3. サプライズのちサプライズ

 雷に打たれるというのは、きっと今のような感覚なのだろう。衝撃に脳の神経が焼き切れ、絶句するしかない。

 全部、この日のためだったのか?

 花魚はなさかさんが俺たちをお茶に誘ってくれたのも、命の危険から守ってくれたのも。そして、お隣さんとの騒動を解決していくうちに絆が深まったと思っていたことも。

 その全部の日々を犠牲にして、この人はヴェノワールとやらを生き返らせるつもりだ。


「どうして、そこまでして生き返らせようとするんですか。その、ヴェノワールってやつを」


 明次めいじの声は震えていた。心を寄せていた相手に、急に突き放されたのだ。俺だって泣けるものなら泣きたい気分だ。なんならやけ食いでもしたい。


「黒の駅はね、私の故郷なんだ」


 遠い目をして花魚さんは滔々とうとうと語った。


「黒の駅が滅びるとき、お母さんは魔戸まどを開けて私をこの茶の駅へ逃がしてくれた。でも魔戸っていうのは基本的に、開けた本人は通れないんだよ」


 それってつまり……


看板者センターさえいればまた黒の駅は再興される。私はもう一度、故郷と一緒に滅びたお母さんに会いたいの」


「…………」


 俺も明次も、何も言えなかった。

 いなくなった母親に会いたいという願いは、何よりも俺たちが知っているものだから。俺たちは花魚さんを責められないし、止められない。目の前の想い人は間違っている。けれど、その気持ちは痛いほどわかってしまった。


「さ、せっかく持ってきてくれたんだから、お菓子を食べましょう?」


 俺たちの思いなど知る由もなく、何事もなかったかのようにお茶会の続きに移る花魚さん。

 紙袋を開け、中からレアチーズケーキを取り出して切り分ける。三人分のレアチーズケーキが皿に載せられ、それぞれの前に置かれた。

 まさか最後の晩餐を、自分の手で作ることになるとは。知ってたらもっと手の込んだいいもん作ってたのに。いや、悔いるべきはそこじゃないか。


「上半身は動くでしょう? いただきましょう」


 花魚さんは手を合わせる。それは、俺たちへ向ける合掌でもあった。

 もちろん俺も明次も、レアチーズケーキを食べられる気分じゃない。確かに手は動くが、とても口をつける気にはなれなかった。

 これを食べたら、全てが終わるような気がして。

 花魚さんはフォークで刺したケーキを一口食べて、ゆっくりと味わうように頬を動かし、やがて、静かに目を見開いた。


「これ、明次くんが作ったんだっけ」


 首を明次の方に向け、問う花魚さん。その口調は、尋問に近かった。


「そういやそうですけ、ど――」


 明次が返事を言い終える前に、花魚さんはマドラーを手にして一閃させた。

 ぴっ、と明次の体に斜めの線が入り、明次の上半身はずり落ちる。

 どちゃ、と明次の片方が地面に落ちたのを見て、俺はただ呆然としていた。開いた口から「え」と微かに漏れる。



 明次が、両断された。明次が、上と下に分かれた。

 つまり、明次は死んだ。



 言葉にすればたったそれだけのこと。だからこそ、俺は信じられなかった。

 目の前でどくどくと真っ赤な血を垂れ流しているのが悪友だと、とても受け止められなかった。


「ビスケットは食べたくないって、私言ったよね」


 二つになった明次を見下ろす花魚さんの眼差しは、どこまでも冷たかった。

 ビスケットが苦手って、ここまでの次元でかよ。

 人を殺すほどの好き嫌いって、もはや地雷だ。確かにグラハムクラッカーがなかったからビスケットで代用したが、その代償はいくらなんでも大きすぎた。


「待ってください。このチーズケーキを作ったのは俺です。ビスケットを使ったのは俺なんですよ花魚さん!」


 頭の中が熱い。体中が沸騰しそうだ。こんなことになるのなら、大人しくグラハムクラッカーを買いに行くべきだった。そもそも、レアチーズケーキなんて作らなければよかった。大切な親友を、失うくらいなら。

 なんとか明次のそばに駆けつけてやりたいが、下半身が椅子に貼り付けられているのでそれすら叶わない。


「殺すなら、俺にしてくださいよ……!」


「だぁめ」


 必死に絞り出した俺の声を、花魚さんは一蹴した。


「大丈夫。最初から、死んでもらうなら明次くんって決めてたし」


 何が大丈夫だ。人が死んだってのに。


「それに彼はすぐ生き返るよ」


「は?」


 花魚さんがこともなげに発したその一言が俺の頭に水をかけた。

 生き返る? 明次が? こんなに血を流しているのに?

 俺は明次の死体と花魚さんの間で視線を彷徨わせ、結局花魚さんの話に耳を傾けることにした。明次の体からはなおも血が溢れ続けていた。


「私の元々の計画はね、世界を混ぜることだったんだ」


 花魚さんはマドラーで空中をくるくるとかき回す。明次の命を切ったマドラーを。


「全ての色の駅を混ざれば、その色は真っ黒になって、黒の駅が復活する。簡単でしょ? 名前を付けるなら、そうだね、マドラー計画ってとこかな」


 そのマドラーは、どす黒い血にまみれていた。


「だからこれまでいろんな駅へと通じる魔戸を開けてきたし、その魔戸を作り出した魔茶マティーもきみに飲ませてきた。今、三歩くんの体の中には、全部の駅の色が入ってるはずだよ」


 俺の中に、全ての色の駅へ通じる魔戸の元が。だから花魚さんは、俺を誘ってしきりにお茶会を開いていたのか。ただのご近所づき合いだと思っていたのに、計画の一部だったなんて。

 でも一つ、引っかかるところがあった。


「黒の駅がもう滅びてるんなら、俺の中に全部の色はないはずですよね?」


「あるんだなあ、それがね」


 ふふ、と花魚さんは微笑む。その目には純粋な光しか宿っていなかった。


「三歩くん、ノックってしたことある?」


 こんこん、と拳で空気を叩くようなジェスチャーを花魚さんはしてみせる。ノック? そんなもの当然――

 そこで気づく。ごくありふれた動作、日本でもとっくに根付いているはずの習慣なのに、俺は今までノックをした記憶がほとんどない。

 なんで俺は、ノックをしていないんだ?


土熊どぐまさんが純和風の家を建てるわけだよ」


「あ……」


 そうか。うちは日本家屋だから、ドアなどない。あるのは玄関の引き戸と襖、それに障子だけだ。


「三歩くんにノックをさせないための、苦肉の策だったんだろうね。すっかり騙されちゃった」


 思えば、毎日パンを好んで食べ、作るおかずも洋食が多いじーちゃんが、家だけ純日本式のものを建てるというのも妙な話だ。

 うちは十年前に引っ越してきたときに建てられたから、わざわざ和風の家を建てたことになる。好みと言ってしまえばそれまでだけど、なんとなくちぐはぐだとは思っていたんだ。


「黒の魔王ヴェノワールの能力は、他者に元気を吹き込むこと。三歩くん。きみの中にはね、ヴェノワールの力の絞りかすがあるんだよ。そしてその能力を発動させるトリガーになるのは、ノックだ」


 またもや重大な隠し事が詳らかにされた。驚きすぎて麻痺しそうだ。なんで俺に、そんな力が。

 いや、待てよ。ピスヘントを拳で小突いたとき、みるみるうちに傷が治っていった。バルバトスの猛攻を受けて重症だった花魚さんも、俺が軽く小突いたら嘘のように生気を取り戻して立ち上がった。

 そういえばミルクティーをかき混ぜるとき、ティースプーンがカップの縁に当たったが、あれも間接的なノックになるんだろうか。

 俺がノックしたものは、ことごとく元気になっている。中にはミルクティーのように、無生物が自我を獲得したケースまである。

 本当に、俺のノックに黒の駅の力が……?


「なぜ三歩くんに黒の魔王の力があるのかはさておいて、問題は何をきっかけに力が出せるのかがわからなかったことだ。それがノックだと気づけたのは本当にラッキーだったよ」


 原因は言うまでもない、ピスヘントの件だ。ピスヘントは確かに花魚さんに最大の幸運をもたらした。そしてそれは、奇しくも俺たちにとっては災厄だったのだ。


「……じーちゃんは」


 虹色のグラデーションを描く植物の中心で、俺はぽつりとつぶやく。


「じーちゃんは、俺が黒の駅の力を持っているって、知ってたんですか」


「だろうね。食えない人だよ」


 花魚さんの答えは短く、的を射ていた。それもそうだ。じゃなきゃわざわざ俺にノックをさせないようにして、俺の力を花魚さんに隠し続けられるわけがない。

 俺はもっとじーちゃんのことを疑問に思うべきだった。

 じーちゃんは、他の色の駅の住人が出てきても寛容すぎる。そしてでたらめに強すぎる。花魚さんと同じくらいなんでもありの人物だ。それを俺は、身内だからというだけであっさり受け入れすぎていたんだ。深く考えないようにして、目を逸らしていた。

 本当は、家族だからこそきちんと知っておかなければならなかったのに。

 底の見えない湖こそがじーちゃんだった。その表面に何が映っているのかさえ、わからない。

 だから俺は、こう思わずにはいられなかった。


「じーちゃんにとって俺って、なんなんですかね……」


 その答えを持っているわけがないのに、つい花魚さんに問いかけてしまう。

 しかし、彼女はさらりとこう言ってのけた。


「孫だよ。黒の魔王の力を持った子ども。黒の魔子まごがきみだ」


 それは、あるいは一番聞きたくなかったことだった。

 じーちゃんにとって俺は、黒の力の絞り滓に過ぎない。それ以上でもそれ以下でもない。重要なのは、俺個人ではなく俺の中にある力の方だと。そう、はっきりと断言された。

 じーちゃんが不愛想なのも、ぶっきらぼうなのも、何も話してくれないのも。全て、俺に興味がなかったからなのだ。打ち解ける必要も価値も、端からなかったんだ。

 そう考えた方がしっくりきて。そして、この上なく苦しかった。心臓を雑巾のように絞られたみたいだ。絞り汁となって、俺の中のごちゃ混ぜになった感情が滴り落ちる。


「土熊さんは今日、ここへは来ないよ」


 そうかもしれない。ヒーローだって、助ける相手を選ぶ権利がある。


「誰にも、マドラー計画の邪魔はさせない」


 花魚さんは手を広げ、高らかに懇願した。


「さあ、明次くんの体をノックしてちょうだい、三歩くん! そうすれば明次くんは生き返る。そして黒の力が最後の鍵となって、世界は混ざり、黒の駅も蘇る! お互いのハッピーエンドを迎えましょう!」


 その願いは、甘い禁断の果実だった。

 いつの間にか、足に力も戻ってきている。灯りに吸い寄せられる虫のごとく、俺は立ち上がり、明次の体にふらふらと近づく。

 待ってろよ、明次。

 すぐ、生き返らせてやるからな。

 そう自分に言い聞かせ、震える手で明次の心臓をノックする。柔らかい肉の感触と、冷たい体温が拳の裏に伝わった。

 俺は、禁断の果実にかじりついてしまったのだ。

 その瞬間、世界はどんな名画よりも鮮やかに混じり始めた。

 ぐにゃりと木々がねじれ、虹色の植物たちが輪になって絡み合う。虹色は俺たちのいるテーブルを中心に螺旋状に円を描き、家庭菜園スペースのドームの天井へと向かって昇り、大きな柱となっていった。

 このドーム全体が、巨大な魔戸と化していく。俺たちは今、虹色のメリーゴーラウンドの中心に取り残されていた。

 虹色が溶け合い、柱は徐々に黒ずんでいった。あちこちで火花が飛び交い、天井がオーロラのように揺らめく。

 けれど。

 世界が混ざるのはこの際どうでもいい。

 問題は明次だ。

 穴が開くほど明次の体を見続けると、異変は訪れた。椅子に座ったままの明次の下半身が崩れ落ち、意思を持ったかのように切断面を上半身にくっつけたのだ。上半身と下半身は繋がり、切り口の継ぎ目が薄くなって消えていく。明次の体が、一つになった。

 だというのに一向に目を開ける気配がない。おい、どうしたんだよ。花魚さんがいるんだぞ。またいつもみたいに鼻の下を伸ばしてくれよ。


「花魚さん、明次が、明次が起きません」


 今の俺は捨てられた子犬の目をしているのだろう。すがる俺の視線の先で、花魚さんはマドラーを指揮棒よろしく振って、上機嫌にはしゃいでいた。どこまでも、無邪気に。


「時間が経てばそのうち目を覚ますよ。それよりご覧、この光景を。まるで世界の産声だ」


 花魚さんにつられて上を見る。黒い竜巻が立ち昇り、俺たちを囲んでいた。竜巻の中では思い思いの世界の色をした線が絡み合い、溶け合おうとしている。

 世界が、混ざる。

 じゃあ、混ざったあとのそれぞれの色の駅は、俺たちの暮らすこの茶の駅は、どうなるのだろうか。

 黒の駅は生まれ直す。だけど、他の駅が無事だという保証は何一つない。

 頭の中に見知った二人の顔が浮かぶ。

 じーちゃんは、風は、いったいどうなっているんだ。この竜巻の外は、俺の知っているいつもの住宅街なのか。

 会いたい。またじーちゃんの顔を見て、安心したい。今この瞬間にも、新聞を読んで、緑茶をすすって、仏頂面でちゃぶ台に座っているじーちゃんの姿をもう一度拝みたくなった。

 でもそれは無茶な話だ。なぜなら今朝方、俺が自分でじーちゃんを突き放してしまったのだから。

 そして、じーちゃんにとって俺は、黒の駅の力の入れ物でしかないのだから。本当の孫ではないのだから。

 ゆえにじーちゃんはやってこない。花魚さんもそう言っていた。

 じーちゃんがここに来る理由はない。けれども、最後にもう一度だけ、謝りたかった。


「ひどいこと言って、ごめん。世界をかき回してしまって、ごめんなさい……!」


 俺の後悔はたちまち黒の暴風雨の中に吸い込まれて、ちぎれていく。

 その、黒い竜巻に、




「なんでもかんでも簡単に謝るな。全部終わってから清算すりゃあいい」




 眩しいほどの真っ白な筋が走り、聞き慣れた声が差し込んできた。

 黒の竜巻に亀裂が走る。

 亀裂を中心に、世界をかき回す特大の黒いマドラーの一部が砕かれ、中から拳が伸びてきた。


「よう、邪魔するぜ、花魚さんよ」


 こんなばかでかい魔戸をぶち壊せる人物に、心当たりは一人しかない。


「じーちゃん!」


「誕生日おめでとうよ、三歩。遅くなっちまったが、パーティには間に合ったな?」


 不敵に笑うじーちゃんは、ばりばりと漆黒の竜巻を海苔みたいに破りながら姿を見せた。

 それは、今日一番のサプライズプレゼントだった。

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