第8話 御膳所はアウェー

「これ着るの?」

「左様にございます」

「…………」

「趣味に合いませんでしたか?」

「いや、趣味とかっていう問題じゃなくて……豪華すぎる」


 浴場から上がると、既に大鈴だいりんが脱衣所にて紫乃を待ち構えていた。「さあ、こちらにお召替えを」と言って差し出された柿色の着物は、柄こそは素朴ながらも明らかに上質な素材で。


「とはいえ、御膳所ごぜんしょで働く者のお召し物といえばこちらと決まっておりますので……私も同じものを着ていますでしょう?」

「そうだね……」

「それから、こちらの帯をどうぞ」


 言って手渡された帯紐はーー鮮やかな藍色だった。にこにことしている大鈴が言葉を続ける。


「宮中で働く人間で、蒼に連なる色を身に纏うのを許されているのは上級役職の者のみなのでございます。大変名誉な事にございますよ」


 真雨皇国しんうこうこくで貴色とされる蒼系統の色、それを身に纏える程の役職を自分は与えられたのか。

 今更ながらことの重大さに気がついた紫乃は身震いした。


(あの野郎、なんて事してくれやがったんだ)


 やはり川から奴が流れてきた時、見捨ててさっさと家へ帰ればよかったと激しく後悔する。


「それから、こちらの札を肌身離さずお持ちくださいませ」


 渡された木札には凝った装飾が施されており、真ん中に「御膳所御料理番頭ごぜんしょおりょうりばんかしら 紫乃」と書いてある。


「これは?」

「紫乃様の身分証にございます。急ぎ作らせました。天栄宮から出入りする時は勿論、各建物に入る時にも見張りに見せる必要がございますので、無くさないようにしてくださいませ」


 いちいち身分証を見せなければならないのか。無くすと面倒なことになりそうなので、紫乃はひとまずそれを懐へと仕舞い込んだ。


(まあ、すぐに返すことになるだろうけど)


御膳所ごぜんしょはこの隣の建物にございます。くりやは三つありまして、朝昼夕、それぞれの御料理番頭用にあてがわれています。紫乃様の職場は、夕餉用ゆうげようの厨になります」

「わざわざ食事毎に厨があるの?」

「はい。まあ、大袈裟と初めは思うでしょうけれど、すぐに理由はお分かりになると思います」


 くりやなど、一つあれば十分ではないだろうか。

 意味のわからない世界すぎて呆然としながらも、横を歩く花見に「紫乃、しっかり」と声をかけられて紫乃はようやく我に返ったのだった。

 広い広い天栄宮てんえいきゅう内を大鈴の後について歩いていくと、建物に入りすぐに立ち止まった。


「この角を曲がったところですが……急に降格を命じられた伴代ばんだい様が荒ぶっているかと思います。どうか、お覚悟を決めて下さいませ」


 言って大鈴がそっと足を進める。大きな両開きの扉が開け放たれており、あたりにいい匂いが立ち昇っていた。

 そして扉をくぐって足を踏み入れると、細長い廊下を挟んで戸が四つ並んでいた。そのうちの一つを大鈴が引いて開くや否やーーびゅっと紫乃の眼前に湯呑みが飛んできた。


「にゃっ!」


 紫乃の前にビョンと飛び上がった花見が前足を伸ばし、湯呑みを叩き落とす。カシャーンと音がして湯呑みが木っ端微塵に砕け散った。

 危ない。花見の動体視力と俊敏さがなければ、湯呑みは確実に紫乃の顔面にぶち当たっていただろう。


大鈴だいりん! その娘が新しい御料理番頭だっつうのか!?」


 続いて飛んできたのは、鋭い怒号だった。大鈴は紫乃の前に立ち塞がる花見のさらに前に出て、紫乃を庇う。


伴代ばんだい様、お見苦しいですわよ。降格されたからといって新しい御料理番頭様に当たり散らすなどと」

「ウルセェ! 俺は認めねえぞ、まだ小娘じゃねえか!」


 怒鳴り散らす伴代という男が気になり、紫乃はそっと大鈴の背中から顔を覗かせた。


(意外に若い)


 二百人の頂点に立つ一人だというからさぞかし年季の入った人なのだろうと思っていたが、思いのほか若そうに見える。三十代半ばといったところだろうか。頭に手ぬぐいを巻いた伴代はキリリとした顔立ちで中々に男前だ。紫乃と同じ藍染の帯を締め、柿色の着物と白い前垂れを身につけている。大鈴が怒気の含んだ声で咎めた。


伴代ばんだい様、その帯はもうお外しくださいと申したはずです」

「大鈴、テメェ何考えてやがる。こんな小娘が、俺の代わりに御料理番頭になるだと!? 冗談もいい加減にしろよ!」

「これは凱嵐がいらん様の命にございます!」

「はっ……陛下もとうとう気が狂ったか」

「伴代様! 不敬にございますよ!!」

「ここにいる皆、そう思っているさ。なぁ? 誰かこの中で、俺の代わりにみすぼらしい小娘の下につきたいと思っている奴はいるのか」


 広いくりやを見回しても、誰も首を縦に振る者はいなかった。

 当たり前だと紫乃は思った。

 突如現れた何処の馬の骨ともわからない小娘に、今まで従事してきた職を明け渡せと言われたら誰でも怒るだろう。

 しかし、これはいい好機じゃないか?

 このまま誰も紫乃の味方をしなければ、当然料理を作るどころではない。

 夕餉ゆうげが出なければ凱嵐がいらんは怒るだろうし、ついでに紫乃を見損なって宮中から放り出すに違いない。

 そうすれば紫乃は再び穏やかな生活に戻れるし、伴代も元の役職に戻れる。

 万々歳だ。

 実際には紫乃が夕餉を出さなければ放逐されるどころか、不敬罪で首を刎ねられてもおかしくないのであるが、そんな事は紫乃は知らない。


(よしよし、ここは私も伴代さんの味方をして、「その通り」と言おう)


 しかし紫乃が口を開く前に大鈴だいりんが激昂した。


「陛下の命は、守るべき絶対! 陛下が命じたのですから、紫乃様は伴代ばんだい様を上回る料理の腕をお持ちに違いありません!」

「なんだと、このヒョロい娘が俺より美味い料理を作るだと!?」


 伴代の青筋がブチっと音を立てるのを、紫乃は確かに聞いた。

 紫乃に指を突きつけると、唾を撒き散らしながら叫ぶ。


「そんなわけねぇだろ! 大鈴、テメェ剛岩ごうがんからの陛下の古株だからって調子に乗ってんじゃねえぞ! 俺は先代夕餉の御料理番頭……紅玉こうぎょく様より直々にこの役職を指名されたんだ!」

「……何だって? 紅玉?」


 紅玉こうぎょく、の名前に反応しこれまで押し黙っていた紫乃はポツリと伴代に問いかけた。顔を真っ赤にした伴代ばんだいは、ぎろりと紫乃を睨んだ。その迫力たるや、山の中で出会う虎と同じくらいに恐ろしい。花見が紫乃の足元でシャーっと威嚇した。


「そうだ、かつてこの御膳所で『伝説の御料理番頭』と呼ばれたお人、紅玉様! 紅玉様は俺に夕餉ゆうげくりやを託してくださったんだ。だから、テメェのような奴にこの神聖な厨を汚されたくねえんだよ!!」


 紅玉。

 紫乃にとって馴染みのありすぎるその名前に、混乱した。

 伝説の御料理番頭?

 そんな話は、一切聞いた事が無い。

 ただ料理が好きなのだと……。快活に笑いながら料理をする姿しか、知らない。

 紫乃はしばし思考に耽っていたが、伴代が地団駄を踏み鳴らす音で我に返った。


「どうした、ぼうっとしやがって! さっさと出ていけ、その薄汚え手で一体どんな料理が作れるっていうんだよ、宮中作法の何も知らない奴が!? どうせ食えもしねえは木端が浮いた雑炊くらいしか作れねえくせに!」


 紫乃の肩が、跳ねた。

 ぎろりと伴代ばんだいを睨む紫の瞳は鋭く、その瞳に宿る意志は強い。


「誰が雑炊しか作れないって?」

「テ……テメェに決まってんだろう!」


 紫乃の料理を侮辱する。それは紫乃の逆鱗に触れる言動だった。


(この私の料理を馬鹿にする人間は、何人たりとも許さない)


「伴代、私が雑炊しか作れないかどうかは、私の料理を食べてから言ってもらおうか」

「なんだってぇ!?」

「作ると言っている。この私が、今から皇帝の夕餉とお前の食べる分を作ってやるよ」

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