第25話 陛下が厨にやって来た


「入るぞ」


 そんな声がかけられたのは、ちょうど盛り付けが終わって最後の確認をしている時だった。

 誰が入ってくるのかと訝しみながら皆で扉を見つめると、開け放たれた扉の先で見えたのは、他ならぬ皇帝陛下そのもので。


「へ……陛下!?」


 驚き慌てふためく御膳所の料理人たち。当然だ。同じ天栄宮てんえいきゅうという場所にいれど、一介の料理人では普通ならお目にかかれないような雲の上の人物の登場に、紫乃を除いたその場の全員が慌てた。


「昨日、紫乃がくりや近くの部屋に来いと言っただろう。どうせなら厨で食べようと思い、来た」

「!?」


 このやりとりを知っているのは紫乃と給仕番のみだ。事情を知らない料理人にとっては、陛下の訳のわからない常識はずれの発想に、御膳所の中は騒然とする。

 そんな中、紫乃は一人素早く動いた。

 皇帝たる凱嵐がいらんの姿が見えた時、どうすれば良いか。それを教わったのはつい数時間前の話だ。

 紫乃は流れるようにその場に膝をつくと、手を前へと突き出し、頭を下げる。

 決まった、と紫乃は思った。完璧な平伏へいふくだ。 

 あとは何をすればいいのか。何か言ったほうがいいのだろうか。

 少し迷った紫乃は、口を開く。


「今しがた料理が出来上がったところだ、ゆっくりして行け……です」

「!!??」


 あんまりな紫乃の言動にその場の全員が絶句する。

 一方の紫乃は地面に顔を伏せつつも口の端を持ち上げてほくそ笑んだ。


(平伏もして、敬語も使えた。私、完璧だろう)


 敬語のなんたるかがわからない紫乃は、とりあえず語尾に「です」をつけてそれっぽくしてみた。それがとても敬語ではなく、それどころか上から目線極まりない発言であるとは全く思っていなかった。

 厨はシーンとした。

 異様な雰囲気に包まれた。

 ふと、上から楽しそうに喉を震わせる声が聞こえる。


「…………はっはっはっ! そうだな、ゆっくりさせてもらおうか」


 凱嵐だった。

 豪快な笑い声を漏らした凱嵐は、ずかずかと厨内に入り込み、普段は膳を運ぶための支度場所として使われている小上がりの座敷へと座り込む。

 全員が呆気に取られる中、紫乃はちらりと大鈴の顔を見た。

 その視線の訴えに気づいた大鈴が動く。膳を手に取り、恭しく掲げ持ち、凱嵐の前へ置く。そして離れた向かいには紫乃の分も。

 立ち上がった紫乃は草履を脱いで小上がりに上がる。出来立ての膳はまだ麦飯も煮物も湯気が立ち上っており、周囲に食欲をそそるいい香りを立ち上らせていた。

 凱嵐は目の前に出された膳を見て首を傾げた。


「この小鉢の下に敷いてあるのは、氷か?」

「そうです」

「なぜ氷が?」


 凱嵐の疑問に紫乃は口の端を持ち上げて笑った。

 自分の前の膳にある、全く同じ陶器の蓋を持ち上げる。中から現れた品に凱嵐の目が見開いた。


「これは……!」

あじのたたきだ」


 思わず敬語(もどき)を忘れて紫乃は得意気に告げた。


「時間が経っても食べられるように、氷を小さな皿に敷き詰め、その上に小鉢を置いて傷まないように工夫をした」


 勿論、これは氷が潤沢に手に入る冬かせいぜいが春先までしか使えない提供方法ではあるけれど。

 いくら山育ちの紫乃でも、そのくらいの知識はある。

 夏場は山の洞穴に蓄えてある氷で食料を保存してやり過ごすのだが、だんだん溶けていく氷を見て不安になるのが常だ。

 こんな贅沢な使い方が出来るのは、料理を出す相手が腐っても皇帝であるからだ。

 凱嵐は目の前に現れた、薬味を纏って艶やかに輝く鯵のたたきを食い入るように見つめていた。喉仏が上下し、唾を飲み込む生々しい音がする。

 よほど生の魚に飢えていたのか、凱嵐の鋭い目には凶暴な色が宿り、鯵のたたきをとらえて離さない。絶対に喰らい尽くしてやるという強い意志を感じた。

 近くにいた大鈴が「はうっ……!」と短い声を漏らした。何事かと横目で見ると、ぎゅうっと強く胸元の着物を握りしめ、何かに耐えている。朱に彩られた大鈴の唇から、吐息混じりの苦しげな声が漏れた。


「凱嵐様の、あの猛々しくも色気のある視線……あんな目で見つめられたら、どうにかなってしまいそうだわ……!」


 視線を向けられているのが大鈴ではなく、あじのたたきで良かったなと紫乃は思った。

 ともかく他の料理が冷めないうちにさっさと毒味を済ませなければ。

 紫乃は今しがた料理番たちと共に作り上げた夕餉の膳に箸をつけた。

 

+++


「美味いな」

「どうも」

「生の魚を食べたのは十年ぶりだ」

 

鯵のたたきを噛み締めながら凱嵐がこぼした言葉に、紫乃は憐憫の情を覚えた。


(国で一番偉いはずなのに、食事に不自由しているなんて可哀想だな)


 紫乃が毒味をしてからきっちり四半刻。今か今かと待っていた凱嵐は即座に食事に手をつけた。

 ちなみに真雨皇国しんうこうこくでは庶民は時計を持っておらず、寺と天栄宮の鐘楼殿しょうろうでんで鳴らされる鐘を頼りに大体の時刻を知るのだが、皇帝ともなると話は別だ。

 立派な飾りのある時計を持つ凱嵐はわざわざそれを厨に運び込んできて、紫乃が毒味をした後の時間を測っていた。

 箸を手にした凱嵐が早速口にしたのは言うまでもなく鯵のたたきである。

 生姜とネギと大葉の薬味に包まれた鯵のたたきを無心で食べ、あっという間に食べきり、おかわりで次の膳に乗っていた鯵のたたきも食べた。

 きっとたくさん食べるだろうと小鉢にしては多めの量を盛り付けていたのだが、それでも少なすぎたらしい。三杯目の鯵のたたきを食べ終えたところでようやく凱嵐が発したのが、先程の言葉である。それまでは一言も漏らさずに黙々と鯵のたたきを食べていた。

 名残惜しそうにしながらも小鉢を綺麗に食べ終えた凱嵐は、次に麦飯に手を付ける。

 紫乃の食事時間と毒がないか体内を巡る時間を入れると、どうしても凱嵐が食事をする時間は料理が出来上がってから半刻一時間は経過している。

 冷め切った麦飯を「おぉ、表面が乾いていない」と喜びながら食べる様を見て、紫乃はもっとどうにかならないものかと考えた。

 より出来立てに近い食事を、一度冷めた料理を美味しく食べる工夫を。

 

「今日の夕餉も美味かった」

「どうも」

「明日も期待している」


 紫乃が食事の提供方法を考えて首を捻っているうちに食事を終えた凱嵐は、満足そうな顔をして立ち上がる。

 そして颯爽と正殿に向かって帰って行った。

 くりやの面々は一様に平伏し、遠ざかる足音で凱嵐が完全に去ったのを確認すると、顔を上げてふぅと息をついた。


「まさか陛下が厨まで来るとは……驚きだ」


 伴代はその場に正座をしたまま額の汗を腕で拭った。ざわめいているのは伴代ばんだいだけではない。他の料理人も口々にその驚きを口にする。


「でも、陛下、楽しそうでしたわ。まるで剛岩にいた時のような表情を浮かべていたし」


 まだ凱嵐があじのたたきを見つめていた時のときめきが収まらないのか、大鈴は上気した頬に片手を当ててそんな感想を漏らす。

 それに反応したのは伴代だ。


「陛下といえば雲の上のお方だと思っていたが、剛岩時代はあんなに気さくな雰囲気の方だったのか」

「えぇ。盃を上げて食卓を皆で囲うのが常でした」

「意外だな。賢孝様がそういうのは許さないかと思っていた」

「賢孝様がお変わりになったのは天栄宮に来てからでございます。昔から用心深い方ではありましたが、ここまでひどくはありませんでした。……それだけ天栄宮という場所が、信用ならない魔窟なのでございましょう」


 大鈴は眉間に皺を寄せて首を横に振った。

 なるほど天栄宮と言うのは面倒な場所なのか。なににせよただの料理人である紫乃には、上のゴタゴタなど無関係だろう。


「ところで大鈴、私の平伏はどうだった?」

「お見事でございました。想定外の状況で皆が呆気に取られて動けない中、紫乃様だけが迅速な動きをお取りになり……陛下への忠誠心を見ることができましたわ」


 大鈴はにこやかな笑顔を浮かべて、両手の先を合わせて褒め称えてくれた。

 そう言ってくれるならば一安心だ。よし、と思って次の確認に移る。


「敬語は?」

「…………練習が必要でございますね」

「ってか、ありゃ敬語とは呼べないでしょうよ」


 ものすごく控えめな大鈴のコメントとは対照的に、伴代の言葉は手厳しい。


「一朝一夕で身につくものじゃありません。日常的に覚えていきましょう」

「うん。そうする」

「じゃ、姐さん、俺たちも夕餉にしましょうか」

「そうしよう」


 伴代の言葉に紫乃が頷くと、まるでタイミングを合わせたかのように花見があくびをしながら厨へとやって来た。見ると、茶色い髪には寝癖がついている。今の今まで寝ていたのだろう。寝ぼけ眼の花見は懐に手を突っ込んで胸元をボリボリとかきむしりながら、実にのんびりと紫乃に話しかけてくる。


「紫乃、腹へったにゃあ」

「ちょうど夕餉にするよ」


 言いながら握り飯を作るべく、手を濡らしてから羽釜の蓋を持ち上げる。

 炊いてから結構時間が経っているはずなのに、蓋をしていたおかげでふんわりと湯気が立ち上った。米をしゃもじですくって手のひらに乗せる。まだまだ十分温かい。


「あ、そうか」


 握りながら紫乃は、気がついた。


「単純な話だったんだな」

「にゃに?」


 首を傾げる花見の様子に、紫乃は今朝方の光景と既視感を覚えた。

 全く今日は冴えていると思いながら花見に笑いかけた。


「明日はもっと美味い膳を出せる」


 なにしろ厨まで来てくれると言うなら、やりようなどいくらでもあった。

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