第三色  血と毒を招くビスケット

1. まったくなんて誕生日

 その日はいつもより早く目が覚めた。なんとなく、自然に起きてしまっただけだ。

 枕元のデジタル時計が鳴る前にアラームを解除して、文字盤を見る。日付のところには五月の二十三日と書いてあった。

 そう。俺は今日、晴れて十六歳になったのだ。

 畳と布団の匂いを鼻いっぱいに吸い込み、吐き出してから体を起こす。

 おめでとうございます。どうです、十六歳になった感想は?

 十五歳までとなんにも変わらないですなあ。

 そういうものですか。

 そうとも、もう誕生日を迎えたくらいで浮き立つような歳ではない。十六歳になったからといって、世界が劇的に変わるわけでもないし、学校が休みになることもない。大事な日だからといって、特別な日とは限らないんだな、これが。

 よって俺は今日も普通の日と同じく制服に着替え、階段を下りる。とんとんとん。心なしかいつもよりリズミカルな足音になってしまったが、断じてはしゃいでなどいない。

 洗面所で顔を洗い、十六歳になった自分を鏡に見たあと、台所に向かう。

 まだ学校が始まるまで、充分に余裕はあるな。


 誕生日の最初にやることは、自分の誕生祝いのお菓子を作ることだった。

 明次めいじと約束しちゃったからなー。明次が作ったていで花魚さん家にお菓子を持って行くと。

 確かに借りは返さなきゃいけないが、明次に花を持たせるのは鼻持ちならないな。ここ笑うとこですよ。鼻で。

 さて、と気持ちを切り替えてお菓子作りに取りかかろう。

 本日のメニューはずばりチーズケーキです。しかもただのチーズケーキではなくレアチーズケーキ。

 花魚はなさかさんはチーズ系のお菓子が好きなので、ここぞというときはチーズケーキにしようと決めていたんだ。

 まあ、それも明次の手柄になるわけですが。


 ケーキの型にぬるぬるとバターを塗りたくり、クッキングシートを敷く。バターが型を滑る感触が気持ちいい。フィギュアスケートが氷上を踊っているようだ。

 トリプルアクセルでも決めてやりたいところだが、残念ながら選手がバターじゃなんの加点もされない。

 舞台は変わって今度は耐熱容器に水を入れ、ゼラチンを振り入れる。

 スケートの次はシンクロナイズドスイミングだ。ただしゼラチンはやる気がない補欠選手なので、ただふやけることしか許されない。

 喝を入れるためにレンジで温めてやろう。お前に足りないのは情熱だ。

 次はケーキの土台、つまりボトムを作る。

 フードプロセッサーにグラハムクラッカーを入れ……グラハムクラッカーを……切らしていたな、そういえば。うっかりしていた。買いに行こうにも早朝から空いているスーパーはないし、近くのコンビニにも置いてなかったはずだ。

 俺はちらりと戸棚を見る。戸棚の奥では、肩身が狭そうにひっそりとビスケットの箱が隠れていた。

 花魚さんの苦手なものだと知ってから、使わないように押しやっていたものだ。こいつなら、グラハムクラッカーの代わりが務まるな。

 ……まあ、非常事態だし、細かく砕いて使うし、これくらいならいいだろう。きっと花魚さんも笑って許してくれるか、あるいは気づかないかもしれない。

 それにどうせ、これは明次が作ったことになるのだから、いざとなったら明次のせいにもできる。

 恋敵への、俺からのささやかな仕返しだ。

 俺は封印していたビスケットを解き放ち、フードプロセッサーに入れて粉々に撹拌した。

 小さくなってしまえ、花魚さんに見つからないほどに。フードプロセッサーの蓋を押さえる手に力が入る。

 十分に細かくなったところでバターも入れる。バター選手、再びの入場です。バターとビスケットが激しいダンスを交わし、クランブル状態になるまで混ざったらボトムは完成だ。

 ボトムをケーキの型の底に入れて、上からコップで押す。ふちの辺りは崩れやすいので丹念に押し込むことが大事だ。

 ここまで手を加えればもうビスケットの面影はない。よしよし。それじゃあいったん冷蔵庫で冷ますとしますか。

 いよいよチーズケーキの肝心のチーズの部分に突入だ。

 空になったフードプロセッサーに今度はクリームチーズとヨーグルト、砂糖、レモン果汁を入れる。

 クリームチーズは手でちぎって入れるのがポイントだ。滑らかな液状になるまで混ぜてから、さっき溶かしたゼラチンも仲間に加える。ついに補欠からメインレギュラーへの昇格だ、おめでとう。

 ここからは本格的に混ぜなくてもいいので、フードプロセッサーのスイッチを軽く押す。五回ほどそれを繰り返したら、メインのチーズの部分も出来上がった。

 ケーキ型にボトムの上から混ざったチーズたちを流し込み、表面をヘラで平らになるように整えてやればあとはもうお前に教えることはない。立派なチーズケーキとなって世界へ羽ばたくといい。

 この作り方のいいところは、オーブンで焼かずに冷やすだけでできることだ。

 冷蔵庫にチーズケーキを入れてから、我が子を見送るような神妙な心持ちで扉を閉める。あとは固まるのを待つだけだ。学校が終わって帰って来る頃にはすっかり固まっているだろう。

 一仕事終えた達成感に満たされながら台所を出ると、じーちゃんとばったり出くわした。


三歩さんぽ


 じーちゃんの顔はいつになく厳しく固まっていた。そっちは固まらなくていいのに。眼鏡越しに鋭く尖った視線がまっすぐ俺の胸を貫く。

 なんだ、俺、なんかしたっけ。思い当たるものと言えば十六歳になったことぐらいだが、どう考えても怒られる理由にはならない。いったい何を言われるんだ?

 その答えは、思いもよらぬものだった。


「今日は花魚の家に行くな」


 孫の誕生日の最初に、じーちゃんはそんなことを言ってきた。

 別に祝われたいと期待していたわけでもないのに、なぜだか妙に頭が痛くなった。

 おめでとう。そのたった五文字も出てこないのかと、ひどく失望した。今まではぶっきらぼうだけども簡潔に祝ってくれていたのに、今年は開口一番、花魚さんの家に行くなだって?

 花魚さんは毎年、俺の誕生日に家に招いてパーティを開いてくれる。中身はいつものティータイムと変わらないけど、その気持ちが嬉しかった。

 それなのに、そんなささやかな楽しみもじーちゃんは許してくれないってのか?


 そうだ、そもそも俺とじーちゃんは、普通の家族でもなんでもなかった。血どころか生まれた世界すら繋がっているかどうかも怪しい、不安定なジェンガみたいな関係だ。あっけなく崩れても何も不思議じゃない。

 俺たちは本当の家族ではないから、本心を言い合うこともできずにすれ違うしかないのだろう。

 お互いに目隠ししてぐるぐる回転してから、同じスイカを割ろうとしているようなものだ。どちらもよろけて歩調は合わず、振り下ろした棒も空振ってばかり。ときには相手を叩いて傷つけてしまうこともあるだろう。今回のように。

 俺の心からは今、スイカの果汁よりも真っ赤な血が流れている。頭の中で不満と不安がぐるぐると渦巻き、ねじれて絡まった。


「俺の誕生日を祝ってくれるのは、花魚さんだけなんだよ!」


 生まれたときから両親がいない。

 肝心のじーちゃんは何も話してくれない。

 そしてじーちゃんは俺の本当のじーちゃんではないかもしれない。

 そもそも俺自身の出自すらわからない。

 ずっと胸の内に抱えていた疑問と心細さが今、爆発した。


「どうせ俺のことなんか、新聞よりも興味ないんだろ? お茶請けにも……孫にもなれなくてごめんね!」


 通学バッグをひったくり、捨て台詞を吐いて俺は家を出た。玄関の引き戸を閉める音がいつもより大きくなる。靴も踵を踏んだ状態で、もう滅茶苦茶だ。

 でも何より俺の心をかき乱すのは、じーちゃんに言ってはいけないことを言ってしまったという罪悪感と、それでいて仄暗くすっきりしてしまっている自分への吐き気を催す苛立ちだった。

 えいくそ、最悪な誕生日になりそうだ。

 家を出るまでの間、じーちゃんは何も言葉をかけず、家を出ても俺を追いかけてはこなかった。

 そういうところが、今はいやなんだよ。


 十六回目の誕生日、俺は朝飯を食いそびれた。おまけに早く出すぎたせいで、朝に家の前で花魚さんと会うこともなかった。

 一日の出だしはこけて絶不調。果たしてこの調子で一日が終わるのかと思うと気が重い。

 朝の運勢占いはチェックしてないけど、きっと双子座は最下位だろう。

 ごめんなさ~い、今日誕生日のあなたは家族とぎすぎすした関係になることでしょう。ラッキーアイテムはレアチーズケーキ! うるせえ。

 

「よう、三歩。誕生日おめでとさん」


 教室に入ると、先に席に着いていた明次が手を上げた。俺はなるべく家での出来事を引きずらないよう、普段の感じで苦笑する。


「ああ、ありがとさん」


 自分の席に着き、通学バッグを机の横に吊り下げたところで明次が身を乗り出してきた。近い。


「それで、今日、花魚さん家でパーティやるんだろ? 俺が作るお菓子の準備はばっちりか?」


「あとは冷ますだけだから、冷蔵庫に入れてる。放課後にはとっくに完成してるよ」


「でかした! で、何作ったんだよ?」


「レアチーズケーキ」


「でかした!」


 俺が作ったと知ったときの花魚さんの反応が楽しみだぜ、と明次はにやつく。学校でその顔するなよ。女子が引くぞ。

 意外にも明次はもてる。身長は俺と同じ百七十センチ台だが、無駄に背筋が伸びているので高く見えるし、運動神経も俺よりよくて体育の授業では活躍する。同じ帰宅部のくせに、やたらスポーツ万能なのだ。

 なぜ帰宅部なのかというと、ご存じ花魚さんのティータイムに参加するためらしい。

 明次曰く「どんな部活よりも面白い」とのこと。そりゃそうだ。

 女子から告白されたこともあるそうだが、花魚さんへの想いを貫くために断ってきたそうだ。

 こいつの花魚さんへの恋心は、悔しいが俺とおんなじくらい本気だ。

 この恋敵は、厄介なことに憎めないから困る。


「おはおめー」


 教室のドアを開け、眠たげに目をこすりながらふうが入ってくる。おはようとおめでとうを混ぜるな、めんどくさがりめ。

 髪の毛は相変わらずぼさぼさで、寝ぐせにも見えるがこれが風のいつもの仕様なのでしかたない。ただし眼鏡が若干ずれているのはさすがにエラーだ。報告しなきゃ。

 眼鏡の位置を直して俺の後ろに座った風は、大きなあくびをした。


「寝不足か?」


「朝練なんか滅べばいい」


 俺の質問に風は物騒な台詞で返した。好き好んで部活に在籍してるのはお前じゃないか。まあ、家庭料理研究部の朝練が走り込みってのは俺もどうかと思うけども。


「健全な料理は健全な肉体で作るべし、がうちの部の理念だからね」


 文化部なのに思想は体育会系のそれだ。


「あ、今日は部活で遅くなるから、先に始めといて、パーティ。今年も花魚さん家でやるんでしょ?」


 風もパーティに出席するつもりらしい。今までは俺の叔母だから、と半ば強引に参加してきたのだが、本当の親戚でなくなっても、俺を祝ってくれるようだ。

 物好きだなあ。でも、やっぱり嬉しいものは嬉しいので、その気持ちを悟られないようについ、俺は憎まれ口を叩く。


「今年のプレゼントは炭化したクッキーかな?」


「そうなってたまるか! ていうかあんたが色々アドバイスしてくれたんじゃん!」


「焼けクッキーに水にならないといいけど」


「なんだ! 私のクッキーは石だと言いたいのか!」


「そこの夫婦、ホームルーム始まるぞ」


 水を差す明次に、夫婦じゃない、と言いかけて、また風と発言がかぶらないようにぐっと言葉を飲み込んだ。

「夫婦じゃないから!」と風は叫ぶ。

 そら見たことか。危ねえ。

 明次にからかわれる材料を潰して安心した俺は、大人しくホームルームを受ける姿勢をとった。

 いつものやり取りを交わしたせいで、朝のじーちゃんとの一件を少しだけ忘れることができた。

 とりあえずは学校生活に集中しよう。学校は勉強するところでもあるが、家庭のいやなことを家に忘れてくるための場所でもあるのだから。宿題と同じで、家の問題は家で取り組むべきなのだ。

 今日のラッキーアイテムは悪友と叔母だった。


 終業のチャイムが鳴り渡るのを聞きながら、俺はぼーっと机に突っ伏していた。終わってほしくないときに限って、時間の流れはいつもより早くなる。相対性理論の正体はきっと神の意地悪だ。

 午後五時だけど、俺たちの一日はこれから始まる。本番はここからだ。

 花魚さん家にお呼ばれして、楽しいひとときを過ごす。ただその前に、どうしてもレアチーズケーキを取りに帰らなくちゃいけない。家に帰れば当然じーちゃんもいるわけで、顔を合わせるのは避けられないだろう。

 はあ。特大のため息を吐く。朝にあんなことがあって、どんな顔してじーちゃんと話せばいいんだ。


「ねえ、三歩」


 横からの声に首を向けると、風が立っていた。

 ばかみたいに明るい茶髪が、夕陽に照らされてさらに明るい。しかし表情に能天気さはなく、眼鏡の奥の目は真剣そのものだった。


「やっぱり心配だから、ちょっとだけ、部活つき合ってくんない?」


 断るのも面倒だったので、俺はつい首を縦に振っていた。


「明次」


「ああ、行ってやれよ。少しだけなら待っててやるから」


 明次に視線をやると、しかたねえなあといった笑顔が返ってきた。

 俺は風とともに教室を後にして、初めて部活というものに顔を出すことにした。

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