第2業務 まず礼より始めよ

「おはようございます喜多里きたさとさん」

「おはようございます皆水みなみずさん」


 出社した俺は教育担当の喜多里さんの所へ行き挨拶をした。

喜多里さんはそれを嬉しそうに眺めて挨拶を返す。


「大分挨拶も板に付いてきましたね」

「あの……そろそろ新しい仕事をもらえないでしょうか」


 笑顔の喜多里さんとは対称的に俺の表情は曇っていた。

それもそのはず。

ここ人事教育課へ来てから1週間が経とうとしている。

だが俺が喜多里から指示されたことは『他職員のお手伝い』だけだった。

それだって誰からも仕事を頼まれないので俺は暇を持て余していた。


「これ以上の仕事はまだお渡しするわけにはいきません……皆水さん。昨日、退勤時に長割おさわりさんへの挨拶を怠りましたね?」


そんな状況でも喜多里さんは俺に仕事を振ることはない。

理由は唯一指示された『挨拶をしましょう』ができていないからだと思う。

分かっちゃいるけど俺は納得できずにいた。


「すみません……長割さん怖くて声、かけづらくて……」

「そういう人にこそ挨拶は大事なんですよ。物事には順序というものがあります。挨拶もできない相手に重要な話は尚のこと難しいでしょう?」


 喜多里さんは子どもに言い聞かせるように俺に何度目になるか分からない説明をする。


「それは……分かっていますけど」


 それに対して俺は子どものような口答えをする。

我ながら聞き苦しい。

そんなどうしようもない俺にも喜多里さんは優しく対応してくれる。


「お気持ちはわかります。『分かる』と『する』は似ているようでその差はとても大きい。だからこそ実行できた時、貴方が得るものは大きいのです」


 言い返せない俺は咄嗟に下を向く。

俺の悪い癖だ。

上司から叱られた時、同僚からミスを指摘された時、俺は無意識に下を向く。

きっと現実逃避の類なのだろう。

そこへ喜多里さんは嫌な顔をするどころか下から俺を覗き込みそっと肩を叩いた。


「大丈夫、まだ時間はあります。1つずつ学んでいけば良いのです」


 俺の肩を叩いた手はデスクの方へ伸びていく。

そして書類を取るとそのまま俺の目の前に突き出してきた。


「というわけで一歩前進です。苦手な長割さんにかの書類を渡して来てください」

「えっ長割さん……ですか」


 きっと俺は露骨に嫌な顔をしたのだろう。

それでも喜多里さんは俺の表情など意に介さず俺を長割さんの方へと送り出そうとする。


「今日きちんと挨拶ができたので1つアドバイスを言わせてください」


 俺は目を見開いて喜多里さんを見つめた。

長割さんへの対応方法とかだろうか?

俺は期待に胸を膨らませる。


「挨拶をする時は目を見てしましょう。目は口ほどに物を言うものですから」


 期待していた俺はガッカリする。

どんな大層なことを言うのかと思っていたらなんてことはない。

よくあることわざではないか。

そんなものは俺でも知っている。


「意外にも多くの人はこの言葉の真意を汲み取れていない。ですが貴方ならその先を発見することができると信じていますよ」


 言い合えると喜多里さんは俺の背中をポンと押す。

俺は長割さんのデスクの所までよろめきながらも無事に辿り着いた。


「あの、長割さん……」

「何だ皆水。用件があるならさっさと言ってくれ」


 機嫌が悪いのか。

長割さんは俺と目を合わせることなくデスクのPCを操作しながら返事した。

散々俺に目を合わせて挨拶とか言ってた癖に他の人はいいのかよ。


「喜多里さんから会議の資料を渡すよう言われて持ってきました」

「会議資料?……まぁいい、ありがとう。そこに置いておいてくれ」


 礼こそ言われたが長割さんの機嫌はますます悪くなったようだ。

だが俺は見逃さなかった。

会議資料と聞いた時、長割さんはPCから目線を外して時計とコピー機を交互に見ていた気がする。

僅かな時間で、それも目線だけの情報なので何も確証はない。

それでも喜多里さんの言っていたことが頭から離れず俺は意を決して長割に物申した。


「あ、あの!!! コピー……しましょうか?」


 思ったら以上に声が大きくなってしまった。

周囲の人達は何事かと俺に注目している。

言われた長割さんも見たことがないぐらい驚いていた。


「あ、あぁ……頼む」


 何やってんだろ俺。

好奇な目で見られるし、長割さんにはドン引かれるし。

自己嫌悪に陥りながらコピーを取る。


「長割さん……これ、コピーした資料です」


 そして資料のコピーを長割さんに手渡す。

すると長割さんは作業する手を止めて俺の方を向く。


「早いな」


 長割さんは受け取った資料のコピーをジッと見つめる。

俺また何か怒られるのだろうか。

もう慣れたけどそれでもやっぱり怒られるのは嫌だなと思っていると長割さんはニヤリと笑って俺を見つめてきた。


「よく急ぎだと気が付いたな……助かったよありがとう」


 久しぶりに感謝された気がする。

最後にありがとうお言われたのはいつ以来だろう。

ありふれた言葉なのに俺は嬉しさのあまり泣きそうになる。

あれだけ怖かった長割さんとの会話も一歩踏み出してみたら案外呆気ないものだった。

でも長割さん……笑った顔、怖いです。

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