大鍋から取り分けたばかりの熱々のほかほかで、柔らかい肉と茸が絶妙な旨味を醸し出していた。

 赤身と脂身の比率が丁度よく、えのきはクタッとしすぎないように気を遣った火加減となっていた。

 醤油と砂糖の甘じょっぱい味わいは、一日の政務で疲れた心をときほぐしてくれた。

 難点があるとすれば、肉鍋を食べると麦飯が無性に進んでしまうという点だ。いつにも増して麦飯を食べて食べて食べまくった凱嵐は満腹で、心から満足していた。

 このまま眠りについてしまいたい、手に持つ酒盃すらも、重く感じる。


「……聞いているんですか、陛下」


 まどろむ凱嵐がいらんを現実に引き戻したのは、穏やかだが怒りがはらんだ声だった。


「聞いているとも」


 誤魔化すように凱嵐がいらんは酒盃を舐める。


「では私が今言った言葉を反芻してください」

「…………」

「出来ないのですか?」


 そう言って凱嵐の目の前で、にこりと微笑む一人の男がいた。

 肩の下で緩やかに結んだ亜麻色の髪がサラリと揺れ、着物に掛かる。常盤色ときわいろの着物がよく似合っていた。羽織の胸元には、凱嵐が下賜した皇帝補佐の証である露草色の羽織紐を結んでいる。

 繊細な顔立ちは笑ってはいるものの、付き合いの長い凱嵐にはこれは彼が怒っている時の顔だとはっきりわかった。

 凱嵐とは別のベクトルで美しい男の名前は、賢孝けんこう

 凱嵐がいらんの執務上の右腕にして、幼少期より共に過ごし、数多の戦を共に駆け抜けた戦友である。

 そして凱嵐には、この手の笑顔を浮かべている時、賢孝は怒り心頭であると知っていた。

 理由をわかっていてあえてはぐらかしてみる。

 肘掛けにだらりと体重を預けた凱嵐は傍らに置いてある徳利に手を伸ばし、勧める。賢孝けんこうは渋々といった体で盃を凱嵐がいらんへ差し出して来た。


「さて、お前が何に怒っているのか、俺にはわからん」

「とぼけるのはおやめ下さい。新しく任命した夕餉の御膳所御料理番頭ごぜんしょおりょうりばんがしらの事です」


 賢孝けんこうの顔は相変わらず笑顔のはずなのに、発するオーラは非常に冷ややかだ。手に持つ盃を今にも粉微塵に砕いてしまいそうである。


「私が空木うつぎの取り調べにかかりきりになっているのをいい事に、やりたい放題だったと聞いておりますが。聞けば、屹然きつぜんの山間から掘り出してきた人物だとか? しかもまだ年端も行かぬ娘で、礼儀も何も知らないとか。陛下の御前にて礼の一つもせず、不遜な口の聞き方をするともっぱらの噂です」

「礼ならば出来るようになっていたぞ。見事な平伏を披露してくれた」

「だとしてもです」


 やんわりとした口調で賢孝は凱嵐を遮った。


「なぜそのような人物に、大切な御料理番頭を任せるのですか? 陛下の口に入るものをこしらえる、非常に重要な役職なのですよ」

「非常に重要な役職だからこそ、紫乃を御料理番頭にしたのだ」

 凱嵐の言葉に賢孝はピクリと反応する。笑っていた目をすっと開いた。

「陛下。私のやり方がお気に召しませんでしたか?」

「いいか、賢孝。飯を食う上で最も大切な事は……美味いかどうかだ」

「違います、毒が入っていないかどうかです」

「それこそ違う!」

「ほう?」


 凱嵐は疑わしげな眼差しを送る賢孝を見据え、拳を握って力説した。


「俺が皇帝になった理由の一つは、美味い飯を食いたいからだ。かつて大叔父上が皇帝であった頃、たった一度招かれて天栄宮てんえいきゅうに来た時に振る舞われた飯。伝説の御料理番頭、紅玉こうぎょくの作った膳……あれは、美味かった。皇帝になれば毎日かような飯が食えるのかと、心が躍った。しかし、現実はどうだ」


 凱嵐はぎろりと賢光を睨む。


「大袈裟なほどの毒味番の数! なんで五人も必要だ!?」

「陛下の御身を思ってこその人数です」

「作ってから俺の口に入るまでの間に、一刻二時間も掛かるせいで飯は冷えて固くなっている!」

「遅効性の毒が入っていたら大変ですので」

「極め付けに、水菓子は眺めるだけとは、一体どういう了見だ!? 食物は鑑賞にあらず、食べるためにあるのだ!」

「果物は傷みやすうございます。氷室ひむろから出して一刻も経った果物を陛下の口に入れ、万が一腹でも下したら大ごとにございます」


 凱嵐がいらんの腹の底からの魂の叫びに、賢孝けんこうはすました顔で反論をした。

 凱嵐は頭痛がしてくるのを堪え、肘掛けに体重を預けると額に手を振り力なく首を振る。

 いつもこうである。

 賢孝は優秀で信頼のおける臣下であったが、少々心配性な性格だった。

 凱嵐が皇帝になってから、十年。初めはここまで一度の食事に大掛かりな毒味や決まりなどは存在していなかった。

 しかし帝位に就いて一ヶ月の時だった。

 夕餉ゆうげの前に毒味番が苦しみ悶えたのをきっかけに賢孝の心配性に火がついた。


「膳所の人員をあらためましょう」


 毒殺を試みた犯人は捕らえられたが、膳所は大掛かりな調べがされ、信頼のおける者だけが膳所で働く事を許された。

 しかしこれに不満を漏らしたのが、膳所の人間たちである。


「俺たちを罷免ひめんしようってのかい」


 膳所は巨大な組織だ。一様に辞めさせられたのではたまったものではない。調達番や他所で働く女官たちとも密接に関わっていたため、膳所にて職を追われた人物たちに味方する宮中の人間も多く、凱嵐がいらんを見る目は冷ややかになった。

 新皇帝として一日も早く信を勝ち取る必要のある凱嵐たちは、この思わぬ反発に戸惑った。


「仕方がない……毒味番を増やしましょう」


 結局の所、膳所の人数は減らすのではなくさらなる毒味番を増やす形で落ち着いた。 

 その後も色々な問題が起こり続ける。

 新種の遅効性の毒薬が発見された事で食事が出来上がってから凱嵐の口に入るまでの時間を一刻にしたり、一刻にしたことで果物が痛む可能性を考慮し、果物は鑑賞するだけに留めたり。生魚も同様の理由で食せなくなった。

 賢孝の心配は留まるところを知らず、結局の所凱嵐が夢に描いていた「皇帝の美味い食事」とはかけ離れた現実が出来上がってしまったのだ。

 思い出すと腹が立ってくる。


「俺はもう、我慢がならん! 温かい飯が食いたいのだ! 何だ、一刻って!? これならば剛岩ごうがんにいた時の方がよほどいいものを食べていたわ!」

真雨皇国しんうこうこくの皇帝ともあろうお方が、そんな子供みたいな事を言わないでくださいよ……」

「真雨皇国の皇帝が好きなものすら食えぬとは、涙が出そうだ」


 凱嵐は食べるのが好きであった。剛岩の時にはそれこそ、戦に勝利した暁には飲めや歌えやの大騒ぎで大宴会が開かれており、身分を気にせず皆が同じ料理を食い、酒を飲み交わすお祭り騒ぎの雰囲気が好きだった。

 それがこうもがんじがらめの生活に変わってしまったのだから、気が狂いそうである。


「賢孝、お前の考えもよくわかる。だから俺は信頼のおける料理人を連れて来たのだ。紫乃ならば毒を盛るような真似はすまい」

「無礼な田舎娘をどうしてそこまで信じられるんです? 金を握らせれば、あっという間にコロリと敵方に寝返りそうですが」

「それはない」


 凱嵐は賢孝の言葉を否定する。


「紫乃は、料理に命を賭けている。毒を入れるという料理人に反する行為は絶対にしない。それに紫乃は毒味番を兼任しているんだぞ。自分が食うものに毒を入れる馬鹿がどこにいる」

「それはまあ……一理ありますが……」


 渋々認める賢孝。凱嵐はニヤリとする。それに賢孝は気を悪くした。


「ともかく、私に黙って勝手に重要な役職をすげ替えをするのはおやめ下さい。その田舎娘が本当に御料理番頭にふさわしいかどうか、確かめます」

「勝手にしろ。ただし罷免したら許さんぞ」

「……それは娘次第です」


 賢孝は立ち上がる。


「膳所へ行って参ります」

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