第3話 レイン・ペンドルトン


 レインの最も古い記憶は、自分を見つめる愛らしい姉の顔だった。

 姉は自分よりいくらか年上に見えた。

 レイン、という名は姉がつけてくれた。初めて出会ったのが雨の日だったから、らしい。

 ずっと幼いレインの面倒を見てくれたのは姉であり、言葉を始めとする色んなことを教えてくれた。

 朝に優しく起こしてくれ、部屋の外から3度の食事を運び、一緒に食べた。

 レインが退屈しないように、たくさん本を運んでくれた。

 夕食の後、「仕事なのよ」と数時間ほど必ずいなくなったが、夜遅くに帰って来て、いつも一緒に寝てくれた。歌を歌ってくれることもあった。

 優しくて、ほんの少しだけ厳しい姉は、よく悲し気な顔でレインを見つめたが、それが何故なのか、理由は教えてもらえなかった。


 姉はレインに「決して部屋から出てはいけない」と厳しい口調で何度も戒めたので、レインは素直にそれに従っていた。部屋に外から鍵が掛けられていたので、鍵を持つ姉しか出入りすることができなかったからでもあるが、姉に逆らい、困らせてまで外に出ようとはしなかった。

 毎日姉と話し、本もかなりな種類と量があったので、たくさんの雑多な知識を吸収することで退屈をしのいでいた。

 少女が喋る兎を追うことから始まる童話がお気に入りで、その本は表紙の縁がほつれるほど繰り返し読んだ。


 部屋のカレンダーが覚えているだけで5回ほど交換され、新しくなったある日、ひどく辛そうな姉に手を引かれて初めて部屋を出た。


 そして『あの男』と出会った。

 年老いたその男は笑いながら言った。


「いらっしゃい。娘たち」


 それからは辛い記憶ばかりだ。

 服を脱がされ、体に触れられ、おぞましいことを幾つも強要され、覚えさせられた。どれほど嫌がっても止めてはもらえず、暴れると電気の流れる棒を体に押し付けられた。こうした行為は、姉も一緒に行われた。

 夜、姉が行っていた『仕事』は、これだと知った。

 その日は、2人で泣きながら体を洗い合い、抱き合って眠った。


 この邸から逃げられないか、何度も姉と話し合ったが、レインも姉も、邸から出たことが無く、邸の庭には話しかけても無視される黒い服の男たちと、恐ろし気な犬たちが常にいて、特に姉は犬たちを見ると立っていられなくなるほど、ひどく怯えたため、不可能と判断せざるを得なかった。

 


 また、1か月に1回くらいのペースで、注射を打たれた。

 最初は姉も一緒に打たれていたが、間もなくレインだけになった。

 そのころから、夜に呼ばれるのも8割がたレインだけになっていった。



 カレンダーがさらに5回ほど新しい物になり、いつもどおり互いの体を洗い合ったある日の夜、泣きそうな表情の姉が語り掛けてきた。


「レイン。私はきっともうすぐ貴女に会えなくなる。きっと、貴女のお母さんと一緒のところへ行くことになるわ」


 初めて姉が語る話は、辛くて、悲しくて、救いのない話だった。


 姉が幼いころは、もっとたくさんの女の子たちが邸に居たこと。

 お腹が大きくなった子は居なくなり、その後、年長の子が女の赤ちゃんの面倒を見るよう言いつけられたこと。

 お腹が大きくならなくても、注射の後、体調を崩した子たちは、いなくなっていったこと。

 犬が、人の手を咥えているのを見たこと。

 姉の面倒を見てくれていた人は、レインにとてもよく似た女性だったこと。


「愛しいレイン。貴女は、5年前から、まったく姿が変わっていないことに気付いている?」


 ……気付いていた。

 姉と少しずつ身長差が開いてきていること。

 胸もほとんど大きくなっていないこと。

 いつまで経っても、生理が来ないこと。


 気のせいだと思いたかった。発育が悪いだけだと思いたかった。


「私はもう、1か月以上、月のものが来ていないの」


 姉は、語りながら涙を流していた。


「きっと貴女は、私たちと違って成功例なんだと思う。私は貴女が大好きで、私を育ててくれた姉様も大好きだった。貴女と離れたくないけど……この生活が終わることに、また姉様と会えることに、安心している私もいるの。ごめんなさい。ごめんなさい。レイン。弱い私を許して。貴女をここに残していってしまう私を許して……」



 数日後、姉は居なくなった。



 毎晩毎晩、『あの男』は、皺だらけの気色の悪い顔に満面の笑みを浮かべて、私を抱きながら囁いた。


「君は美しい。君は完全だ」

「やっと、やっと完成した。私の60年は無駄ではなかった」

「ようやく『遅延』が『停止』に至った」

「愛している。何よりも」

「一生、君を離さない。誰にも触れさせない。誰にも見せない」

「君が私の『アリス』だ」


 ……私の部屋の本棚にも収まっている、何度も繰り返し読んだ大好きだった童話の『主人公の少女』が、『あの男』の初恋の人だったらしい。

 『あの男』の意のままになる、成長しない『アリス』を手に入れるために、そんなことのために、姉は、母たちは……。


 食事はいつもレトルトか冷凍食品で、刃物やフォークの類は行ける範囲の屋敷内では見たことがない。

 庭師に刈り取られる前に、レインは窓の僅かな隙間から一番近くの木の枝に手を伸ばし、慎重に折り取った。

 すぐに折れてしまうプラスチックのスプーンで、食事のたび、少しずつ、少しずつ、その木の枝を削っていった。


 大好きだった2冊の童話は、ズタズタに引き裂いて、窓から投げ捨てた。



***



 レインが彼女の物語を語り終えた。

 途中から下衆の騒音が耳障りになったので、声を出せないようにしておいたため、静まりかえった室内には、歌うようなレインの声がまだ響いているように感じる。


「ねえ、クサカベ様。貴方はきっと、私の邪悪な望みをかなえてくれる悪魔で、私のこの狭い世界を切り裂くジャバウォックなんだわ」


 レインは囁く。

 蠱惑的な囁き声は、静まった部屋に余すことなく響く。

 彼女が主役の舞台のように。


「私の悪魔さん。『父をたくさん苦しませてから殺す』なんていう素敵な提案をしてくれた貴方に、お願いがあるの」


「……なんだい?」


「こんな私に、汚らわしく厭わしい私に、これ以上触れるのが、もしもお嫌でなかったら。……私を貴方に捧げさせて欲しいの。今から、あの男の、目の前で」


 声が出せないながらも、下衆が激しくもがいている。火にかけられた青芋虫のように半狂乱だ。

 目は血の涙が出そうなほど充血していて、ひどく必死で、醜く、笑える。


「……それは」


「……やはりこんな穢れきった女はお嫌かしら。それともひょっとして年齢を気にしてらっしゃる? 私、こう見えても20歳は過ぎていると思うの。誕生日も知らない私には正確には分からないけれど。……それに、多分だけど、いろいろと上手だと思うわ、私」


 レインは少しだけ唇を舐めて、微笑む。

 ソファに座った僕に正面から跨り、見下ろしながら、月光に輝く銀の髪をかき上げ、白い裸身を反らして僕に見せつける。

 ほの昏い期待に頬を染め、熱い吐息を吐く、闇の妖精。

 煌めく潤んだエメラルドグリーンの瞳が僕だけを映している。


「ああ、クサカベ様。どうか。貴方の優しい手で。『父』が全人生を注いで作った夢の結晶たる私の、全てを奪ってくださいませんか……?」


 彼女の嫋やかな手が、僕の手を彼女の肌へ導く。


「……九郎クロウ、と呼んでくれ」


 僕は彼女の滑らかな肌に自ら指を這わせ、唇を落とす。


「ァ……ハァッ……」


「今だけだ。それはかつて僕が捨てた名で……そこの下衆に無能と呼ばれた男の名だ。下衆の夢を汚し、奪いつくす役割は、その下衆が無能と蔑んだ男にこそ、相応しい」


「ああ……。素敵です……クロウ様……」


 僕とレインは、深く舌を絡め、互いを貪った。





 太陽の光が部屋に差し込むころ、ジョージ・ペンドルトン博士に、もう正気は残っていなかった。

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