魔の手

 李依は中村先輩の自転車の後ろに乗っていた。後輪軸にしっかりと固定されたステップに足をかけ先輩の肩をギュッと掴んでいる。二人乗りが違法だろうが、アニメ化されたときに色々と面倒なことになろうが、今の李依には関係なかった。映画の上映時間が迫っているらしい。かなりのスピードで坂を下っている。そのはるか後方から信人が後を付けている。もちろん自転車である。それと並走する一人の女子生徒。


――嘘だろ? 今、時速何キロだ? かなりの急勾配の下り坂をほぼノーブレーキである。60キロは出てるんじゃないか? 驚くのはそのスピードだけではない。かれこれもう5分以上は並走を続けているが、全くバテる気配がない。何なんだこの化け物じみたスタミナは……


 信人は猛スピードで並走を続ける女子生徒の心の声に照準を合わせた。


――これは面白い! 使えるかもしれない!


 込み上げてくる笑いをかみ殺し、自転車のスピードを全く緩めずに声をかける。女子生徒は、息一つ切らさず、信人の問いかけに応じるのだった。



 駅前の映画館に到着する二人。どうにか、上演時間には間に合いそうである。そそくさと自動券売機で座席指定を済ませると、売店で何とか飲み物だけは購入することができた。


「いい席取れてよかったですね」


 前から3列目の通路側の席に座った中村先輩の前を横切って李依もその隣の席に腰を下ろした。平日ということもあって館内は閑散としていた。二人が着席した3列目は、ほぼ貸し切り状態である。灯りが消える。そして、上映が始まった。それは館内の注意事項やら、話題作の予告編やら、モーイヤ映画こそ泥のコミカルなダンス披露が一通り終了し、本編が始まってすぐのことだった。先輩の肩が当たった気がした李依は、反射的に身をかわした。気のせいだと思いつつも何度か同じ仕草を繰り返していた。次の瞬間、先輩がいきなり李依の左手を握ってきた。


「きゃっ!!」


 李依は驚きのあまりその場で立ち上がってしまった。後ろの席から露骨な舌打ちを食らい、すぐに再着席する彼女。ところが、大幅に的が外れてしまい尻と肘掛のジュースが激突。先輩のシャツにこぼれてしまった。


「ご、ごめんなさい!! 大変、拭かないと!!」


 このまま映画を見ながら対処できる水量ではなかった。先輩のシャツは絞れる程にびしょ濡れである。後方からの舌打ちも音量が増してきた。堪らず、身を屈め館内を後にする。二人は男子トイレと女子トイレの間にあるフリースペースにかけ込んだ。



 ジュースまみれのシャツの裾をめくり上げ洗面台で絞り始める先輩。鏡にはサッカー部で鍛え上げられた腹筋が映し出されていた。


――何あの腹筋! 見ちゃまずいわよね……


 潔いほどのガン見である。

 ジュースまみれの手を洗う先輩に李依はハンカチを差し出した。


「ごめんなさい! 大丈夫ですか? これ使って下さい!」

「本当だよ、まったく」


 急に先輩の目の色が変わる。本能的に危険を感じた李依は、その場を離れようとする。


「カッチャ」


 李依の思惑を察したのか、すぐさま鍵をかける先輩。


「えっ……」


――何この人? どういうつもり?


「スポーツ万能、成績優秀、イケメン。みんな俺のことが好きなんだろ!」


 完全に悦に浸っている。


「なら、いいじゃん!」

「ちょっと、何言ってるか分からないんですけど」

「前から、気になってたって言ったじゃん!」


 先輩の呼吸がみるみる荒くなっていく。


「高梨さんのそれ、いくつ?」

「はぁ?」


――ほんと意味わかんないこの人……


「だから、何カップかって聞いてんだよ!」


――怖い、怖い、怖い、何なのこの人!! 前から、気になってたって? そういうこと!? 私のことじゃなくて、そっち!?


「ま――いっか。言わなくていいよ。自分で確かめるから。君も俺のことが好きなんだろ!? 俺は別に好きじゃないけど……」


――ここまで自己陶酔に浸られると、さすがに気持ちが悪いわね。


 そんな暢気なことを考えている場合ではなかった。中村先輩が李依との距離を詰めてくる。そして胸元に魔の手が迫る。



「きゃああああああ――――――――――――!!」


 李依は観念して覚悟を決めた。


「間一髪ってところだね」


 いつの間にか、固くつぶられていた瞳をこわごわと開き、辺りを見回す李依。


「信人? えっ、何で?」


 忘れもしない、そこは昨日、噂の信人ママと一戦を交えた信人の部屋だった。そして、窓に写り込んでいる己を目視する。そこには、クラスで唯一、彼女に好意をもってくれているという女子生徒の姿があった。


「神坂さん?」

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