わたしのなまえ

小野寺かける

わたしのなまえ

 ヨサカの言葉は難しい、とシルキーは思う。

「これはなんでしょうか!」

 威勢のいい声とともに、袴姿の少女が一枚の紙を眼前に広げてくる。小豆色の大きな瞳はそわそわと揺れ、紙とシルキーの間で行ったり来たりをくり返していた。

 胸を覆うほどの広さの紙には、墨で書いたと思しき絵が一つ描かれている。筆をとったのは彼女だろう。饅頭に似た円からは八本の線が伸び、空いている箇所にはさらに小さな丸がぽつぽつと八つほど滲んでいた。

 問われてからしばらくじっと観察を続けてみたが、まったく分からない。少女も息をのんで答えを待ち構えていたけれど、やがて「時間切れです」と肩を落とした。

「正解はクモでした」

「く、も」

 彼女の唇の動きを真似て、シルキーも同じように言葉を紡ぐ。

 くも、くも。何度かくり返して、やっと意味を飲みこんだ。確かこの前教わった。

「そら、うかんだ、しろい、です」

「あー、えっと、それは違うクモですね。今見せてるこれは、生き物のほうの蜘蛛です」

「くも、ちがう……?」

 ――ああ、どうして。同じ言葉なのに意味が違うのでしょう。

 はあ、と思わずため息をつけば、慌てた様子の少女に肩を叩かれた。なにやら早口で喋っているが、節々しか分からないため、完全には理解できなかった。それがさらに悲しくて、またため息をこぼしてしまう。

「きょうか、さん」

 つたない発音で少女の名を呼ぶ。彼女は「はい」と背筋を正した。

「もういちど、おしえる、ください」

「え、でも。昼からぶっ通しですけど、疲れてませんか?」

 労わるような眼差しに、シルキーは首を横に振った。首筋に流れていた金の髪がさらさらと揺れる。

「つかれる、ない、です。ひと、ない、ので。よさか、ことば、しる、がんばる、ます」

「シルキーさんは勉強熱心ですねー。分かりました、じゃあ私も教えるの頑張ります!」

 ふんふんと鼻息荒く、少女が握りこぶしを天井に突き上げる。こうすると気合が入るのだそうだ。見よう見まねでシルキーも拳を上げたところで、別の絵が描かれた新たな紙が目の前に広げられた。


 ことは三日前にさかのぼる。

「この国の言葉を教わりたいのですが」

 朝食の片づけをしつつ、シルキーは己の雇い主にそう頼んだ。

「ヨサカ語をか?」と彼は前髪の下で金色の双眸を細めた。黒髪の隙間から覗くそれは、黒雲の狭間から光を放つ月に似ている。「なんで急に」

「恭佳さまとソレイユとで、よくお話をされているでしょう。それと同じように、私も恭佳さまとお話をしてみたいのです」

 シルキーが現在使っている言葉はヨサカ語ではない。遠く離れた異国の言語である。雇い主はそこへ遊学経験があるためにシルキーの言葉を理解しているが、生まれも育ちもヨサカの恭佳は違う。

 彼女は雇い主の助手であり、雇い主の職場兼自宅にもよく出入りする。ここで家事手伝いをするシルキーとは当然よく顔を合わせるし、互いの名前くらいは分かるけれど、会話となるとまったく通じないのだ。

「ソレイユとともにこの国に来て以降、私は基本的にソレイユとしかお話ししていません。もとい、お話しできません」

「まあそりゃそうだろ」

「ですからヨサカの言葉を知りたいのです」

「俺が通訳すれば済む話じゃねえか」

「いつまでもソレイユのお手を煩わせるわけにはいきませんから」

 それもそうか、と雇い主は納得した様子でうなずき、片手で前髪を後ろに撫でつけた。これから仕事をする姿勢に入ったらしい。

 彼は自らの手で辞典の編纂を手がけている。言葉や花などは記されず、それに掲載されるのは〝幻獣〟と呼ばれる人工生命体だ。

 島国であるヨサカにもともと幻獣はいなかった。彼らの多くは雇い主が遊学していた先に集中していたのだが、居場所を追われるなり、住処を変えたいなどの理由であちこちに散らばり始めた。結果、ヨサカでもちらほら見かけるようになったのだ。

 シルキーもそのうちの一体である。

「ソレイユの力を借りず、私自身の言葉で、まずは恭佳さまと話せるようになりたいのです。ですから、ヨサカの言葉を教えてください」

「って言われてもなあ」

 ぽりぽりと頬をかいて、雇い主は椅子にもたれて天井を仰いでいた。

「よその国の言葉をいちから覚えるってのは簡単じゃねえぞ。しかもヨサカ語はどこの国の言葉より面倒くせえうえに複雑らしいし」

「そうなのですか?」

「俺はそう思わねえけど、遊学先の奴にちょっと教えたら『訳が分からない』ってずっと首ひねられたな」

 当時の様子を思い出したのか、雇い主はくくくっと愉快そうに肩を揺らす。

 彼の言う通り、そう易々と覚えられはしないだろう。どれだけ時間がかかるか未知数だ。心が折れる可能性も捨てきれない。

 それでもやはり、習得したいと強く思う。

 ひとしきり笑ったあと、彼はシルキーの目をじっと見つめてきた。学ぶ意思が本物かどうか試すようなそれに、思わず息をのんだ。

「仕方ねえな」と雇い主が腕を組む。「いつでもどこでも、いつまでも、俺が通訳できるってわけじゃねえのは確かだ。覚えといて損は無ぇはずだ」

「それでは」

「ああ、教えてやる。けどな」

「?」

「おはようございまーす」

 雇い主が言葉を区切ったところで、朗らかな声が聞こえてくる。玄関からだ。やがてぱたぱたと軽い足音を響かせて、話題に上がっていた恭佳が部屋の入り口の前にひょこっと立った。

 今日の袴は夕焼けの空に似た橙色だ。紅葉をちりばめた柄の着物とよく合っている。頭の右側で揺れる簪はブドウの形で、彼女が歩くたびにしゃらしゃらと流麗な音を立てた。

「おはようございます、トキさん、シルキーさん」

 シルキーが雇い主を「ソレイユ」と称するのと異なり、彼女は「トキ」と呼ぶ。

 というのも、雇い主が辞典を編纂するうえで使っている名前が〝一ノ宮トキ〟なのだ。正確な名前はもう少し違うと聞いたことがあるが、教えたところでシルキーには呼びにくいだろうから、と太陽を意味する〝ソレイユ〟と呼べと、雇われたその日に命じられた。

「なにかお話ししてたんですか?」

 恭佳はシルキーの隣に立ち、トキに向かって首を傾げる。

 二人はそのまま会話を始めたけれど、シルキーには全く理解できない。当然だ。彼女たちの間で飛び交っているのはヨサカ語なのだから。

 分からないままでいてもいい。もともと自分は家事手伝いのための幻獣として作られた存在で、お喋りが得意な性質ではない。物言わぬ植物のごとく、黙々と仕事をしていても支障はないのだ。

 ――それでも。

 シルキーはそっと横目で恭佳の横顔をうかがった。

 トキと話しているとき、彼女は色々な表情を見せる。笑ったり、驚いたり、怒ったり。くるくると次々に模様を変える万華鏡のように、恭佳は表情豊かだ。

 そして彼女と言葉を交わすトキもまた、様々な表情を見せるようになった。呆れたり、困ったり、喜んだり。知り合った頃はだいたい仏頂面だったのに、恭佳を助手に迎えてからというもの、どこか明るくなった気がする。

 なにより、恭佳と話すのはとても楽しそうで。

 ――私も、ヨサカ語が分かるなら。

 天気やお菓子、ご飯、庭に咲いていた花の名前。そんななにげない話を、恭佳と交わしてみたい。

 そんな羨ましさをまとった願いが、胸の中に芽生えたのだ。

「シルキー」

「!」

 不意にトキから呼びかけられ、シルキーは反射的に背筋を伸ばした。

「さっきの続きだ。ヨサカ語を教えるってやつ」

「はい」

「あれ、桂樹に頼め」とトキは親指でくいっと恭佳を示す。「俺は幻獣の調査で忙しいからな」

「はい。……はい?」

「桂樹の仕事は俺が書いた頁の清書だ。要するに、俺が下書きを完成させるまでなにもやること無えんだよ。その間に教えてもらえ」

「なんか今、私の名前呼びませんでした?」

 耳が良いのか、恭佳は自分の名字をしっかり聞き取れたらしい。トキは改めてヨサカ語でなにごとか伝える。恐らく「シルキーにヨサカ語を教えてやれ」とでも言っているのだろう。

 えっと目を丸くして固まる恭佳に、シルキーは「よろしくお願いします」と、伝わらないと分かりながら母国語で頼み、頭を下げた。



「それにしてもシルキーさんって、すごく物覚えいいですよね」

 もぐもぐと饅頭を頬張りながら、恭佳がきらきらとした視線を向けてくる。シルキーは彼女の湯呑みに緑茶を注ぎ、わずかに首を傾げた。

 蜘蛛と雲の違いを学んでから一時間ほど。恭佳の腹がくうくうと鳴ったのをきっかけに、二人は休憩を取ることにした。普段は間食用にクッキーやケーキを焼くのだけれど、今日は恭佳が持参した饅頭を並べてある。自宅からここまでの道中に新しく菓子屋が建ち、そこで購入したという。

 もっちりとした皮の中には、溢れんばかりの粒あんが詰まっていた。よほど美味いのか、彼女は至福の笑みでゆっくり咀嚼している。

「おぼえる、いい、とは」

「そのままの意味です」恭佳は湯呑みに両手を添え、シルキーにこっくりとうなずいた。「教えたことをすぐに吸収出来てて、すごいなあって思います。それだけ記憶力も良いってことでしょうし」

「そう、ですか」

「そうですよ。だってまだヨサカ語を覚え始めてから一週間も経ってないんですよ? なのに、ちょっとつたなくはありますけど、私とこうやって普通にお話しできてますもん」

「つたなく、とは」

「えーっと、なんていうか、ぎこちない?」

「ぎこち、ない……?」

 次々に聞きなれない単語が飛び出して、ますます首を傾げてしまう。そのたびに恭佳はシルキーが分かりそうな言い回しで説明してくれて、すぐに意味が分かるようになる。

 記憶力が良いと褒めてくれたが、きっと彼女の教え方が上手いのだ。

 怒ったり面倒だと投げ出したりせず、根気強くくり返し説明してくれる。たまに先ほどのように絵を交えたり、外に出て物に触れたり、見たりしながらの教えはとても分かりやすかった。

 素直にそう伝えると、恭佳は照れくさそうにはにかんだ。照れ隠しなのか、いそいそと緑茶に口をつける姿は微笑ましい。

「よう。順調か?」

 開きっぱなしの扉を軽く叩いて、トキが部屋に入ってくる。彼は音もなく近づいてくると、恭佳の前にあった皿から饅頭を一つ奪って、ためらいなく己の口に放りこんだ。

「あー! 私のお饅頭!」

「いいじゃねえか。一つくらい」

「トキさんのぶんはちゃんと部屋に用意してきたでしょう!」

 シルキーたちが勉強に使っている客間の真向かいに、トキの仕事部屋である書斎がある。恭佳は頬を膨らませてそこを指さし、これ以上取られまいとするように、皿を自分の方へたぐり寄せていた。

 トキは指についた餡をぺろりと舐め、シルキーに空の湯呑みを差し出してくる。どうやら自室からわざわざ持ってきたらしい。

 ――素直に「一緒に休憩したい」と仰ればいいのに。

 指摘したところで真っ向から否定されるのが目に見えた。シルキーは黙って彼のそこに緑茶を注ぐ。

「で、どうなんだ。ヨサカ語は分かるようになってきたか」

 トキの問いかけはヨサカ語だ。シルキーがどこまで理解したのか試しているのだろう。

「すこし、わかる、ます」

「桂樹の教え方は下手じゃねえか?」

「失礼なこと言いますね」

 憤慨する恭佳の横で、シルキーは「上手です」と何度もうなずいた。トキはおかしそうに肩を揺らしている。

 机の端には絵を描いた紙が寄せてある。彼はそれを一枚摘まみ上げると、不可解そうに眉を寄せた。

「なんだ、これ」

「シルキーさんにそれを見せて、『これはなんでしょう』って当ててもらってたんです」

 トキが手にしているのは蜘蛛の絵だ。上下を入れ替えたり、裏返したりと様々な方向から眺めていたが、ついぞ正体が分からなかったらしい。恭佳が正解を告げると、口の端がひくひく引きつっていた。

「よくもまあこんな奇怪な絵を蜘蛛だって言いきれるな」

「トキさんに言われたくないんですけど! トキさんだって絵下手くそじゃないですか」

「お前よりは上手い」

「そんなことないですよね、シルキーさん!」

「え。え、と」

 ――これは。

 どう答えても駄目ではないだろうか。

 恭佳の方が上手いと言えばトキは拗ねるだろうし、トキの方が上手いと言えば恭佳が悲しむ。迷っている間に、トキは饅頭をもう一つ奪って「まあ頑張れよ」と書斎に去っていった。

「それシルキーさんのぶんなのに! 取り返してきます」

「いい、です。わたし、おなか、へる、ない、ので」

 立ち上がりかけていた恭佳を引き止め、シルキーは首をゆるゆると横に振った。

「幻獣ってお腹空かないんですか」

「はい。いら、ある、ます、ので」

「いら……って、神力、でしたっけ」

 人の体に血が流れているように、幻獣の体には〝神力イラ〟と呼ばれる未知の力が通っている。神力を無限に生み出し、全身に送っているのは心臓代わりの〝核〟で、これが破壊もしくは摘出されない限り、幻獣はいつまでも生き続けるのだ。

 食事や睡眠の必要性、疲労の感じ方は個体によるけれど、シルキーはいずれも感じないよう作られている。そう説明すれば、恭佳はなにやら眉を下げていた。不愉快な思いをさせただろうか。

「なんだかそれって、ちょっと悲しいですね」

「?」

「なんていうか、いかにも『人の代わりに動け』って感じがして……」

 考えをうまくまとめられないらしく、恭佳は唇を尖らせ、組んだ指の上に額を落としていた。

「シルキーさんを作ったのも、魔術師なんですよね」

「はい」

〝魔術師〟と呼ばれる人々は、生まれながらに神力を宿している。彼らは〝神が人を作った名残〟とも言われるそれを使い、不治の病を癒したり、天候を自在に変えたりと様々な術を使ってみせた。中でも最大の偉業と称されたのが幻獣作成だ。

 人々は魔術師の技術を大いにもてはやした。疲れ知らずの幻獣は人に変わって農地を耕し、空を飛べるドラゴンなどが作られたことで、数日かかる移動が数時間で済んだりしたからだ。

 しかしある時を境に、賞賛は嫌悪と侮蔑に変わる。

「わたし、ひとのかたち。なので、ひと、つかった、ます」

「……そうみたいですね。いつだったかトキさんが教えてくれました」

 神の名残を自在に操る魔術師と言えど、無から有は作り出せない。幻獣を作るには材料が必要不可欠だった。

 初期は植物、動物、鉱石などが主だったけれど、時代が流れるにつれ、ついに人間まで用いられ始めたのだ。

 露見したその日から、魔術師たちは批判の嵐のなか、処刑や一家離散などで徐々に姿を消した。十あった高名な家系のうち、幻獣作成の永久禁止を条件に存続しているのは二家のみである。

 ちなみに幻獣は数が多く、処分に膨大な時間と費用が掛かるという理由のもと、人に害を及ぼさない限り放置されているのが現状だ。

「ん? でも魔術師が処刑されたのって二百年くらい前ですよね。もしかしてシルキーさんってすごく長生き……?」

「いいえ。ちがう、ます」

 首を傾げる恭佳に、シルキーは左手の指を二本、右手の指を三本立てる。

「わたし、つくられた、たった、とし、です」

「作られてから経過した年数ってこと、ですよね。……え、三十二歳ってことですか?」

「ノン」と咄嗟に自身が作られた国の言葉で否定して、改めて「ちがう、ます」と立てていた指の本数を入れ替えた。

「二十三歳? 私より五つ上なだけだったんですか! あれ、でも今って幻獣を作るのって」

「ゆるされる、ない、です」

 二百年前から現在に至るまで、いかなる理由があったとしても、幻獣を作るのは重罪だ。厳しい裁判の末、ほとんどは火刑に処される。

 シルキーを作った男も、その運命を辿った。

 彼は一般人の中から時たま現れる〝はぐれ魔術師〟だった。両親や祖父母に神力はなかったが、遠い先祖に魔術師がいたのだろう。ふとしたきっかけで己が宿した力に気づき、どこからか幻獣の作り方を記した書物を入手してシルキーを作った。

「わたし、ざいりょう、なった、ひとは」

 ――私の材料になった人は、違法な手段で買われた異国の奴隷だったそうです。

 ゆえにどんな人物だったのか、詳しいことはなにも分からない。

「つくられた、わたしだけ、ではない、です」

「シルキーさん以外にも作ってたんですか」

「おてつだい、ほか、たくさん」

 男の周りにはシルキーのほかにも幻獣がいた。ほとんどが人型だったのは、身の回りの世話をさせるためだろう。食事や洗濯など、彼はありとあらゆる家事を幻獣に任せ、自身は酒と女におぼれた怠惰な生活を送っていた。

 当時を振り返れば、ずいぶん金遣いが荒かったように思う。恐らく周囲から極秘で幻獣作成の依頼を受けていたに違いない。そのたびに高額を請求し、得た金で富豪気分を楽しんでいたのか。

「でも、げんじゅう、つくる、いけない。だから」

 ――ある日、ご両親に告発されたんです。いつか自分たちも材料にされるのでは、と恐ろしかったのでしょう。彼は捕らえられ、拷問を受けたあとで火刑を受けました。

 彼に作られた幻獣たちは居場所を無くした。仕えるべき主人が消えたのだ。どうすればいいか分からず、誰もいない家でこれまで通り掃除や洗濯をして過ごすしかなかった。

「じゃあトキさんとはどうやって知り合ったんですか?」

「それいゆ、いえ、きた、です」

 現存している魔術師の家系のうち、一つは幻獣の調査・管理・保護を担っている。彼らは「魔術師が処刑で死に、残された家を幻獣が維持している」と噂を聞きつけ、シルキーたちの屋敷に訪れた。

 それに同行していたのがトキだった。彼は遊学先で魔術師の世話になっていたのである。

「わたしたち、ほご、される、ました」

 ――その後、仲間たちはそれぞれ家事手伝いを求める方のもとへ引き取られていきました。ソレイユが帰国の際に私をここへ連れてきてくださったのは、幻獣に対する興味と、この広い家を一人で維持するのが面倒だったからでしょう。

 トキの思考を予想したシルキーの一言に、恭佳が「そうかも知れませんね」とくすくす笑いながら同意してくれた。

 ふと外を見て、あっと思わず声を出す。いつの間にか陽がだいぶ西に傾いていた。急須の緑茶もすっかり冷めている。

「すみません。はなし、ながい、でした。わたし、ことば、おそい、ので」

「気にしないでください! 聞いたの私ですもん。むしろ、話して嫌なこととか思い出させてないですか。大丈夫ですか」

「おもいだす、ない。もんだい、ない、です。ありがとう」

「それなら良かったです。あ、片付けるの手伝いますね」

 恭佳がトキの助手として雇われるまで、シルキーは基本的に家事の一切をすべて任されていた。片づけを手伝ってくれる存在などいなかったのだ。彼女の心遣いはありがたく、ほのかな温もりが胸に灯ったような心地になる。

「そういえば気になってることがあるんですけど」

「?」

「シルキーさんのほかにも、その人のところにはお手伝いの幻獣がたくさんいたんですよね。どんな幻獣がいたんですか?」

 助手として辞典の編纂に関わっている影響か、恭佳も幻獣に興味が湧きつつあるようだ。本人に自覚はないだろうが、こちらを見上げる瞳からは好奇心が溢れている。

「わたし、たくさん、です」

「……ん?」

「わたし、たくさん、いた、です」

 伝わりにくかっただろうか。改めてゆっくり言葉にすればするほど、恭佳が戸惑いの表情を浮かべる。

「えーっと……なんでしょう。シルキーさんがいっぱいいた、みたいな感じに聞こえるんですけど」

「はい」

「〝はい〟?」

「わたし、たくさん、いました」

 男は何体シルキーを作ったのだったか。少なくとも二十人はいた覚えがある。好みだったのか、技術が伴わなかったのかは定かではないけれど、どのシルキーもまったく同じ顔立ち、同じ背丈だった。

 そのくせ「見分けがつかないのは困る」と文句を吐いて、違う色と柄のエプロンは用意された記憶がある。

 恭佳が愕然としたところで、台所に到着した。それを見計らったかのように、書斎から彼女を呼ぶ声が響く。

「すみません、呼ばれたので行ってきますね。ヨサカ語の続きはまた明日にしましょう」

「はい。よろしく、おねがい、する、ます」

「あ、あと」

「?」

「トキさんにちょっと相談してみます!」

 恭佳は意気揚々とシルキーの手を握ってぶんぶん振り、慌ただしく去っていった。

 相談するとは、いったいなにを。聞き返すことも出来ず、シルキーはぱちぱちと目をまたたいていた。



 夕飯には栗ご飯と味噌汁、さつまいもを甘く煮たものとほうれん草のおひたしを用意した。ヨサカの料理を作るのもなかなか慣れてきたように思う。自身が作られた国に無かった調味料を使うのも、最初の頃は上手くいかなかったものだ。

 先ほど恭佳が呼ばれたのは、頁の下書きが終わったからだろう。トキは恐ろしく字が下手で、清書要員として彼女を雇ったのだ。

 作業に集中しているのか、恭佳が帰宅した気配はない。念のため二人分の食事を居間の机に並べてから様子を見に行くと、案の定、トキたちは無言で筆を動かしていた。

「ソレイユ、お食事のご用意が出来ました」

「ああ。もうそんな時間か」

「んえっ」と恭佳が顔を上げる。ミミズが這ったかのごとき字と長時間向き合っていたからか、疲れたように目をこすった。「あれ、シルキーさん」

「飯の時間だとよ」

「えっ、いつの間に。さっきまで夕方だったような。そういえばお腹空いたかもとは思ってたんですけど」

「ごはん、それいゆ、きょうか、じゅんび、した、ます」

「私のぶんも? ありがとうございます!」

 はじけるような笑みを見ると、食事を準備して良かったと嬉しくなる。自然と頬も綻んだ。

 恭佳が「そうだ」となにやら声を上げたのは、手元の紙をまとめていた時だった。

「シルキーさん、ちょっとこっち来てください」

「?」

 手招きされるままに近寄ると、彼女に書きかけの頁を差し出された。辞典におさめる幻獣について記してあるのだろう。文字がつらつらと並んでいるが、勉強不足でなんと書いているかは分からない。頁の右上に一区画だけ空白部分があるのは、幻獣の見た目が分かるような絵を描くためだ。

 ちなみに絵を担当するのは恭佳の父である。娘と違って上手いのだ。

 これはなんの幻獣について説明しているのか。シルキーの眼差しでなにを問われているのか分かったのか、恭佳がふふっと口もとを緩める。

「シルキーさんについて書いてあるんです」

「わたし?」

「俺の作る幻獣辞典にはヨサカにいるやつ全部を載せる」とトキが口を挟んできた。「つまりお前のことも書いて当然ってわけだ」

「それで、さっき話を聞いたり、清書したりして思ったんですけど。シルキーって、シルキーさんの名前じゃないよなあって」

「なまえ、じゃない?」

 どういうことだろう。恭佳は無地の紙を一枚と筆を手に取り、さらさらとなにごとか記す。

「シルキーって、シルキーさんの名前じゃなくて幻獣の種類としての名前なんですよね。それって私やトキさんに例えて言えば、ずっと〝人間さん〟って呼んでたってことじゃないですか」

 出来た、と彼女は満足げにうなずいて、紙をシルキーに渡してくる。

 そこには大きな字が四つ躍っていた。

「トキさんと二人で考えたんです。シルキーさんの、シルキーさんとしての新しい名前」

「わたし、なまえ?」

「お前の髪の色から取ったんだよ」

 言いながら、トキは自分の黒い髪を摘まんでふふんと笑う。シルキーも同じように、顔の横に垂れていた髪を指に絡めた。ほのかに橙色を帯びた金色が、光を受けてちらちらと輝く。

「ヨサカにいるシルキーは今のところお前だけだが、これから増えないとは限らないだろ」

「自分が考えたみたいに言わないでくださいよ。『そうじゃないですか?』って提案したの私じゃないですか」

「細かいことはなんでもいいだろ。とにかく、お前だけの名前を考えるのは悪くねえと思ってな。作業の合間にひねり出した」

 そうだったのか。シルキーは紙に視線を落として、指先でそっと文字をなぞる。

 ――これが、私の新しい名前。

 しかし。

「これ、なに、よむ、ですか」

「ああ。話す方は順調でも、読む方はまだこれからか」

「〝ヤマブキ〟って書いてあるんですよ」

 恭佳は一文字ずつ指先で示しつつ、ゆっくりと発音する。シルキーもそれに倣って、与えられた名前を記憶に刻みこんだ。

 ヨサカにはヤマブキという名の花があるという。その花弁はちょうどシルキーの髪と同じ色なのだと、トキが図鑑を片手に教えてくれた。

「じゃあ早速ですが!」

 ぱんっと恭佳が勢いよく手を叩く。予想以上の大きな音に驚いたのか、トキがわずかに目を瞠っていた。

「シル……じゃなかった。ヤマブキさん」

「はい」

「簡単な自己紹介してみませんか?」

「かんたん、じこ、しょうかい」

「ヨサカ語を覚えたってことは、トキさんや私以外と話す機会も増えるでしょう? そういう時はまず自分の名前を教え合いますよね」

 確かにそうかも知れない。

 恭佳とトキだって、初対面の時はお互いに名乗り合っていたはずだ。自分の場合はヨサカ語を話せなかったため、たいていトキが「こいつはシルキー」と相手に伝えていた。

 それを今度から、自身の口で伝えられるのだ。幻獣の種類としてではなく、一人としての名前も。

「しょうかい、なに、いう、ですか?」

「そうですね。お見合いじゃないですし、初めて会う人には名前を伝えるだけの簡単な紹介で大丈夫だと思うんです。なので簡単ですよ」

 真似してください、と恭佳は己の顎をとんとんと指で叩いた。

「『初めまして。私の名前はヤマブキです』――こんな感じでどうでしょう」

「はじめ、まして?」

 おずおずと復唱すれば、彼女はうんうんとにこやかに続きを待っていた。

「わたし、の、なまえ、は、ヤマブキ、です」

「いいですね! 上手に言えてます」

「ほんとう? ありがとう」

 自分としてはまだまだだ。もっとヨサカ語を練習して、恭佳やトキたちが話すのと同じくらい流暢に言葉を紡げるようになりたい。たくさん言葉を覚えれば、それだけ感情などを伝えるすべも増えるのだから。

 まずは自己紹介をしっかり話せるようにならなければ。もう一度例文を口にしようとしたところで、「あとでやれ」とトキがため息をついた。

「飯出来たって呼びに来たんだろ」

「あっ、そうでしたね」

「冷めねえうちに早く行くぞ」

「はい! そういえば今日の晩ご飯はなんですか?」

「みそしる、つくる、ました。ねぎ、なめこ」

「わー、私ナメコ好きなんです! 楽しみ」

 恭佳はうきうきと弾んだ足取りで居間に向かう。普段は大人びて見える彼女だけれど、たまに年相応の可愛らしさも垣間見えた。トキはそれを呆れたように、しかし慈愛もうかがえる眼差しで見つめて追いかけようとする。だが立ちつくしたまま動かないこちらが気にかかったのか、「どうした」と振り返った。

「さっさと行くぞ」

「…………」

「シルキー?」

「しるきい、ちがう、ます」

「あ?」

「わたしの、なまえ。ヤマブキです」

 自信満々に応じると、トキは目を丸くしたあと、おかしそうに吹き出した。

「悪かった。次から気をつける」

「はい。そうする、ください」

「トキさーん? ヤマブキさーん? なにやってるんですか?」

 居間から恭佳が呼んでいる。「いま、いく、ます」と大きな声で返事をして、シルキーもといヤマブキは、笑みを浮かべて足を踏み出した。

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