3. サプライズのちサプライズ
雷に打たれるというのは、きっと今のような感覚なのだろう。衝撃に脳の神経が焼き切れ、絶句するしかない。
全部、この日のためだったのか?
その全部の日々を犠牲にして、この人はヴェノワールとやらを生き返らせるつもりだ。
「どうして、そこまでして生き返らせようとするんですか。その、ヴェノワールってやつを」
「黒の駅はね、私の故郷なんだ」
遠い目をして花魚さんは
「黒の駅が滅びるとき、お母さんは
それってつまり……
「
「…………」
俺も明次も、何も言えなかった。
いなくなった母親に会いたいという願いは、何よりも俺たちが知っているものだから。俺たちは花魚さんを責められないし、止められない。目の前の想い人は間違っている。けれど、その気持ちは痛いほどわかってしまった。
「さ、せっかく持ってきてくれたんだから、お菓子を食べましょう?」
俺たちの思いなど知る由もなく、何事もなかったかのようにお茶会の続きに移る花魚さん。
紙袋を開け、中からレアチーズケーキを取り出して切り分ける。三人分のレアチーズケーキが皿に載せられ、それぞれの前に置かれた。
まさか最後の晩餐を、自分の手で作ることになるとは。知ってたらもっと手の込んだいいもん作ってたのに。いや、悔いるべきはそこじゃないか。
「上半身は動くでしょう? いただきましょう」
花魚さんは手を合わせる。それは、俺たちへ向ける合掌でもあった。
もちろん俺も明次も、レアチーズケーキを食べられる気分じゃない。確かに手は動くが、とても口をつける気にはなれなかった。
これを食べたら、全てが終わるような気がして。
花魚さんはフォークで刺したケーキを一口食べて、ゆっくりと味わうように頬を動かし、やがて、静かに目を見開いた。
「これ、明次くんが作ったんだっけ」
首を明次の方に向け、問う花魚さん。その口調は、尋問に近かった。
「そういやそうですけ、ど――」
明次が返事を言い終える前に、花魚さんはマドラーを手にして一閃させた。
ぴっ、と明次の体に斜めの線が入り、明次の上半身はずり落ちる。
どちゃ、と明次の片方が地面に落ちたのを見て、俺はただ呆然としていた。開いた口から「え」と微かに漏れる。
明次が、両断された。明次が、上と下に分かれた。
つまり、明次は死んだ。
言葉にすればたったそれだけのこと。だからこそ、俺は信じられなかった。
目の前でどくどくと真っ赤な血を垂れ流しているのが悪友だと、とても受け止められなかった。
「ビスケットは食べたくないって、私言ったよね」
二つになった明次を見下ろす花魚さんの眼差しは、どこまでも冷たかった。
ビスケットが苦手って、ここまでの次元でかよ。
人を殺すほどの好き嫌いって、もはや地雷だ。確かにグラハムクラッカーがなかったからビスケットで代用したが、その代償はいくらなんでも大きすぎた。
「待ってください。このチーズケーキを作ったのは俺です。ビスケットを使ったのは俺なんですよ花魚さん!」
頭の中が熱い。体中が沸騰しそうだ。こんなことになるのなら、大人しくグラハムクラッカーを買いに行くべきだった。そもそも、レアチーズケーキなんて作らなければよかった。大切な親友を、失うくらいなら。
なんとか明次のそばに駆けつけてやりたいが、下半身が椅子に貼り付けられているのでそれすら叶わない。
「殺すなら、俺にしてくださいよ……!」
「だぁめ」
必死に絞り出した俺の声を、花魚さんは一蹴した。
「大丈夫。最初から、死んでもらうなら明次くんって決めてたし」
何が大丈夫だ。人が死んだってのに。
「それに彼はすぐ生き返るよ」
「は?」
花魚さんがこともなげに発したその一言が俺の頭に水をかけた。
生き返る? 明次が? こんなに血を流しているのに?
俺は明次の死体と花魚さんの間で視線を彷徨わせ、結局花魚さんの話に耳を傾けることにした。明次の体からはなおも血が溢れ続けていた。
「私の元々の計画はね、世界を混ぜることだったんだ」
花魚さんはマドラーで空中をくるくるとかき回す。明次の命を切ったマドラーを。
「全ての色の駅を混ざれば、その色は真っ黒になって、黒の駅が復活する。簡単でしょ? 名前を付けるなら、そうだね、マドラー計画ってとこかな」
そのマドラーは、どす黒い血にまみれていた。
「だからこれまでいろんな駅へと通じる魔戸を開けてきたし、その魔戸を作り出した
俺の中に、全ての色の駅へ通じる魔戸の元が。だから花魚さんは、俺を誘ってしきりにお茶会を開いていたのか。ただのご近所づき合いだと思っていたのに、計画の一部だったなんて。
でも一つ、引っかかるところがあった。
「黒の駅がもう滅びてるんなら、俺の中に全部の色はないはずですよね?」
「あるんだなあ、それがね」
ふふ、と花魚さんは微笑む。その目には純粋な光しか宿っていなかった。
「三歩くん、ノックってしたことある?」
こんこん、と拳で空気を叩くようなジェスチャーを花魚さんはしてみせる。ノック? そんなもの当然――
そこで気づく。ごくありふれた動作、日本でもとっくに根付いているはずの習慣なのに、俺は今までノックをした記憶がほとんどない。
なんで俺は、ノックをしていないんだ?
「
「あ……」
そうか。うちは日本家屋だから、ドアなどない。あるのは玄関の引き戸と襖、それに障子だけだ。
「三歩くんにノックをさせないための、苦肉の策だったんだろうね。すっかり騙されちゃった」
思えば、毎日パンを好んで食べ、作るおかずも洋食が多いじーちゃんが、家だけ純日本式のものを建てるというのも妙な話だ。
うちは十年前に引っ越してきたときに建てられたから、わざわざ和風の家を建てたことになる。好みと言ってしまえばそれまでだけど、なんとなくちぐはぐだとは思っていたんだ。
「黒の魔王ヴェノワールの能力は、他者に元気を吹き込むこと。三歩くん。きみの中にはね、ヴェノワールの力の絞り
またもや重大な隠し事が詳らかにされた。驚きすぎて麻痺しそうだ。なんで俺に、そんな力が。
いや、待てよ。ピスヘントを拳で小突いたとき、みるみるうちに傷が治っていった。バルバトスの猛攻を受けて重症だった花魚さんも、俺が軽く小突いたら嘘のように生気を取り戻して立ち上がった。
そういえばミルクティーをかき混ぜるとき、ティースプーンがカップの縁に当たったが、あれも間接的なノックになるんだろうか。
俺がノックしたものは、ことごとく元気になっている。中にはミルクティーのように、無生物が自我を獲得したケースまである。
本当に、俺のノックに黒の駅の力が……?
「なぜ三歩くんに黒の魔王の力があるのかはさておいて、問題は何をきっかけに力が出せるのかがわからなかったことだ。それがノックだと気づけたのは本当にラッキーだったよ」
原因は言うまでもない、ピスヘントの件だ。ピスヘントは確かに花魚さんに最大の幸運をもたらした。そしてそれは、奇しくも俺たちにとっては災厄だったのだ。
「……じーちゃんは」
虹色のグラデーションを描く植物の中心で、俺はぽつりとつぶやく。
「じーちゃんは、俺が黒の駅の力を持っているって、知ってたんですか」
「だろうね。食えない人だよ」
花魚さんの答えは短く、的を射ていた。それもそうだ。じゃなきゃわざわざ俺にノックをさせないようにして、俺の力を花魚さんに隠し続けられるわけがない。
俺はもっとじーちゃんのことを疑問に思うべきだった。
じーちゃんは、他の色の駅の住人が出てきても寛容すぎる。そしてでたらめに強すぎる。花魚さんと同じくらいなんでもありの人物だ。それを俺は、身内だからというだけであっさり受け入れすぎていたんだ。深く考えないようにして、目を逸らしていた。
本当は、家族だからこそきちんと知っておかなければならなかったのに。
底の見えない湖こそがじーちゃんだった。その表面に何が映っているのかさえ、わからない。
だから俺は、こう思わずにはいられなかった。
「じーちゃんにとって俺って、なんなんですかね……」
その答えを持っているわけがないのに、つい花魚さんに問いかけてしまう。
しかし、彼女はさらりとこう言ってのけた。
「孫だよ。黒の魔王の力を持った子ども。黒の
それは、あるいは一番聞きたくなかったことだった。
じーちゃんにとって俺は、黒の力の絞り滓に過ぎない。それ以上でもそれ以下でもない。重要なのは、俺個人ではなく俺の中にある力の方だと。そう、はっきりと断言された。
じーちゃんが不愛想なのも、ぶっきらぼうなのも、何も話してくれないのも。全て、俺に興味がなかったからなのだ。打ち解ける必要も価値も、端からなかったんだ。
そう考えた方がしっくりきて。そして、この上なく苦しかった。心臓を雑巾のように絞られたみたいだ。絞り汁となって、俺の中のごちゃ混ぜになった感情が滴り落ちる。
「土熊さんは今日、ここへは来ないよ」
そうかもしれない。ヒーローだって、助ける相手を選ぶ権利がある。
「誰にも、マドラー計画の邪魔はさせない」
花魚さんは手を広げ、高らかに懇願した。
「さあ、明次くんの体をノックしてちょうだい、三歩くん! そうすれば明次くんは生き返る。そして黒の力が最後の鍵となって、世界は混ざり、黒の駅も蘇る! お互いのハッピーエンドを迎えましょう!」
その願いは、甘い禁断の果実だった。
いつの間にか、足に力も戻ってきている。灯りに吸い寄せられる虫のごとく、俺は立ち上がり、明次の体にふらふらと近づく。
待ってろよ、明次。
すぐ、生き返らせてやるからな。
そう自分に言い聞かせ、震える手で明次の心臓をノックする。柔らかい肉の感触と、冷たい体温が拳の裏に伝わった。
俺は、禁断の果実にかじりついてしまったのだ。
その瞬間、世界はどんな名画よりも鮮やかに混じり始めた。
ぐにゃりと木々がねじれ、虹色の植物たちが輪になって絡み合う。虹色は俺たちのいるテーブルを中心に螺旋状に円を描き、家庭菜園スペースのドームの天井へと向かって昇り、大きな柱となっていった。
このドーム全体が、巨大な魔戸と化していく。俺たちは今、虹色のメリーゴーラウンドの中心に取り残されていた。
虹色が溶け合い、柱は徐々に黒ずんでいった。あちこちで火花が飛び交い、天井がオーロラのように揺らめく。
けれど。
世界が混ざるのはこの際どうでもいい。
問題は明次だ。
穴が開くほど明次の体を見続けると、異変は訪れた。椅子に座ったままの明次の下半身が崩れ落ち、意思を持ったかのように切断面を上半身にくっつけたのだ。上半身と下半身は繋がり、切り口の継ぎ目が薄くなって消えていく。明次の体が、一つになった。
だというのに一向に目を開ける気配がない。おい、どうしたんだよ。花魚さんがいるんだぞ。またいつもみたいに鼻の下を伸ばしてくれよ。
「花魚さん、明次が、明次が起きません」
今の俺は捨てられた子犬の目をしているのだろう。すがる俺の視線の先で、花魚さんはマドラーを指揮棒よろしく振って、上機嫌にはしゃいでいた。どこまでも、無邪気に。
「時間が経てばそのうち目を覚ますよ。それよりご覧、この光景を。まるで世界の産声だ」
花魚さんにつられて上を見る。黒い竜巻が立ち昇り、俺たちを囲んでいた。竜巻の中では思い思いの世界の色をした線が絡み合い、溶け合おうとしている。
世界が、混ざる。
じゃあ、混ざったあとのそれぞれの色の駅は、俺たちの暮らすこの茶の駅は、どうなるのだろうか。
黒の駅は生まれ直す。だけど、他の駅が無事だという保証は何一つない。
頭の中に見知った二人の顔が浮かぶ。
じーちゃんは、風は、いったいどうなっているんだ。この竜巻の外は、俺の知っているいつもの住宅街なのか。
会いたい。またじーちゃんの顔を見て、安心したい。今この瞬間にも、新聞を読んで、緑茶をすすって、仏頂面でちゃぶ台に座っているじーちゃんの姿をもう一度拝みたくなった。
でもそれは無茶な話だ。なぜなら今朝方、俺が自分でじーちゃんを突き放してしまったのだから。
そして、じーちゃんにとって俺は、黒の駅の力の入れ物でしかないのだから。本当の孫ではないのだから。
ゆえにじーちゃんはやってこない。花魚さんもそう言っていた。
じーちゃんがここに来る理由はない。けれども、最後にもう一度だけ、謝りたかった。
「ひどいこと言って、ごめん。世界をかき回してしまって、ごめんなさい……!」
俺の後悔はたちまち黒の暴風雨の中に吸い込まれて、ちぎれていく。
その、黒い竜巻に、
「なんでもかんでも簡単に謝るな。全部終わってから清算すりゃあいい」
眩しいほどの真っ白な筋が走り、聞き慣れた声が差し込んできた。
黒の竜巻に亀裂が走る。
亀裂を中心に、世界をかき回す特大の黒いマドラーの一部が砕かれ、中から拳が伸びてきた。
「よう、邪魔するぜ、花魚さんよ」
こんなばかでかい魔戸をぶち壊せる人物に、心当たりは一人しかない。
「じーちゃん!」
「誕生日おめでとうよ、三歩。遅くなっちまったが、パーティには間に合ったな?」
不敵に笑うじーちゃんは、ばりばりと漆黒の竜巻を海苔みたいに破りながら姿を見せた。
それは、今日一番のサプライズプレゼントだった。
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