雨綾病
第30話 雨綾病
十の諸国を従える大国の中心たる都には、皇帝の住まう広大な宮、
宮には四つの御殿群が。
皇帝の居住と執務を司る
客の控え、取次、もてなし、宿泊のための
正殿に入れない下級役人達が集い、日々の政務をするための
皇帝の妻達が住まう男子禁制の女の園、
そしてそれらの御殿とは別に使用人の住まう宿舎がひっそりと煌びやかな宮殿に隠れるように存在していた。
皇帝に振る舞う食事を作る
「おはよう、花見」
「……うーん。まだ眠い……」
「先に行ってるよ」
「にゃあ」
朝に弱い花見は、山にいた時より早起きになってしまった生活に馴染めず、二股に分かれた尻尾で体をぐるりと囲んで布団にうずくまり続ける。
その様子を見て少し笑った紫乃は、着替えを済ませて準備をした。
柿色の着物に藍色の帯を締め、白い清潔な前垂れをかければ、自分が皇帝の食事を用意するための場所、御膳所の頂点に君臨する存在、即ち御料理番頭であると主張をする。
その中でも特に
そんな尊い色の入った帯を締めることを許されている紫乃は、よしと小さく気合を入れると部屋を出た。
向かう先は食料蔵である。
「おはよう、じさま、旦那」
「おぉ、おはようのぅ」
「…………」
食料蔵の前には紫乃の他に二人いる、
「今日は何が入っている?」
「豚肉があるでのぅ」
「豚肉?」
紫乃は首を傾げると、じさまはそっと指を差す。
横たわっているのは、薄いピンク色をしたブヨブヨした動物だった。
「……これは……」
「見たことないか? これが豚じゃ。煮てよし、焼いてよし。脂身は旨味が乗っておるし、赤みは煮物によく合う。
ふぉっふぉっ、と笑うじさまの横で紫乃は豚を見つめる。豚肉は食べた事がある。が、肉になっていない動物状態を見るのは初めてだ。正直あまり旨そうに見えない見た目の動物だが、肉が美味い事は知っている。
「こいつぁいいぞ。陛下には勿論、
「雨綾病?」
聞いた事のない病気に紫乃は反応した。
「うむ。この
「…………」
話を振られた
興味を惹かれた紫乃はさらに病状について知りたくなり、問いかける。
「その
「皆同じ症状での。最初は、足元がおぼつかなくなる。それから段々と、寝込んでしまうんじゃ。仕事にならんから故郷に帰るんじゃが、すると皆ケロッと治ってしまう。きらびやかな雨綾の空気が合わんせいだと、そのまま戻って来ん奴が多いんじゃ」
「じさまは平気なの」
「
「ふぅん……」
「お前さんも気をつけたほうがええ」
「わかった。で、その雨綾病と豚肉がどういう関係あるの?」
「別に関係はないんじゃが、寝込んでる連中には肉を出したほうがええ。伏せっているとどうしても、食欲が落ちるからのう」
寝込んでいるなら肉など食べず、むしろもっと胃に優しいものを食べさせたほうがいいのではと紫乃は思ったが、じさまは嬉しそうな顔で丸々太った豚を見つめていた。
「しかし今から捌いていては、今朝の朝餉に豚肉はお出し出来ん。昼餉と夕餉で使うんじゃのう。昼餉の、どんな料理に使うかの?」
「……焼く」
「それが一番じゃのう。夕餉のは?」
「私はえのき茸と一緒に肉鍋にする」
紫乃は迷わず答えた。たっぷりの肉と茸を醤油と砂糖で煮込む。それだけでご馳走だ。
しかしじさまは口に蓄えた白髭を揺らしながらため息をついた。
「確かに煮えたての肉と茸は、旨い。醤油を吸った豚肉、茸の風味……この上ないご馳走じゃて。じゃがのう、陛下にお出しする時には一刻経っておるんじゃぞ。冷えて脂が固まり、不味くなっておるわい」
「いや……それは」
出来立てを腕にすくって出しているから問題ないと言おうとして口をつぐんだ。
もしかして、朝餉と昼餉の人間は凱嵐が厨に出入りしているのを知らないのか?
確かにじさまは昼過ぎにはもう寝ているし、昼餉の厨も夕餉が始まる頃にはもう人気が無い。
毒味番は紫乃が啖呵を切って以来夕餉の厨に近寄らないし、給仕番は運ぶ必要がないために今や大鈴以外来ていない。
つまりこの二日間、
そこまで考えた紫乃は、「確かにそうかも」と言うにとどめた。
せっかく二人とまあまあな仲を築いているのに迂闊に「御膳所に陛下が来ている」などと言ってやっかみなどを買っても面倒だ。
初日に向けられた、敵意に満ちた眼差しを紫乃は忘れてはいない。
母である
なので余計な事は言わず、夕餉の献立を考えるフリをしておいた。
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