4. 正しい炎とのつき合い方

「じゃあな、ピスヘント」


 花魚はなさか邸に集まった俺たち一同は、花魚さんが開けた魔戸まどに入ろうとするピスヘントを見送る。


「大丈夫。もうバルバトスはあなたに悪さをできないよ」


 花魚さんは唇に人差し指を立てた。ピスヘントは俺たちの顔を順繰りに見やり、最後にもう一度俺の顔を見る。

 紅茶の薫る中、小竜は俺たちの頭上をぐるりと一周して飛び、それから俺の頬をちろりと一舐めしてから魔戸の中へ溶け込んでいった。いたずらっぽい仕草だった。たちまち魔戸は閉じ、跡形もなく消え去る。


「ずいぶん懐かれたもんだね」


 花魚さんがティーセットを片付けながら言う。


三歩さんぽくんには不思議な魅力があるのかもよ」


 その目はとても穏やかだった。少なくとも、傷はもう痛んでいないみたいだ。よかった。


「三歩、エビフライの借り、忘れんなよ」


「へいへい」


 明次めいじに覇気のない返事をする。さて、何を作ってやろうかね。花魚さんに気に入られるようなお菓子となると、チーズケーキかな。


ふう、お金、ほんとにごめんな」


「いいって」


 風は笑って手を振る。花魚さん家に来る前にいったんうちに寄って、じーちゃんにお金を借りてどうにか風の部活のお金は全額返すことができたのだ。けれども、それで「はい、ちゃらになりました」というわけにもいくまい。あと何か埋め合わせはできるだろうか。考えを巡らせ、俺は「あ」と漏らす。


「クッキー、今度作るんだろ?」


「え、あ、うん。なんだ、急に」


 突然、話題を変えられて風はぎこちなく頷く。


「小麦粉を入れたあと、ゴムベラで数字の一を書くように縦に何度も切り混ぜること。ついでに小麦粉の他にアーモンドパウダーも入れてやると生地がさくさくになるよ。それと、焼く前に生地を冷凍庫で冷やしてやったら形がよくなるな」


「ちょっ、ちょっと待って待って。メモるからさ」


 風は慌てて通学バッグからノートとペンを取り出す。この際だ。俺の知っている限りのクッキー作りのコツを叩き込んでやろう。


「詳しいんだね」


 花魚さんが感心したように頬に手を当てる。

 あなたの気を引きたくて勉強しました、なんて恥ずかしくて言えるもんか。

 ひとしきりメモを終えた風は、額の汗を拭った。


「いやー、大変だったー」


 まだ作ってもないだろが。

 ともかく、これで風への借りは返したということにしてもらおう。


「いつ作るんだ?」


「五月二十三日」


 明次の質問に風は答える。そういやその日は――


「三歩くんの誕生日だね」


 嬉しいことに、花魚さんはちゃんと覚えてくれていた。


「じゃあその日の夜、うちでパーティしましょう?」


「喜んで!」


 柔らかく微笑み、誘ってくれる。もちろんありがたいが、なんで明次が即答するんだ。一応俺が主役なんだけど。


「その日は、俺が三歩のためにお茶菓子を作ってきてやりますよ! な!」


 得意げに俺を見る明次の目が、全てを俺に丸投げしていた。こいつ、俺に作らせる気だな?

 確かに借りは返すと約束したが、よりによって誕生日の本人に作らせるかね。


「明次くんもお菓子作れるの? へぇー、すごいねえ」


 いやいや、と得意げに鼻の頭を擦る明次。人の褌で相撲を取るのはいいが、ばれたら反則負けだからな? 人の誕生日すらアプローチに使うとは、図太いやつめ。


「じゃあ、俺たちはこの辺で。お邪魔しました」


「あらそう? うん、またねー」


 花魚さんに一礼し、花魚家を後にする。家の前で俺たちがばらばらになったとき、花魚さんが俺だけにこっそり手を振った。


「誕生日、楽しみにしててね? 盛大にお祝いするから」


「いいですって、気を遣わなくて。でも、楽しみにしてます」


「えぇ、私も、本当の本当に、楽しみ……」


 なぜだか花魚さんが舌なめずりをしたような気がしたが、見間違いだろうと思って俺は振り返らずに隣の我が家に帰った。

 花魚さんがそんなはしたないこと、するはずがないじゃないか。





「ただいま」


 家に帰ると、じーちゃんは居間で緑茶を飲んでいた。いつもの定位置のちゃぶ台で、新聞と睨めっこをしている。睨めっこは常にじーちゃんの勝ちで、じーちゃんが新聞相手に笑ったことは一回もない。


「おかえり」


 こっちも見ずに挨拶が返されるが、慣れたことだ。

 だから俺も、それ以上言葉は交わさずにまっすぐ台所へ向かった。

 さて、いっちょやりますか。

 冷蔵庫を開けて中身を確認し、自分の分の夕食をぱぱっと作る。そのついでに、あるものも焼き上げながら。じゅうじゅうというフライパンの歌声が台所を賑やかした。

 料理の炎はいい。火の本来の役目を全うしている感じがする。きっと、これが正しい炎の使い方なのだろう。大事なものや命を焼き尽くすのではなく、食材をより美味しくするためのスパイスとなる。火とはこうあるべきなのだ。

 作り終えた料理をちゃぶ台の上に並べる。今日はロールキャベツの気分だった。俺の夕食のメニューを見たじーちゃんは眉をひそめる。


「何かを焼く音が聞こえた気がしたが、とうとう俺の耳もボケちまったのか?」


 俺は台所に引き返し、返事の代わりにじーちゃんの前にも皿を置いた。春の新芽を思わせる、鮮やかな黄緑色をまとった食パンが載っていた。フレンチトーストに抹茶パウダーをまぶしたものだ。


「こいつあ……」


「夕飯、途中だったんだろ?」


 目をわずかに見開くじーちゃんの前にフォークも置く。

 俺たちが呼び出してしまったせいで、じーちゃんは旅館を満喫できなかった。それどころか俺たちを助けてくれた。

 これはそのほんのお詫びと、お礼の気持ちと、そして久々の祖父孝行だ。

 じーちゃんは新聞を丁寧に折り畳み、フレンチトーストを拝むように手を合わせた。俺もそれに倣い、手を合わせる。「いただきます」言葉も合わせた。

 俺はロールキャベツを、じーちゃんは抹茶風味のフレンチトーストを頬張る。ゆっくり噛んで飲み込んだじーちゃんはくくっと笑みを漏らした。


「どしたの?」


「いや、なに」


 眼鏡の奥で、じーちゃんの目が弧を描く。滅多にお目にかかれない表情だ。


「老人会をすっぽかしてきた甲斐があったな、と思ってな」


 それは、今の俺にとっては何よりも嬉しい台詞だった。

 じんわりと体の中に広がる温かさが消えないうちに、俺は二口目のロールキャベツを口に運んで胃にくべる。暖炉のような、優しくて心休まる温もりだった。

 ああ、これはこれでいい炎だな。人を温めるのもまた、火の本懐だ。

 幸せとは炎に似ている。

 努力の薪をくべ続けることでようやく保つことができ、その温度で周りにも温もりを与える。

 だけど、行き過ぎた幸せや不自然な幸せは、火事となって燃え広がり、誰かを傷つけることもあるんだ。もちろん、他人が大事に育てた種火をかっさらって自分のものにするなんて、もってのほかだ。

 幸せも炎も、扱いが難しい。でも、上手くつき合えて友になれたら、それは素敵なことだろう。俺はあの小さな竜に火を灯せただろうか。

 自分の世界で尻尾の炎を揺らめかせ、飛び回っている小さな友だちに思いを馳せながら、俺はロールキャベツを口にした。対面で口の周りに抹茶パウダーを付けるじーちゃんの顔がいい塩梅のスパイスとなって、いつもより美味しく感じられた。ごちそうさまでした。

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