第23話 愛は傷つかないが、プライドは傷つく

「おい、夏梅、怖すぎるぞ、やめろよ」天十郎が上ずった声を出した。


 夏梅のその目には涙がにじんでいる。


 僕は、夏梅の目と耳の間にそっとキスをした。


 夏梅は天十郎を見据えて、訴えるように


「私ね蒲を、私の傍に置いているのはね。誰の為でもない、私の為なのよ。塁は、あの時から蒲にぴったりくっついているの、蒲が私を殺さないように、塁が見張っているのよ。だからね。蒲と一緒に住んでいても、大丈夫なの」


「おい、ミステリーかよ。殺すとか、殺されるとか、冗談もその辺でやめてくれよ」


 天十郎は蒲を見た。


 蒲は、天十郎に背を向けて黙ったまま、リビングの窓に向かって歩き出した。それを見た天十郎は急に笑い出した。


「おい、可笑しすぎる、俺は俳優だぞ、俺よりうまく演技をしたら変でしょ」


 夏梅も黙りこくっている。天十郎は夏梅を抱きしめて


「夏梅~お手上げ。蒲と、どれだけ仲がいいか、わかったからもう止めてくれ。幽霊とかさ、霊魂とかさ、死んだ人間の話は苦手だ。本当に怖がりだからさ、ね。怖いよ、冗談キツイよ」


 懇願する、天十郎の声は跳ね上がっている。夏梅は


「天十郎、蒲の傍には塁がいるのよ。いつも蒲を監視して、私を助けてくれている。本当の蒲は優しくなくて、乱暴だし、意地が悪い、基本、女には触りたくない方だしね」


 そうか夏梅は気が付いていたのか、そうかもしれないな。なぜか安心する僕がいた。だが、僕の安ど感とは正反対に、天十郎のパニックは大きくなって行く。


「その理屈だと、今までずっと幽霊と同居していた事になるでしょ。それにあんなに親密に接しているのに、なんで蒲が夏梅を殺すのさ」


「蒲、なんとかいえよ。冗談だって」天十郎はヒステリックだ。


 窓の前で外の薄明かりを眺めていた蒲が、ゆっくり振り返ると夏梅を見た。

 その目には殺意があった。なにかにひきよせられるように夏梅に近づく。





【夏梅は緊張し】


 爪をちゅっ、ちゅっと吸っている。


 僕は「夏梅 指を食うな」とボソッと言った。その言葉に反応するように、夏梅が飛び上がって僕の首に抱きついてきた。


 僕は優しく、首に抱きついている夏梅を、抱き寄せて目と耳の間にキスをする。


 僕が天十郎に重なったとたんに、蒲は「天十郎から出ろ」と怒りをあらわにして、酷く腹立たしく「いつまで続く」と引き裂くように叫んだ。


「あの日、俺は助けようとした。ただのおふざけだ。大切な塁を傷つける事なんて考えてなかった。なのに、夏梅に手を出すなって、夏梅ばかり、かばいやがって、夏梅、夏梅って雑音だ」


 蒲が憎しみを夏梅に集中させた。


「夏梅が満足するまで、天十郎には人形でいてもらう、それが蒲、お前のおふざけの代償だ」


 僕は悪意を言葉に変えた。


「それは、いつだ、夏梅が満足するのはいつだ」

「さあな」冷たく言い放つ僕に、蒲は懇願するように言った。


「お前の気持ちはわかるよ。だが、おかしい、何かがおかしいよ。他に道はないのか?」


 僕は蒲を見下すように「お前が選択した事だ」と拒絶した。


 蒲はヒステリックに

「選択って、お前だろ、お前が、俺を選ばなかった。塁!なぜお前は俺を選ばない!」叫ぶと、いたたまれないようにその場から飛び出した。


「そうだ、人はいつだって選べるのだ、お前も自分で選んで、今の満足いく生活を手に入れた。だけどひとりだけ、夏梅が選べなかった」


 僕は、蒲の後ろ姿につぶやいた。どうやら、夏梅は気を失っているようだが、呼吸は乱れていないので、そのまま、僕は天十郎から出た。





【いつもなら】


 夏梅か天十郎のどちらかが気が付き離れるのに、天十郎はそのまま、意識のない夏梅を抱きしめている。


 天十郎に敵意は抱いていない。僕は、蒲の好きな相手を利用する事だけしか考えていなかった。


 天十郎の妻パワーと母さんパワーは、夏梅の対抗意識を刺激しテンションを上げている。ただ代替愛をむさぼり泣くだけの、夏梅の人生よりましである。


 天十郎が同居を選んだ時点で想像もしなかったが、夏梅にとってはましな展開なのかも知れないと思い始めていた。


 夏梅の様子を見るために、振り向きざまに天十郎と目が合った。

 天十郎が僕を見ている…。





【お前】


 僕は思わず天十郎に声をかけた。天十郎は、落ち着いた様子で夏梅を抱きしめたまま「塁か?」と僕に訊ねた。


「ああ」僕は答えた。


 天十郎はため息をつき、観念したように

「拒絶しなければ、なんでも見えるのだな。夏梅の気持ちも、蒲の思惑も、お前の姿も」


「驚いたか?」僕は静かに天十郎に聞いた。


 いつかこんな日が来るような気がしていた。


「そう言えばそうかも知れない。いやそうでもない。本当はお前が俺の中に入って来るのを薄々感づいていた。だけど拒絶していた。見たくなかった、信じたくなかったというのが正解だろな。だけどもう一方で俺は知りたかった。同じように俺が夏梅にSEXしているのに、なにが違うのか、どう違うのか知りたかった」


「そうか」僕は頷いた。


「お前って誰だ」

「僕かい?夏梅の幼馴染の前夫。知っているだろ」


「随分、簡潔だな」

「もう少し、詳しく話せば、蒲と夏梅と僕は両隣三件とも家族事仲良しで、親同志も信頼していた。偶然にも三人同じ歳の事もあり、夏梅のからだの凹凸に、親たちが気が付くまで、三人いつも寝食を共にしている状態で育った」


「ひとつ聞いていいいか?」





【お前は死んでいるのか?】


「からだを捨てて、生き残った」


「はっ?どういうことだ」

「あの日、二階の窓から蒲の首にぶる下がった格好になった時に、蒲をとめるにはからだを捨てるしかないと思った」


「つまり、幽体離脱ってやつ?」

「わからない。夏梅が見た通り、からだだけ落ちた」


「どうやったら出来る?」

「計画して出来る物でもなくて、しいて言えば物の弾みかな?」


「あー?物の弾みか…?うーん!物の弾みとは恐ろしいな…。でもさ、おおよそ話をまとめると、蒲がお前を殺した事になるのでは?」


「そうかな?そうかもしれない。蒲の言う、おふざけで夏梅を殺したいと思わなければ、こんな事態になっていないだろな。人を殺したという罪悪感を背負うのは相当の覚悟が必要だが、蒲にはそれが欠落している。あいつは考えていなかった。人を殺したら死ぬまで罪悪感と戦う事を。自ら死を選ぶ思考もない。あいつの人生は無我夢中で暴れ続けるだけだから、君と夏梅がスッポン体質で助かったよ」





【僕は穏やかに答えた】


 天十郎は蒲の話しより、体質の話に興味を持った。


「スッポン体質って何だよ」


「二人共、スッポンのように一度、掴んだものは放さないからさ。おかげで誰も泣かずに地獄に落ちることなく、諦めずに来られたよ。とかく、相手の為とか言って身を引くこともおおいけど、掴んだものを放さないって、大切なんだな。お前たちに教わったよ」


「そうか?褒められているのだろ、俺たち?」

「ああ」僕は返事に感謝を込めた。天十郎は嬉しそうに笑った。


「おい、そういえば、褒められるといえば、塁、夏梅の話を聞いていたのか?」

「ああ」僕は少しテンションが落ちた。出来るならこの話題には触れたくない。


「二十年経ってもあそこまで言われたら、やっぱり嬉しかっただろうな。少しだけでも救われた気分だろ?」

「僕は複雑だ。この話をしなくても、いいのではないのか?」


「そうかもしれないけど、やっぱり気になる」

「確かに、優劣は気になるな。女のあいつの気持ちを理解することは出来ないけど、ひとつだけ、はっきりしている事がある。ベビースマイルだ」





【?】


「天十郎が最初に来た頃、夏梅に「どうしていつも笑顔なの?」と聞いていたろう?」

「ああ」天十郎は思い出したようだ。


「最近、あのベビースマイルを夏梅は君に投げかけたか?」

「いえ、最近は記憶にない…」


「そうだろ?」

「それが何か?」


「あれは、他人と向き合うとき、緊張で、口角が一ミリほど上がるから、見る側の印象が自分に微笑んでいるように見える。だから釣られて向き合った方も笑顔になるのだが、本人は他人に声をかけられることが嫌いだから、尚更、緊張してベビースマイルが消えない。いつも笑顔って事になるのだ」


「…?」

「スキャンダルにもなったが、蒲に対してもベビースマイルだろ?だからお前も疑ったよな?」


「ああ」天十郎は居心地が悪そうだ。


「違う。逆だ。天十郎、お前があのベビースマイルを見なくなったというのなら、夏梅はお前を他人として見ていない。緊張しない相手として見ているという事だ。そしていまだに、夏梅は蒲に、緊張しているということだ」


「俺が思っている事と、違うのか?」





【天十郎は、さっきからずっと、夏梅を抱きしめたままだ】


「ああ、緊張していることが、ばれると相手が上に立つ。夏梅の場合は、そうなったら最後、ねじ伏せられてしまう可能性がある。相手に隙をみせないように、無意識にそうやって戦っている」


「本当に笑うと、どんな感じだ?」

「笑いシワが出来る笑い?あれが素の笑い方だ。小さい頃からそうだ」


「本当か?不細工だな」

「ああ、たしかに不細工だ。僕がずっと見て来たからよくわかる。僕と子供達、天十郎にしか、あの笑顔を見せてないと思うよ。お前が夏梅にとって、特別な存在になってきている証拠さ」


「そうなのか?わかりにくい奴だな。でも、その笑いなら最初から笑ってるぜ」

「えっ」


「夏梅が取材した翌日、夏梅の家で垢落としした時、人の事ばかにして、笑っていた」


 そうだった。思い出した。夏梅は僕が隠れてしまってから、笑わずに過ごしていた。あの時、お風呂で笑ったのだ。僕はその夏梅が可愛いと思った。そうか、最初からだったのか…。そうか…。


「笑顔の人は受け入れられていると、思って来たけど、本当は警戒されていると見た方がいいのかな?」ひとり納得している。


「一般論はわからないが、夏梅の場合は、親愛≠ベビースマイル=警戒と言う数式だ。人の緊張をほぐし安心させ、トラブルにならないように相手の笑顔を引き出す。無防備なベビースマイルを見せている時は、緊張度100%で警戒態勢だと思えばいい」


「俺、夏梅がベビースマイルでいる時は、大丈夫な時だと思って、あえて放置してきたけど、違ったのか」


「夏梅の救助信号だ」

「知らなかった。蒲は知っているのか?」


「知っている」

「俺、知らない事ばかりだな。で、ずっと、俺を操っていたの?」


「天十郎、違うだろ。お前は知っているのではないか?僕に出来る精一杯の事は、夏梅にとって、一番、悲惨な人生にしないことだ」





【一番、悲惨な人生って?】


「孤独の中で、つなぐ手がない事だな」

「…」


 正直に話そうと思った。


「僕は、孤独の中で差し伸べてくれる手がどれほど、貴重か夏梅の母親に教わった。共稼ぎの両親は、夜遅く帰って、僕が家にいないと、夏梅の家に迎えに来る。そして母親の元で目覚めると、そのまま夏梅の家に行き、朝食を食べる。学校もすべて夏梅と一緒だった。夏梅とは、双子のようにして育ってきた。両親は僕を愛していたと思う。

 だけど、実際には一人で暗闇の中で、両親を待ち続ける事は出来なくて、夏梅のところで待つ事で、どれだけ救われたかわからない。親の思いと子供の思いは、いつも一緒とは限らないだろ?僕の地獄は、物心ついてから、出口のない孤独の壺に密封されていた事だった。その地獄の外から、手を差し伸べてくれるのは、夏梅と夏梅の母親だったのだ。二人とも、そんな事はなにも思っていなかったろう。しかし、僕にとってはとても重要な事だった。

 そのことによって、一人っ子の夏梅は、いつも僕らと物を分けあい、譲らされる立場になった。欲しいものを欲しいと言えなくなった。蒲にどんな仕打ちをされても、蒲が悪いと言えなくなった。一人っ子で愛されて育ったとは思うが、実際には愛は分散されていた」





【どういうことだ】


「僕が、それに気づいたのは、夏梅の両親が亡くなってからだ。両親が死んで、影も形もなくなった。夏梅は泣かなかった。ただ僕に聞いたよ。『私は塁と同じになったの?』とね」


 僕は夏梅を見ながら


「最初は夏梅の言っている意味が解らなかったが、一緒に暮らすようになって、夏梅の両親が、いつも親がいる夏梅と、僕らを比較して、『お父さんやお母さんがいない塁君や蒲君が先』と言われ、食べ物も、おもちゃも、先に僕らが選び、残り物を夏梅が受け取っていたことに気が付いた。夏梅は、何をするのにも、迷っていた。自分が先に動くべきか、それとも僕や蒲が先なのか迷う。長い間ただひたすら、僕に従っていた夏梅は人形のようになっていた。夏梅の母さんは、譲れる気持ちのある、優しい子どもになって欲しかったのかもしれないが、それは繰り返し欲しいものを、欲しいと言えない子になる暗示をかける事になった。それがわかった時に、僕がするべき事がわかったよ」


 天十郎は怪訝そうに


「そんな、小さな事で暗示にかかるかな?」

「たとえジョークでも、親の何気ない一言に子供は深く傷つく。本来は慎重に言葉を選ぶべきだと、夏梅をみていると思うよ」


「塁の夏梅への気持ちって、罪悪感か?」


「そうかな?あの時も、今も、僕はひとつひとつの感情に名前をつけて分析したり、理由にしたりするつもりはない」





【でも、そうやって、人は逃げる理由を探すだろ?】


「無駄な事だな。どの感情も僕であることには違いない。ひとつの理由で、ひとつの感情で決められることなんてないよ。人は沢山の感情で作られているのだから」


「まあ、そうだな、そう言われてみれば、そうかも知れない。たしかに、今の俺は、ひとつの気持ちで成り立っていない」


「それと同じで、一見、特別に幸せそうに見えた夏梅が、実はそうでもないと言う話だ。夏梅もまた、孤独だったから、親の言う通りに僕に従順であろうとしたのだろ。蒲もそういう意味では同じだった。蒲の母親は一緒にいたが、別の意味で、孤独だった。僕から見ていると、親は、蒲を言葉で傷つける事しかできず、その傷を夏梅にぶつけていたような気がする。本人がどう思っているかわからないが…」



【そこまで話すと】


 僕は、天十郎に、深く頭を下げてから、あらためて顔をみて


「だから僕は、天十郎、君に感謝している。少なくても、蒲に痛めつけられ、男に追いかけまわされる人生よりも、母親としての人生の方が良い。お前たちが夏梅を捨てたとしても、子供だけは残るだろ?」


 天十郎は急に頭を下げた僕に驚き、なんと答えるかやっと探し出したように、


「いやそれは…。どうかな、いくらでも険悪な親子は、いるからな」


「夏梅とお前が、あれだけ愛情をかけているなら、大丈夫だろ?」

「まあ、そうだが、確かに可愛いよな」


「求めても、得られない幸せを追って地獄に落ちるよりも。幸福でも不幸でもない人生で、いいのではないのか?俺だって、寝ている時間しか、一緒にいなかった両親でも、愛されているのはわかった。それだけで子供は親を捨てないさ。それに、お前が来てから夏梅が変わった。嫌だと、声に出すことを覚え、今、自分に足りないものを、偽りでも足すことを覚えた」


「確かに、めちゃくちゃな女だ。お前がいるから俺の理性が保たれない」


「やはりそこが問題なのか?その話なら、着物のモデルで、全身に火傷や湿疹が出た事があった頃からかな?お前は夏梅を保護しだしたよな?夏梅を甚振ろうとしている、蒲の本性に気づいた瞬間に、お前は臆病になって隙だらけだった。だから、あの時にお前に入れた」





【お?スーツがずぶ濡れになった時か?】


 僕は思い出すように頷いた。天十郎もあの時の事を思い出しているだろう。


「僕が入ったことで、夏梅もお前も二人共、混乱しているようだけど、お前自身が夏梅を欲しがっている。そして夏梅もまた同じだよ。だから、僕がお前に入って夏梅とSEXした事はないよ」


「しかし…」

「お前に入ったのは、あとは、さっき蒲が夏梅に殺意を丸出しにした今回と、吉江の暴行事件の時くらいだ」


「本当か?」

「お前、わかっていたのだろ?」


「まあ、吉江の事件の時は、所々覚えているのだ。自分の意志だったような気もするし、誰かに動かされていた気もした。いくら考えてもわからなかった」


「あの時、あのまま吉江のところに、一人で夏梅を行かせることが、どれだけ危険か、天十郎は薄々感じていたのだろ。僕と同じで…」


「そうだな、蒲のやっている事が、何もかも気に入らなかった。車に乗ってからも夏梅の事を、考えていたかも知れない」


「基本さ、愛は傷つかないが、プライドは傷つくだろ。それぞれは別ものだが絡みついたプライドは、愛を見失わせ遠ざけ捨ててしまう事になる。最低でも互いのプライドを守らないと」


「だが…」

「安心しろ。だから理性を失くしたのは僕のせいじゃない。お前自身と夏梅だ」

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