4. 紅茶色の殴り合い
「
「っ、
じーちゃんに向けた花魚さんの目線には、怒りと、それを上回る驚きが滲んでいた。
「なぜ、あなたがここに?」
「老体にゃ堪える贈り物だったぜ」
そう言うと、じーちゃんは何かをこちらに放り投げた。
それは三メートルを超す、三つの頭を持った鶏だった。羽の代わりに鱗の生えた翼を広げ、尻尾の部分からは生きた蛇が生えている。鶏と蛇、計四つの頭が、口から泡を吹いてのびていた。
「コカベロス……」
不気味な鶏を見た花魚さんの顔が青ざめる。
「こいつの他にも、『見ただけで相手を殺す』っつー危険な幻獣を何匹もうちに送り込みやがったろ。さすがに死ぬかと思ったぜ」
「全部、倒したっていうの……?」
目を丸くする花魚さんを見て、じーちゃんはにやりと口の端を持ち上げた。
猫の交尾なんかじゃなかった。ここに来る前にうちで聞こえたあの鳴き声は、この三つ頭の鶏の断末魔だったんだ。
おそらく、じーちゃんは花魚さんの呼び出した何体ものお隣さんを相手にして足止めを食らっていて、それらを見事全部返り討ちにしたのだろう。ほんと、ふざけた強さだ。
「何が猫の交尾だよ、嘘つきじいさんめ」
「おうよ、俺は嘘つきだ。だから花咲かじいさんにはなれねえのさ」
俺の嫌味をじーちゃんは鼻で笑い飛ばした。
「ま、枯れ木は無理でも、枯れ藁ぐらいになら小さな花を咲かせられるかもな」
気障な台詞を吐いてくれる。家では口数少ないくせに、今はやたらと口の減らないじーちゃんだ。
そして、こんな風にお喋りなときのじーちゃんは、抜群に頼もしいと相場が決まっている。
「じーちゃん、
「明次くんは今は紫の駅に行っているだけだ。紫の駅ってのはいわゆる死後の国でな。今なら全ての世界が混ざるこのどさくさに紛れて、帰ってくることもできるはずだ。そいつを信じてやれ」
じーちゃんはくしゃくしゃと俺の頭を撫でた。その手は小さく皺だらけで、けれども温かかった。
「さてと、花魚。悪ぃがあれ、ぶっ潰させてもらうぞ」
天井に広がる最大級の
「やれるものならどうぞ、ご自由に」
「んじゃ、遠慮なく」
きゅぽん。じーちゃんはポケットから取り出した茶筒の蓋を開け、ざらざらと緑茶の茶葉を口の中に入れ始めた。茶葉を全部飲み干し、煙草のようにじーちゃんの口から煙が吐き出される。
「来いや、ミドリ」
煙は渦を巻き、その中心から体長五メートルを超える人型のダンゴ虫、デミドリアスが現れた。
「出たね、緑の駅の
花魚さんは余裕の態度を崩さず、胸ポケットから取り出したスポイトから一滴、雫を影に垂らした。
すると花魚さんの影に波紋が広がり、血のように赤く滲む。それから影はむくりと起き上がった。
影は頭部に二本の触角を持ち、顔には目が六つ、全身には痛々しい傷跡が刻まれている。
それは、まごうことなき赤の駅の看板者、ベルドレッドそのものだった。
「
「影に
「魔茶の使い方を教えてくれたのはあなたじゃないですかぁ。ボケちゃったんですか、土熊さん?」
「ほざけ」
ほくそ笑むじーちゃんの横顔に、俺の不安そうな視線が突き刺さる。
「じーちゃん、俺、何もできねえけど……」
「三歩。お前は見てろ」
そんな俺の不安をじーちゃんは一笑する。
「孫の前ではな、じーちゃんは張り切っちゃうもんなのさ。だから見とけ。お前のじーちゃんは強えぞお」
頭の中のもやが晴れていくようだった。この人はいつだって、どんな悩みや逆境も吹き飛ばしてくれる。
俺は力強く頷いた。
「お願いだ、花魚さんを止めてくれ」
「おう、任せとけ」
ぽんと俺の頭を叩いたじーちゃんは、デミドリアスに右腕を差し出した。
「ミドリ、俺の右手を征服しろ」
ぎるぎるぎる、と鳴いたデミドリアスは体をボール状に丸め、小さくなってじーちゃんの腕に絡みつく。じーちゃんの右腕に緑色が染み込み、ダンゴ虫を模した緑色の手甲がはめられた。
がちんと左手で右の手甲を受け止め、両腕を合わせるじーちゃん。それが、戦闘準備は万全だという合図となってベルドレッドを挑発する。
ベルドレッドはふと花魚さんの方に顔を向け、すぐに無言でじーちゃんに向き直る。一つしかない左目がわずかに歪み、しかし即座にその目に決意の光が宿った。
「こちらに義がないのは重々承知だ。それでも我は、我を必要とする
ベルドレッドが重い口を開いた直後、じーちゃんに向かって突進する。
三メートルの真紅の巨体を、緑色の手甲が迎え撃つ。じーちゃんは右腕一本で、ベルドレッドの体を止めていた。
「なかなかどうして、やるな老体!」
「年寄り扱いするならちったあ労わらんか!」
ベルドレッドの頬を、じーちゃんの拳が打ち抜く。赤の魔人の体がふらつき、しかし即座に足で石畳を噛み締めてその場にとどまる。
殴られた頬を手の甲で拭い、ベルドレッドはほくそ笑んで殴り返した。じーちゃんとベルドレッド、緑と赤の拳が衝突し、漆黒の竜巻よりも鋭い風がこちらまで吹き荒ぶ。
互角。少なくとも俺の目にはそう見えた。
本当に見ているだけでいいのか。
何か。何か俺にできることはないのか?
必死で錆びついた脳をフル回転させていると、横から声がした。
「やーっぱ強いねえ、土熊さんは」
気づけば、俺の隣には花魚さんが佇んでいた。まるで他人事のように、じーちゃんとベルドレッドの戦いをぼんやりと眺めている。
「花魚さんは、加勢しないんですか?」
「無理無理。あの二人の戦いに巻き込まれたら私死んじゃう。次元が違いすぎるよ」
手を振る花魚さんの仕草は、ちょっとおばちゃんっぽかった。
「私は強くないから、お隣さんの力を借りてるだけだよ」
「花魚さんだって、充分強いじゃないですか」
大きなティースプーンを軽々と振り回す花魚さんの姿がありありと浮かぶ。
「私は強くなんかないよ。お母さんの死を乗り越えることすらできない、小さな子どものままだもの」
じーちゃんとベルドレッドの方を見ながら、目線はその二人のずっと先、遠いところに思いを馳せて花魚さんは語る。
「私がビスケットを食べようとしないのは、昔お母さんの作ってくれたビスケットしか食べたくないからなんだよ」
花魚さんの、お母さん。誰よりも花魚さんが会いたくてやまない、大切な人。
「お母さんはよくビスケットを焼いてくれた。だから私の中にあるビスケットの味は、お母さんの思い出の味だけでいい。それ以外のビスケットなんて食べたら、思い出が消えちゃう」
だから、私はビスケットが大嫌い。
そうぽつりとこぼした花魚さんはちらと明次の死体に目をやり、それからまっすぐ俺の目を見つめてきた。深い紅茶色の瞳が俺の心を覗く。
「私が憎くないの?」
一瞬、息が詰まる。
どう答えたものか、見当がつかない。無数の気持ちで頭の中はぐしゃぐしゃで、思考が渋滞している。
俺は酸素の代わりに答えを求め、口を動かしたが、肝心の台詞が出てこない。
ふと、怒涛の殴り合いを続けているじーちゃんとベルドレッドが視界に入る。
じーちゃんの拳が赤い魔人の体に叩き込まれる。ベルドレッドの体から真紅の鮮血が飛び散り、傷だらけの全身に新しい傷跡が加わった。
ベルドレッドは笑っていた。全身の傷口という傷口からけたたましい笑い声を上げて、じーちゃんの頬を殴り返す。じーちゃんは紙のように吹っ飛んだ。それを見てベルドレッドはまた全身から笑い声を吐き出す。あいつの体中の傷口は、全部口だったのか。
吹き飛ばされたじーちゃんが、黒い風の壁を蹴って弾丸のごとき勢いで飛び出した。そのまま肩口まで目いっぱい右手を引き絞り、力を溜めた拳を発射する。緑色の矢が尾を引き、赤い魔人の額に突き刺さる。が、ベルドレッドの額は裂けて口となり、じーちゃんの拳を歯で受け止めていた。ぎちぎちと緑の手甲が軋む音がやけに大きく響き、膠着状態が生まれる。
壮絶な戦いをしばらく眺めたあと、俺の口は自然に言葉を紡いでいた。
「花魚さんを憎むなんて、できませんよ。明次の友だちとしては失格だけど、こいつならきっとわかってくれます」
ああ、どうして花魚さんは、こんなときにも俺の瞳に眩しく映るのだろう。
「俺は花魚さんのことが好きです。だから、憎めません」
そしてどうして俺は、こんなときに胸の気持ちを告げてしまうんだ。
花魚さんは長いまつ毛とともに目をぱちくりさせたのち、ふっと微笑んだ。
「うん、知ってる」
それは、今は聞きたくない言葉だった。
「だから私は、きみたちにひどいことをできるんだろうね。嫌われないって自信があるから」
まったくもってその通りだから反論できない。惚れた弱みというやつだ。この人に惚れた時点で、俺も明次も負けていたのだ。
「ただ、」
この期に及んで、俺の口は負けを認めようとしなかった。花魚さんの前で弱みを見せず、かっこつけようとしている。
俺は花魚さんの目を見つめ返し、はっきりと言った。
「今の花魚さんは、いつもほど好きじゃありません」
正直な、今の生の気持ちだ。
明次を殺されても俺は花魚さんを憎めない。それは本音だ。花魚さんのことが好きでたまらない。これも本心だ。
花魚さんの魅力は変わらない。でも、花魚さんを好きになっている自分を、今は許せなく思っている。
「だから、俺はじーちゃんを応援するんです!」
俺はテーブルに向かい、一つだけ中身の残っているティーカップを狙った。花魚さんが口をつけていないやつだ。
すかさずテーブルの脇に置いてあったミルクピッチャーを手に取り、ミルクをカップの中に注ぎ込むと、先ほどまで花魚さんが持っていたマドラーで思いっきりかき回した。
マドラーがカップの縁にかちかちと当たるほど、激しく。
俺はマドラーで、ミルクティーをノックする。
「何を――しているの?」
「あなたの、邪魔ですよ!」
突然の俺の奇行に狼狽する花魚さんだが、もう遅い。準備はとっくにできている。
俺は喉を震わせ、助っ人に声をかける。
「頼む! もう一度、力を貸してくれ!」
「お安い御用さ、小坊主!」
助っ人――ミルクティーはカップから溢れてサムズアップの形を取り、そのまま勢いよく薄茶色の濁流となってベルドレッドへと伸びていった。
一本の川となったミルクティーの竜は、赤い魔人の全身に噴きかかる。ベルドレッドの全身の傷口は、ミルクティーを飲み干していった。眠り
「約束を果たすぜ、ベルドレッド! とびっきり甘いミルクティーをご馳走してやるよ!」
「いや待て、これ砂糖が入ってな――」
ベルドレッドの台詞は、口になだれ込む大量のミルクティーによってかき消された。じーちゃんの拳を噛んでいた口の隙間からも紅茶が侵入し、力を奪う。
紅茶をしこたま飲んだベルドレッドの足ががくんと崩れ、じーちゃんの右手も自由になった。眠り茨の効き目はばっちりだ。俺が身を以て保証している。
その一秒にも満たない隙を、うちの目ざといじーちゃんが見逃すはずがない。
「孝行もんだな、三歩ぉ!」
緑の手甲をまとったじーちゃんの拳が、ベルドレッドの腹を貫いた。
どうだ、赤の魔人。効くだろ。
うちのじーちゃんの拳骨はな、この世で一番痛いんだ。
ずるりと、無言でじーちゃんは血で染まった手甲をベルドレッドの腹から引き抜く。直後、ベルドレッドが膝をつき、地に伏した。
石畳にキスをする赤い魔人は、眠るようにずぶずぶと花魚さんの影の中へ沈んでいった。
じーちゃんの勝ちだ。俺のじーちゃんが勝ったんだ!
見たか、花魚さん。ヒントは全部あなたがくれたんだ。眠り茨も、俺のノックの力も、マドラーも。あなたのマドラー計画は、一本のマドラーで崩れ去ったぞ!
あとはじーちゃんがこの黒い竜巻を全部壊して、明次が生き返ればめでたしめでたしだ。そうすれば、またいつもの日常に帰れる。
――その考えが楽観的すぎたと気づくのに、そう時間はかからなかった。
「さすがは赤の駅の看板者だね。土熊さん相手にここまで時間を削れるなんて。これで、最後に笑うのは私だよ」
花魚さんのその言葉は、負け惜しみなんかじゃなかった。
なぜなら、黒い風が渦巻く菜園の天井、ドームの上に開いた竜巻の中心の巨大な風穴の向こう側から、真っ黒な瞳が俺たちを見下ろしていたからだ。
花魚さん家の家庭菜園スペースの広さは、ざっと直径三十メートルほど。学校の体育館ぐらいだ。つまり、今、上にいる何かは、最低でもそのくらいの大きさの化け物ということになる。
そいつは天井の魔戸から手を伸ばし、地に下ろした。遠近感が狂い、ティーセットがおもちゃのように簡単に潰される。その手は、真っ黒な骨だけの腕だった。
それを見た瞬間、俺の背中に小さな針を差し込まれたような悪寒が走る。
なんでだ。なんで、あんなものを俺は見た記憶があるんだ。
あの黒よりもなお暗い色に、俺は間違いなく見覚えがある。でも、いつ見たのかさっぱり思い出せない。
「ヴェノワール様!」
花魚さんの呼び声に応えるように、黒い骨の怪物は下りてくる。足が石畳を踏みしめ、重みに耐えきれずに石畳にひびが入った。
降り立ったのは、巨人の骨と見紛うばかりの、漆黒の骸骨。
こいつが黒の駅の看板者、黒の魔王ヴェノワール、なのか?
「あなたの復活を、この一瞬を、心待ちにしておりました。もう一度、黒の駅を作り直しましょう」
うっとりと、恋する乙女の表情で黒い髑髏に語りかける花魚さん。
恭しく傅き、頭を垂れる彼女を見下ろし、ヴェノワールは口を開いた。
「その必要はない」
しゃがれた声だった。はァ、と黒みを帯びた息が口から漏れ出す。
ぽっかりと開いたどこまでも黒い空洞の中の、無い瞳が花魚さんを吸い込むように
「もうあの駅は飽きた。だから壊した。もう二度と、作る気などない」
黒の魔王のお言葉は、無慈悲の衝撃を連れてきた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます