第7話 だらり帯の恐怖
黒川氏が暗い顔で
「ポートレートを見た茂呂社長から提案があった。天十郎と連絡が取れなくなった時点で、事務所とは契約違反で契約解除になっている」と告げると…。
蒲が吐き捨てるように「どんな契約だよ」というと、天十郎は情けない顔をした。
「詳しい内容はわからないが、とにかく、天十郎と連絡がとれるなら、うちと新たに契約したいと言う事だ。弁護士にも相談中だが今の事務所との契約内容を確認して、うちにも天十郎にも不利にならないようにしたい」
「しかし、今の事務所が黙っていないのでは?」
蒲は不安そうだ。
「その辺は、茂呂社長が今の事務所と天十郎の契約がある限りその部分を含めた、ギャランティを考えるそうだ」
「そこまでして、天十郎が欲しいのか?」
黒川氏が頷きながら
「恐ろしい執念だよ。相手が悪いな。慎重に動かないとまずいかも知れない」
と答え、しばらくの沈黙のあと気を取り直したように
「で、考えてみたんだが、こちらはモデル・タレント事務所ではないのでメイクやヘアコーディネイトを基本契約にして、個人指名が出来ない専属モデルの貸し出しをする。モデル自体にフィを発生させないやり方が望ましいが、天十郎君は俳優だろ?モデル業だけをしていれば良い訳ではないだろ。
こちらは俳優業の営業スキルはないので、うちで引き受けるなら、そこのところを蒲がサポートしないと、難しい」と黒川氏が、蒲に向かって尋ねるように話をした。
すると今まで黙っていた天十郎が黒川氏に
「今の事務所との契約が切れる来年の四月まで、なんとかしのごうと思っていたのですが、今の話だと、黒川さんの所でしばらくモデルをして、その期間に蒲が俳優の方の営業をすると言う事ですか?」
「まだ、提案の段階だが、おおざっぱには、そうだ。まあ、いくつかの茂呂社長からの条件があるが…」
「どんな条件ですか?」
「今のところ、新たに月三回の化粧品の代理店研修の参加と半年間のコマーシャルタレントの契約延長がメインかな。半年というのは、丁度、今の事務所との契約が切れるタイミングでしょ」
「ああ、そうですね」
「なにか、ネックになる事はあるかな?」
黒川氏が天十郎に聞いた。天十郎は考えていたが
「たぶん、結婚が出来ないくらいじゃないですか?」
「そうか…。ここは笑っていいよな」
と黒川氏は楽しそうにした。
「ええ、いまのところ、結婚願望はないです」
黒川氏に合わせて天十郎も微笑んだ。
「しかし、どうして、こんな事になっているの?個人的な話を聞きたい訳ではないけれど、差しつかえのない程度でいいから、聞かせて欲しい。これじゃあ、本業ができないでしょ?」
「ええ、もとはと言えば、コマーシャルタレントの話があった時に、十八歳の時から付き合っていた梶原 美来(かじわら みらい)と別れるように事務所から指示があったのですが、その話がこじれて美来から高額の慰謝料を請求されました」
「えー。嘘みたい。仕事の為に別れるの?」
知らん顔して聞き耳を立てていた夏梅がその話題に反応した。その夏梅を横目で見ながら天十郎は続けた。
「そこのところは別に良くて、付き合っていた感覚も本当はなくて、取り巻きの一人だったのですが、いつの間にか、付き合っている事になっていたというか?」
「なんだい、それ?」
黒川氏は聞いた言葉に実感がないようだ。
「ええ、美来からは慰謝料だけでなく、嘘の噂をばらまかれ、それを収束させるために、さらに茂呂社長からの要求が強くなり、茂呂社長から、四六時中同行を求められ、飲食やSEXを強要されるようになりました。悪循環に陥って他の仕事も出来ず、事務所との関係も悪化してどうにもならなくなって、そんな時に蒲と知り合いになりました」
「それで、携帯電話を捨ててうちにいるのね」夏梅は納得したようだ。
「ええ、まあ、そんなところですか」
天十郎は言いたくないような口ぶりで肯定した。その天十郎に、黒川氏は、かなり精神的にきつい質問をしている事を感じ取ったようだ。
「なるほどね。まあ、今のところ、現住所を隠す事がメインで動いているけれど、それでよかったかね」
「ありがたいです。黒川さんにはご迷惑をおかけして…」
「いや、営業の話は蒲からもらって、うちも、そろそろ事業展開を考えていたところだったからね。大きくはないけれど茂呂社長の所でヘアとフェイスコーディネイトの仕事が出来れば、企業スキルがひとつ増えるわけで、損にはならないと思う。しかし実際には色々と急な話で考える時間がない。天十郎君はどう思う?このまま進めて良いだろうか?」
「僕は俳優の仕事をしたいです。しかし今、蒲と一緒に穏やかに暮らしている事にやすらぎを感じているのも事実です。二人で今のところを出て、隠れ住んでも、問題は解決しないですし、住所がバレてしまう事によって、蒲に迷惑が掛かる事が一番気になっていたから…」
「そうか、では一緒に考えてみようか?」
天十郎はその黒川氏の問いにゆっくり頷いた。それぞれが自分たちの方向を見出したようだ。
【翌日】
玄関横の大きな窓から、夏梅が目に涙をいっぱいためて家に帰って来たのが見えた。
今日も黒川氏の美容室のお正月用の広告アルバイトに行ったので、特については行かなかった。いつもお願いしている、女性ドライバーのタクシーから飛び降り、まるで歌舞伎の藤娘が空を駆け舞うように玄関に入ると「蒲、蒲!」と、悲鳴が聞こえた。
僕は、リビングでくつろいで知らん顔をしている蒲をにらみつけた。蒲は仕方がないように顔を上げ、ダラダラ歩き
【玄関にいる夏梅の近くに寄った】
「お、今日は歌舞伎の藤娘か?夏梅どこに行っていた?」
嬉しそうにわざわざ聞いた。夏梅はヒステリックに興奮して着物を脱ごうとしているが、ひとりでは脱げないのか「蒲!蒲!」と叫んでいる。
そこに、天十郎が帰って来た。玄関で、着物をなんとか脱ごうとしている夏梅を驚き怪訝そうに見た。
「何の騒ぎだ?あれ?これ、丸帯だな。だらり結びだろ?舞妓さんか?」
珍しい姿に天十郎が蒲に聞いた。
「お帰り、天十郎、着物に詳しいのか?おい、手伝え」
蒲は冷静に言った。
「何を手伝う?」
「脱がせる」
「なんで?」
「いいから、今の状態では一人で脱げないから」
「着物が一人で脱げないのか?」
「早く、早く!」と叫んでいる夏梅を、押さえつけるようにしていた蒲が「お前は得意だろ?」と天十郎に聞いた。
「いや、着物は、紐が沢山あるからさ、脱がせるのは面倒だろ、俺の場合は、紐は解かないことにしている。着物は、すべてにおいてショートカット出来るから…」
天十郎と蒲が笑いながらのんびり話していると
「紐が堅い!おい!お前の技なんか、しらないわよ。脱がせろ!」
夏梅はさらに声を大きくして、暴れた。
「動くなって、動くとほら、折角、解いた紐が、ほら、また締まった。動くな、袖と帯がじゃまだ。おい動くな、我慢しろ」蒲がなだめているが、呻き声も出る夏梅の様子が尋常ではない。
「へんな女だな」
先ほどから傍観している天十郎だったが、長く垂れた、袖と帯に絡まった蒲から夏梅を引きはがした。
夏梅から離れた蒲は天十郎に「交代」と肩をたたき「おれ、着替え持ってくる」というと、さっさと二階に上がっていった。
夏梅は、帯の後ろを天十郎に押し付けてきた。
「着物、慣れているのでしょ。早くとってよ。早く」
天十郎は深くため息をつくと
「帯は前に回して自分でとれ」
面倒臭そうに夏梅を突き飛ばした。泣きそうな夏梅は玄関ホールを転がりながら叫ぶ
「それが出来るくらいなら、とっくにやっている」
「しかたがないな。動くなよ、すぐだから」
天十郎が帯を持って回すと、びくとも動かない。帯締め、帯揚げ、帯枕、帯も深く食い込んでいる。
よく見ると息も苦しそうだ。天十郎もその事に気がついているようで「息をすって、お腹を引っ込めろ」といいながら、帯を回そうと天十郎が力を入れるたびに、夏梅はギャーと声を上げ、天十郎が身を固くした。
二階から着替えを持って降りて来た蒲は、その夏梅の叫び声を聴いて、にやりと笑った。
「おい蒲」僕は、声をかけた。蒲は僕の方を見ると不愉快そうに「わかってる」と答えた。
玄関ホールでは、夏梅が「痛い!」と叫び天十郎は「おい、お腹を引っ込めろ、息を吸え、もう一度」を繰り返している。何度やっても同じである。
「天十郎、紐や帯の結び目を確認しろ」蒲が声をかけた。
「あ?帯?どうなっている?」
改めて帯を見ると、深く食い込んだ帯紐、帯の結び目をワイヤーのようなもので固定している。
「なんだ?着物ってこうやって着るのか?」
「夏梅だから」
蒲がそう言いながら、ハサミのようなものを持って戻って来た。
「なんだ?」
「手芸工具のニッパー」
「どこにあったの?」
「洗面所の化粧台」
「何をするの?」
「手芸用のワイヤーで固定する事がね。時々、あるからさ」
不審そうな顔をしている天十郎に、蒲はやさしく微笑みかけて頭をなでた。そして床で丸まってうめいている夏梅に向かって「動くなよな。俺がお前を傷つけたら塁にどんな目にあわされるかわからないからな」と僕を見た。
僕は冷ややかに蒲を見つめた。
蒲は僕をみながら、力強く夏梅を床に抑えた。その様子に「大丈夫か?」天十郎が不安げに蒲に聞いてくる「これくらい、こいつは平気さ」
蒲は僕をみてニヤニヤしながら、ニッパーで帯の結び目の手芸用のワイヤーを切った。夏梅はもうろうとしながらも、ブツブツと「痛い!痒い!」を繰り返している。
天十郎と蒲は、いくつか結んであるワイヤーを切りながら、帯を解き着物を脱がせると、肩からコットンのタオル、胸の下からバスタオルが出て来た。沢山のタオルに包まれて、その下から 使い捨てカイロが素肌に密着していくつも出て来た。
「なにこれ?着物を着ているというかタオルを着ている?まだ九月なのに、なんで使い捨てカイロが…」
「ああ、こいつはこれが普通」
蒲は何事も起きていないように知らん顔だ。
「わからない奴だ」
天十郎が肌襦袢を脱がそうとすると、腰にはコルセットを付けている。医療用のコルセットは固く、からだにフィットするようにいくつも留め具がついている。慣れないと取る事が難しく、天十郎は初めて見る医療用コルセットの取り方がわからず迷っている。
コルセットの中にも、いくつかの使い捨てカイロが素肌に密着しているようだ。天十郎も色々触っているうちに、コルセットの中に使い捨てカイロが入っている事に気が付いた。
「おい、コルセットの中にも使い捨てカイロがあるぞ、怖いよ」
天十郎の声が震えた。
「蒲、使い捨てカイロの所は火傷しているし、他も汗疹か、ひどい湿疹だ真っ赤に腫れた肌は擦り傷だらけだ。おい、風呂場に連れて行くぞ」
【お風呂場に】
肌襦袢とコルセットを脱がさずに、天十郎が抱きそのまま連れて行くと
「擦り傷があるけど、このまま風呂に入れるか?」
蒲が聞いた。天十郎は「それは、しみるだろ」と躊躇している。
「俺じゃないからいい」
「いくらなんでも可哀そうだろ、この帯のところは皮がむけている俺が無理して帯を回そうとしたからだ。それに使い捨てカイロって水につけて平気か?」
天十郎は不安そうに独り言のようにブツブツ言って、動けずにいる。
「気にする必要はない」と今、起こっている事に動揺もせず、目が笑った蒲が天十郎の顔を見て固まった。
【お前は薬箱を持って来い】
僕は怒りを込め、蒲に怒鳴った。そして、夏梅を抱えたままの天十郎の格好を見た。外出から帰ってまだ、スーツも脱いでいなかった。
「スーツが濡れるがまあ、いいか」
そのまま夏梅を抱きかかえて、お湯に水を足しながら肌襦袢の下のコルセットを手際よく外すと、使い捨てカイロが落ちた。赤く腫れた肌の上から傷にかからぬように、水に近いぬるま湯をそっとかけた。
「痛い!痒い!」
「大丈夫か?」
「痛いってば、痒いよ」
「だろうな、とにかく赤くなっているところを冷まして、薬を塗ろうな、ほかに痛いところないか?」
その言葉に、夏梅は急に押し黙ったまま、爪を吸い始めた。夏梅は幼い頃から、怪我をしたり、ひどく緊張したりするといつもの癖で爪をちゅっ、ちゅっと吸う。我慢をしている証拠だ。
僕は「夏梅、指を食うな」と、ちいさくボソッと言った。
夏梅が急に顔をあげ、真っすぐに僕を見た。すると力強く結んだ唇から小さく嗚咽が聞こえ始めた。
僕は手を止めずに夏梅の痛みに精一杯の気持ちと、水に近いぬるま湯を静かに注いでいた。
「夏梅…」
僕は目と耳の間にキスをした。小さい頃からの習慣だ。大泣きしながら寝て、涙が流れて耳に入ってしまう夏梅に、いつもこうやってキスをする。そういえば、夏梅は両親が死んでから一度も大泣きをしていない。黙ったまま頷いている夏梅の気持ちが否応なく伝わって来る。
僕は切なかった。僕は夏梅の気持ちに耐えるしかなかった。何度かぬるま湯をかけているうちに、不意に夏梅がしがみついた。僕は黙ったまま髪をなで、何度もキスをした。夏梅は今までこらえてきたものが、溢れて来るのを押し込めるように、小さく声を押し殺している。
僕は知らん顔して「かゆみは収まって来た?」夏梅に聞いた。
「うん、塁」
夏梅が小さくやっと答えた。
薬箱を持ってきた蒲は、僕らを見ながらお風呂場の入り口で立ちすくんでいる。僕はコルセットから、落ちた使い捨てカイロを蒲に向かって「このやろう」と怒りを込めて、叫び投げつけた。
蒲は、無言のまま、慌てて投げられた使い捨てカイロを拾うと、リビングの方へいなくなった。
僕は、夏梅のからだを気遣いながら、僕らの時間を説明のつかない気持ちのまま過ごした。肌の腫れが治まったのか夏梅がウトウトとし始めた。僕にしがみついている力が緩んで来たのでバスタオルで包んで、抱きかかえた。
【夏梅をリビングのソファーベッドに運んだ】
あらためてみると、お尻から上半身は火傷と汗疹と湿疹でぎっしりだった。
火傷と汗疹の薬を塗り、帯の後についた擦り傷の手当をした。寝ているのか、起きているのか?静かな夏梅は素直だった。薬を塗り終わると夏梅が手を握って離さない。
そんな僕らを見つめる蒲は、ギラギラと異様な目をしている。
僕は蒲の目を直視し「すべては、お前次第だ」と言い放つと、蒲は視線を外した。
その時、玄関のチャイムがなった。
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