第27話 それも一興

 天栄宮てんえいきゅうの一角、正殿群せいでんぐんと呼ばれる一際豪華な建物群の一つに凱嵐がいらんの私的な住まいである寝殿が存在している。五階建ての青塗りの御殿は、凱嵐がいらんの許可がなければ何人たりとも立ち入る事の出来ない場所だ。

 その最上階となる『天の間』で凱嵐は書物を読んでいた。

 ふと気配を感じ、虚空に向かってそっと呼ぶ。


流墨りゅうぼく

「ここに」


 天井から音も無く降ってきたのは、黒い着物を纏い漆黒と同化している、皇帝直属の隠密部隊の一人である流墨りゅうぼく。書物を閉じた凱嵐がいらんは背後に控える流墨へと体を向けると、問いかけた。


「首尾はどうだ?」

「あまり、良いとは言えません」


 凱嵐の問いかけに流墨りゅうぼくは素直に答えた。


「あの娘が住んでいた小屋へ行ってみたのですが、娘の素性の手がかりとなるようなものは何もありませんでした。何せ、小屋には文や書物の一つも無く……親と暮らしていたのか、それともあの小屋に住んだ時には一人だったのか、それすらも曖昧で」

「ふむ」

 流墨りゅうぼくの報告を聞き凱嵐がいらんは考えた。


 紫乃が小屋から持ち出して来た物は検分を済ませている。

 そこには、この天栄宮てんえいきゅうにおいても貴重とされる調味料の類も混ざっていたとのことだった。問い詰めたところ「貰った」などと紫乃は言っていたが、一体どこの誰に貰ったというのか。入手ルートによっては、紫乃は非常に強力な権力者と関わっている可能性もある。


「ご苦労だった。紫乃の件はもう良い」

「僭越ながら、乱暴な手を使って吐かせるという手もございますが?」

「それには及ばん」


 流墨の提案を凱嵐は即座に却下した。


「正体不明な人間を手元に置いて置くのも、一興であろう。それに……」

「それに?」

「紫乃の作る料理は美味い」


 凱嵐のこの一言に、流墨の目がじとりと細められた。


「そちらが本音では?」

「あれほど美味い料理を作り、あれほど素直な気持ちを言葉にできる人間が極悪人なはずはなかろう」


 紫乃は夕餉ゆうげを凱嵐に持って来た時、言った。

「明日からは、くりや近くの部屋で待機してて欲しい」と。

「何故だ?」と聞くと、

「少しでも出来立ての料理を食べて欲しいからに決まってるだろう」とさも当然のように言い返してきた。


 その不遜な物言いに周囲の者はざわついていたが、凱嵐としては紫乃の評価がより上向きになっただけ。

 どいつもこいつも上部だけの笑顔を貼り付け、水面下で腹の探り合いばかりしている宮中であの正直さは心地よい。

 まるで剛岩ごうがんに戻ったようだな、とさえ思った。

 凱嵐がいらんの生まれ故郷である剛岩ごうがんは妖怪の蔓延はびこる荒れた土地であり、誰も彼もが生きるのに必死だった。だからなのか、剛岩に生きる者は実直で豪胆な者が多く、男も女も素直な性格の持ち主ばかりであったのだ。

 山育ちの紫乃には剛岩に通ずるような素直さと胆力がある。

 だから凱嵐は手元に置く事にした。

 凱嵐の本能が告げている。

ーー紫乃は危険な人物ではないと。

 流墨がしみじみと息を吐き出した。


賢孝けんこう様に何をおっしゃられても知りませんよ……」

「あいつの事は今は忘れさせてくれ」


 空木うつぎの尋問には時間がかかる。だからすぐには気づかれないはずだ。

 凱嵐は己の右腕である男、賢孝を思い浮かべすぐに脳内から追い出した。

 賢孝は優秀だが、少し心配性で神経質すぎる傾向にあった。きっとあの男は紫乃を気に入らないだろう。

 御膳所の御料理番頭を勝手に変えた事でネチネチ文句を言われる未来を想像し、凱嵐は苦笑を漏らした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る