第8話 使い捨てカイロ
天十郎が我に返り「俺と手なんて繋ぐな」と、蒲の方をみながら、夏梅の手をほどいて、玄関に向かった。
夏梅は解かれた手を宙に向けた。
僕は夏梅が少しでも眠れるように、いつものようにカーテンを閉めた。
やって来たのは、日美子さんだ。
「やっぱり、帰って来ていた?」蒲と天十郎が玄関に出迎えた。
「どうしたのですか?」と蒲が聞くと、日美子さんは早口で
「撮影スタジオから突然いなくなっちゃって、お正月用のブログに乗せる写真を撮る為にアルバイトお願いしたのだけど、やっぱりダメ?」
「汗疹だらけで、俺らはいい迷惑です」
怒ったような蒲の声が玄関にこもりながら響いている。
「ごめん、ごめん、彼女がいるだけで人が集まるのよね。どうしている?」
「今やっと薬を塗って横になった」
そんな蒲と日美子さんの会話が玄関先からリビングにやってきた。カーテンの隙間から様子を見ると、天十郎はボーとしている。
日美子さんは天十郎を見て
「着物は?」と聞くと、ぼそっと
「脱ぎっぱなし」天十郎は答えた。
その言葉に、日美子さんは蒲に向かって
「たたみなさいよ、あの着物は高いのよ」叱ると
「たたみ方を知らない」蒲がぶっきらぼうに言った。
「まったく、男は使いものにならないわね。着物のたたみ方くらい覚えなさい。日本人をやっているのだから」
「俺、知っています」天十郎が口を挟んだ。
「へえ、やっぱり俳優さんは違うわね」
笑いながら日美子さんがソファーベッドのカーテンをあけ、夏梅の顔を覗き込む
「寝ていると可愛いわね、頭のセットはそのままね。起きたらはずしてあげましょう」
部屋の中を見回し、忙しそうに玄関ホールやリビングに散らかっている着物やその小物を集めている日美子さんだ。
「日美子さん」天十郎が声をかけた。
「うん?なに?お茶でも出してくれるの?」
「あっ、ええ、用意します」と言いながらキッチンに向かい、キッチンからお茶の用意をしながら「日美子さん聞いていいですか?」
「なに?」
「どうして、コルセットしてタオルを何枚も巻いて、使い捨てカイロを入れて、結び目をワイヤーで固定して、あんな着方を見たことがないけど…。あるのですか?」天十郎は不審そうだ。
【使い捨てカイロ?】
日美子さんは、落ちていた使い捨てカイロを着物の小物と一緒に拾ったが、意味を理解できないように
「九月に使い捨てカイロなど使わないわよ。夏梅みたいにウエストが細いとタオルを何枚も巻いて形を整える事はあるの、ましてこの子はバストとウエストの段差が大きすぎるので、着崩れに心配があるからワイヤーで止めるのよ」
「普通ですか?」
「ああ、そうよね。そう多くはないけどね、体形によってタオルやワイヤーは使うのよ」
「コルセットも?」
「夏梅はずっとコルセットしている」と蒲が言った。
「どうしてコルセットをしている?」と天十郎が聞いた。
「この子ね、分離すべり症なの。分離すべり症は、第五腰椎に支障がある状態。高校生の頃、橋から落ちて以来コルセットをしているの。コルセットをした状態で測るとウエストが54㎝なの」
「ふーん」天十郎は日美子さんの解説が、納得できないようだ。
「だからね。夏梅の場合、既製服のサイズが胸に合わせると2LサイズでウエストはSサイズ。つまり日本人の標準的な体形と違うので、胸のサイズの洋服の形に合わせるとコルセットの上からタオルを二枚巻くことになる」
「それで?」
「着物は寸胴が一番素敵に見えるから、普通でもタオルや綿を入れて外から着物姿が美しく見えるようにするのね。夏梅の場合はウエストが細く、胸のサイズが大きいから、腰はタオルだけでは足りなくてバスタオルを巻くから、緩む事も多い。着崩れをしないように紐や帯もきつく結ぶし、緩まないように手芸用のワイヤーを使う事もある。今日は撮影用のライトも使ったから暑かったかしら?撮影が終わって休憩してから脱がせるつもりが、我慢が出来なかったのかな。休憩中にいなくなってね」
「それで、あんなに汗疹が?でも使い捨てカイロはないでしょ」
天十郎は日美子さんを攻めるように、かなりきつく言った。
言いがかりをつけられているような言い回しに日美子さんが急に怒り出した。
「さっきから何を言っているの、使い捨てカイロがどうしたって?」
「タオルの下に、使い捨てカイロが挟まっていて火傷していましたよ」
籠った低い声で、日美子さんの怒りを突き返すように天十郎は日美子さんに言った。
「使い捨てカイロなんて…ばかな事を」
そう言いながら、日美子さんがソファーベッドに寝ている夏梅のバスタオルを取り、夏梅の素肌に張り付いていた使い捨てカイロの火傷の後を見て、茫然として言葉に詰まった。
「病院は?ああ、そうだった。簡単に病院も連れて行かれない子だったわね」
「今は赤みが治まっているから、様子を見ています」
「とにかく、なんでこんな事になったのか、調べてみるわ」
日美子さんは深刻な顔をして蒲を見た。
【日美子さんが帰った後】
蒲はさっさと、二階の自分達の寝室に上がってしまったが、天十郎は、寝ている夏梅の傍を離れなかった。
目を覚ました夏梅に
「水分をとった方がいいだろ。お茶を入れてやるよ」
声をかけた天十郎を夏梅は求めるような目で一瞬みたが、夏梅はすぐに目をそらした。「なんだよ」と天十郎が言うと、沈んだように「いや」とソファーベッドに顔をうずめた。
夏梅の気持ちを考えると、僕も切ない気持ちでいっぱいになった。
「着物や洋服を着るのも苦労しているなんて、知らなかったから、無理矢理に帯を回して、悪かったな」
「うん」
「胸がデカいのも、大変だな」
「うん?胸?」
「頭も小さくて子供サイズなのに、胸だけがLLサイズだから問題なのだろ?そのブカブカの洋服も胸に合わせるから、肩も腕もブカブカでだらしなく見えているだけだろ?」
天十郎は同情しているのか、それとも僕のせいか、どうも今までと様子が違う。夏梅はそんな事をまったく気にもかけていないようだ。
「うん、そうだね。不必要に胸が大きい」
「でも、他の人はうらやむだろ?」
「うん」
「男が行列を作って後を追いかけるからな」
「うん」
「男はみんな大きいおっぱいが好きだろ」
「そんなことないよ」
「そんなことあるだろ、ストレートなら…」
「そんなことない、私の好きな人はモデルさんのようなスレンダーが好きだ」
「えっ?」
僕は夏梅の答えに驚いた。夏梅が好きなのは、僕のはずだが…。
「好きな人???」天十郎は夏梅の好きな人という言葉に反応し聞き返した。
「好きな人なんているの?」
「うん、いるよ」夏梅は淡々と答える。
「誰?」
「塁」
「塁?それ誰だよ」天十郎の問いかけに、夏梅は答えずに僕の話をし始めた。
「塁は引き締まった、運動選手みたいな人が好きで、私みたいに運動しても筋肉が付きにくくてぶよぶよは好きじゃない」
夏梅は何を言っているのか?僕の好みは運動選手?誰の事だ?僕は考え込んでしまった。
自分の好きな人の好みのタイプになれない自分を、責めるような言い方をする夏梅を、天十郎はかわいそうに思ったのか、慰めるように
「ぶよぶよって、別に太ってないでしょ。確かに筋肉質じゃないけど、細くてもしっとりした肌質でヒヤッとして、ぷにぷにして、俺は気持ちいいけどな。そう、抱き枕みたいに、気持ちいいぞ」
「抱き枕?」
「うん」
「塁もそう言ってくれればいいのに、どんな形でも選ばれたい」
おい夏梅、違うだろ。なんでそんな発想になっている。ちゃんと選んだじゃないか!僕は夏梅の発言に驚いた。
天十郎はため息をつくと
「端から男を振りまくっている奴が、選ばれたいのか?」
「男を振りまくっているって言っても、相手はただSEXしたいだけでしょ。一方的にSEXしたい人に、私が合わせる必要があるの?それを振りまくっているっていう事なの?私が悪いのか?」
「男たちが寄って来るのは、SEXだけが目当てって知っていたのか?」
夏梅は返事をしないで遠くを見た。天十郎は気まずそうに「いいだろ、減るものでもないし」と冗談風に言った。
「いや、減る」
「何が減るのだよ」
「人間としての尊厳。私も人間である以上、脅かされては尊厳が維持できない。人間が生まれて誰にでも与えられる尊厳が減る。踏みつぶされる」
冗談めかして濁そうとしたのに空振りした天十郎が、何か言いかけて手を頭の上に置いて考え込んだ。
天十郎は男地獄で、もの扱いされて来て、スポンサーの意向通りに接待やSEXを強制されて来た。家の中をぶらぶら歩き始めた天十郎は何と答えるのだろう?突然、戻って来ると夏梅の隣に座った。夏梅は嫌そうな顔をした。
「塁は違うのか?俺らと一緒か?」
「塁は、私を目で犯さない」
「うん?どういう事?」
「ストレートは私を目で犯しているのがわかる」
「わかるの?」
「うん、わかる、脅かされるような感覚でキリキリする」
「悪寒ってやつか?」
「よくわからないけど、不愉快」
「蒲は?」
「蒲は私が嫌い」
「嫌いなのか?」
「うん」
「よくわからないな、嫌いなのに一緒にいるの」
「目で裸にされ犯されるより、嫌われている方がまだまし」
「まだ、ましなんだ」
「うん」
「俺は?」
「それ?それにも嫌われているから」
「それって、ひょっとしたら、俺の事?」
「そうだよ」
「俺はまだ、ましなのか?」
「うん」
「塁は目で犯さないし、嫌っていないと、いうことか?」
「ただ、無駄に胸の大きいのが好きじゃない」
「お金を貯めて、胸を小さくする手術すればいいよ」
「昔はそれも考えていたけど…。今は…」夏梅は言葉をつまらせた。
【その日以来】
天十郎の態度が少し変わって来たような気がする。ふたりとも、騒がしいのは変わらないのだが、以前と違って天十郎が少し手加減しているように見える。蒲はそれが気に入らない。
僕にも蒲にもわかる手加減が入ると、蒲は僕を避難するように見る。僕はニヤリと笑う。そんな事が、ここ何日も繰り返されている。最近は僕が夏梅を追いかけまわし、蒲が僕を探し歩いている。
蒲はかなりイライラしている。
ソファーベッドで、夏梅の寝顔に見入っている僕に、蒲が来いと目で合図してくる。二階に上がると、寝室で天十郎が寝ている。となりの衣裳部屋に入ると僕は失笑した。
「なんだ、一日中追いかけまわしやがって、そんなに僕が好きか?」
「塁、天十郎に何をした」
僕は蒲の必死の形相に可笑しくなった。
「お前が知っている事だけだ」
「あの時…」
「ほら、知っているじゃないか、聞くなよ」
「おい、塁」蒲がすごんだが、僕はにこやかに
「蒲よ、言ったはずだ。お前次第だってな。そもそもお前が代償を払うと言った。覚えているだろ?」
「あれは…」
「今回は天十郎がとめたが、夏梅が本気で求めたら、誰もとめられないぞ」
「くそ」
「お前さ、いつも僕がクソ真面目だとか言って、もっと人生を面白く生きた方がいいと言っていたが、人生が修正できるなんて思っていないだろうな。そんなもの誰も出来ないのだよ。だから、みんな踏み外さないように慎重に生きている。ふざけました。なんて言い訳が通るわけがないだろ、どう代償を払うかだって、一つ一つ。お前次第だよ」
「おい」
「ここでもおふざけで、許しを請うか?それとも、もう構わないでくれと、ひざまずき、涙ながらに懇願するのか?」
僕は蒲を見ながら薄笑いを浮かべた。
「そうしたら、やめるのか?」
「無理だね、お前も僕も後戻りなんて出来ないのだから、夏梅だってあれほど強く我慢しているのがわかるだろ、お前も我慢しろよ」
「これ以上、どう我慢をしろと言う…」
「今のレベルの我慢じゃ、僕や夏梅の我慢の爪の垢にもならない、全然足りてない」
「おい、なぜ天十郎を同居させている」
「はあ?同居させたのは、蒲、お前だろう」
「いや、塁、何か魂胆があるのだろ?」
「そうか?お前はそう思うのか?人は自分の認識で物事を判断するから、そう思う、お前のする事には魂胆があると言う事だな。残念ながら俺には魂胆がないぞ、なにしろ不自由な身分なんでな」
「わかるものか」
「そもそも、天十郎がこのうちに来るように仕向けたのはお前だろ?わざわざ立花編集長に提案して、天十郎の取材を夏梅にさせるのに成功したと、喜んでいたではないか。二人の反応を見て楽しんでいたのだろ?」
「違う!」蒲は悔しそうに僕を見ている。
「すべては、蒲、お前がお膳立てをして、引き金を引いているのもお前だ。僕のせいにするなんてお前らしくないぞ。まだ僕はなにも、大きく動いていない事は知っているだろ、そして僕が出来る事の一部も見たはずだ。蒲、お前がこれからどうするのかが、楽しみだな」
僕はサンルームの窓ガラスに映る蒲を見ながら、ニヤリと笑い
「お前、小さい頃から僕に一度も勝てないけれど、これじゃ、これからも勝てないな」と呟いた。
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