第7話 天栄宮、御膳所という場所

 真雨皇国しんうこうこくの皇都、雨綾うりょう。その地の高台に、広大な敷地を誇る城が建っている。

 名を天栄宮。気の遠くなるほどの豪奢な作りの宮に向かって、今、雨綾うりょうの大通りを皇帝と蒼軍そうぐんが悠々と馬に乗って通り過ぎる。

 通りに集まった人々は一様にその場に膝をつき、首を垂れて地面に擦り付け、真雨皇国しんうこうこくで最も位の高い人物の帰還を歓迎した。


「どうだ、紫乃。圧巻であろう」


凱嵐がいらんは人々の間を抜けながら自慢げに紫乃へと話しかける。紫乃はげんなりして是とも否とも答えなかった。


(……何でこんな事に)


 今、紫乃しのは一際立派な馬に乗る凱嵐の前に強制的に座らされていた。ちなみに紫乃の腕の中には花見が抱き抱えられている。つまり花見、紫乃、凱嵐の順番で馬に跨っているのだ。


「この俺が操る馬に乗れる名誉、光栄に思えよ」

「…………」


 今すぐに降りて逃げ出したい。そう思う紫乃しのであったが、人質ならぬ物質を取られている以上逃げるわけにはいかなかった。検分するとか言って母の形見である料理道具一式及び漬物瓶を取り上げられてしまっていた。返してもらうまで迂闊に逃げる訳にはいかない。


「紫乃、ワテ、超偉くなった気分」

「花見はのんきだね」

「大丈夫、イザとなったらワテが紫乃と荷物を抱えて逃げるから。漬物瓶は……無理だけど」

「ありがとう、頼りにしてる」

「おいお前ら、筒抜けだぞ」


 紫乃がぎゅっと花見を抱き抱える手に力を込めた瞬間、頭上から凱嵐がいらんの声が降って来た。


「これだけの民衆にかしずかれて、何が不満だ? 俺の腕の中で馬に乗れる人間なんぞそうはおらんぞ。どのような娘であれ、一度は夢見る光景だ」

「はんっ」


 紫乃しのは凱嵐の言葉を鼻で笑った。紫乃にとってはどれもこれも迷惑なだけでちっともありがたくなんかない。さっさと逃げて、それで終いだ。隙を見て絶対に逃げ出してやると心に固く誓っている。


「……つくづく変わった娘だな」

「お前こそ、変わった皇帝だ」


 何せ田舎娘一人を逃さないように自分の馬に乗せるのだから。

 穏やかでない馬上でのやり取りを交わしつつ、皇帝の一行は天栄宮の門をくぐった。




「おかえりなさいませ、陛下」


 馬を降りても紫乃の身柄は離されない。凱嵐がいらんに首根っこを掴まれたまま、半ば引きずるように天栄宮の門の内部へと連れられた紫乃は、そこにずらりと居並ぶ人間にギョッとした。皆一様に額を擦り付けて地面にひれ伏している。

 凱嵐は視線を動かすと最前列にいる初老の男に声をかけた。


賢孝けんこうはどうした」

「ただいま手の離せない案件にかかっておりまして」

「そうか。終わり次第、罪人の取り調べに立ち会うよう伝えておけ。それから、大鈴だいりんを呼べ」

「はっ」


 その場で佇む凱嵐がいらんと、凱嵐が握りしめる紫乃しのに皆が好奇の目を寄せているが誰も何も言わない。


「紫乃、すごいにゃあ。無駄に豪華な作りの建物が超いっぱい。ワテ、こういう場所に入んの初めて」


 花見は紫乃の腕の中でぐるぐる首をめぐらせながら興奮したように言った。結構ミーハーな妖怪だ。二股に分かれた尻尾がゆらゆらと揺れている。

 やがてパタパタと足音がして、一人の女が急いでこちらに向かって来た。

 二十代前半ほどの背丈のある女で、右目の下にある黒子とぷっくりとした赤い唇。腰まで伸ばした黒々とした髪を一本に結び、先を丸めて輪にしている。着物の上からでもわかる豊かな胸と細い腰が特徴の色気のある女だった。女は凱嵐の前でやはり膝を折って頭を擦り付ける礼の姿勢をとる。


「お帰りなさいませ、凱嵐様。お呼びでしょうか」

「この娘の面倒を見てくれ。今日から御料理番頭に任命した」

「……今日からでございますか!?」

「そうだ。判代ばんだいには職を明け渡すよう言っておけ。身なりを整えさせ、膳所でのあれこれを教えろ。今日の夕餉ゆうげはこの娘が作った料理を出せ」

「かしこまりました」


 相当な無茶振りをされているはずなのに、大鈴だいりんと呼ばれた女は二つ返事で快諾する。


「よし、行け」

「うっ」


凱嵐がいらんに押されて紫乃はつんのめった。振り返って睨みつけると、美貌の顔立ちに余裕綽々しゃくしゃくの表情を浮かべている。


「今日の夕餉、楽しみにしているぞ」

「…………」

「さ、御料理番頭おりょうりばんかしら様、参りましょう」


 大鈴だいりんがそっと紫乃に頭を下げる。

 均一にならされた石畳の上、青塗りに金銀の装飾があちらこちらに施されている絢爛豪華な御殿群の中を縫うように歩きながら、紫乃は考える。

 どうやって逃げ出そう。荷物は検分しておかしな物がなければ返してやると言われているが、それがいつになるのやら。「やたら重い」「何だこれは」と言いながら漬物瓶が運ばれていくのを、紫乃は涙目になって見送るしかなかった。あぁ、あの漬物の出来はピカイチだったのに……ほじくり返されて使い物にならなくなったらどうしてくれよう。

 早急に逃げ出す手段を考えなくては。

 今日の夕餉を出さずにすっぽかせば、怒った凱嵐に放逐ほうちくされるかもしれない。そうすれば一緒に荷物も放り出してくれるのではないか。

 そうだ、それがいい。

 紫乃は結論に至り、少しだけ先が明るくなった。

 そうと決まれば簡単だ。自分は何も作れないで押し通す。大体、紫乃の作った料理が皇帝の口に合うはずがない。先に振る舞った料理はあれだ、きっと弱った心に染み渡っただけなのだ。非常事態に命を助けられ、ちょっと感動しすぎただけだ。きっとそうに決まっている。

 少し冷静になれば凱嵐がいらんとて、「俺は何故こんな田舎娘を連れて来たんだ」と考えるだろう。

 なのでなんの問題もない。よしよし。


「……何を笑っておいででしょうか、御料理番頭おりょうりばんかしら様」


 思考に没頭していた紫乃に怪訝そうな声がかけられた。

 はっと我に返ると、前を歩く大鈴だいりんが振り向いて紫乃を見つめている。困惑顔だった。


「紫乃」

「はい?」

「名前は、紫乃」

「では紫乃様」

「様は要らない。紫乃でいい」

「ですが……御料理番頭と言えば私の上司にも当たる役職。呼び捨ては出来ません」

御膳所ごぜんしょで働いているのか?」

「はい。御膳所の給仕番きゅうじばんまとめ役、大鈴だいりんと申します。以後お見知り置き下さいませ、御料理番頭、紫乃様」

「いや……あの、御料理番頭ってどんな役職なの?」


 異常に丁寧な所作と言動で紫乃に接する大鈴に、思わず問いかけた。たかだかいち料理人にどうしてこうも慇懃な態度をしてくるのか。

 すると大鈴は長いまつげに縁取られた瞳をくわと見開くと、「まぁ」と言ってから説明をする。


「御料理番頭といえば、御膳所で働く二百人の頂点に君臨する役職。その指示は絶対で、料理の腕はもちろん陛下からの信頼も厚い者でなければ務まりません。夕餉ゆうげの御料理番頭は長らく伴代ばんだい様が任されておりましたが、この急な交代命令、さぞかし紫乃様の腕が優れているに違いありません」


 紫乃は大鈴の説明を聞いて目眩がしそうになった。


「……料理を作る人間が二百人もいるのか?」

「正確には、料理番は六十人でございます。朝昼夕、三人の御料理番頭の命令に従い調理の補助をする人間。それから毒味番どくみばんが二十人。調達番ちょうたつばんという、食糧の調達を一手に引き受けている者が三十人。あとは城に来た食材を蔵に運んだり、井戸水を汲んだりする力仕事の運び番が四十人。そしてわたくしの仕事でもある食事の配膳、下膳をする給仕番が二十人。その他に諸々の雑事を引き受ける小間使いが三十人ほど。これが御膳所で働く人々の全てでございます」


 大所帯。

 あまりにも大所帯すぎる。

 想像を遥かに超えた御膳所という場所の壮大さに紫乃は絶句せざるを得ない。


「ちなみにこの御膳所は皇帝陛下お一人のために料理を作る場所でして、その他に元皇后様の白元妃様のためにお料理を作る奥御膳所や、下女や下男の為の炊き出し場などもございます。宮中にのぼるお役人様は、弁当持参でやって参ります」

「たった一人のために……二百人?」

「左様でございます」

 

 眩暈がしてきた。

 どんな場所なのだ。

 恐ろしすぎる、天栄宮。

 身震いする紫乃に気づいているのかいないのか、大鈴は「さ、使用人の宿舎に着きましたよ」と告げた。

 その使用人の宿舎とやらも、紫乃の住んでいた小屋が五十は入りそうなほどの大きさである。


「ささ、早くお支度をしなければ。夕餉の時間まで、あと三刻六時間しかございません。やる事は多うございますよ」

 三刻もあれば十分すぎると思うのだが、紫乃の考えと大鈴の考えはどうやら大きく異なっているようだ。

 宿舎に入った大鈴は紫乃を浴場へと案内すると、自分は頭を下げて「では諸々の用意をして参りますので、ごゆっくりどうぞ」と言って去って行ってしまった。

 

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