3. 運のツキの魔球
「なんだあ、こいつあ。俺のそば御膳はどこ行った? というかここ旅館じゃねえな?」
おそらく老人会での夕食時だったのだろう、茶碗と箸を持ったまま、じーちゃんは呆然と突っ立っている。
じーちゃんはぐるりと俺たちを一瞥し、視線を
「花魚。お前――」
傷だらけの花魚さんを見て目を細めるじーちゃんに、バルバトスは躊躇なく銃弾を放った。銃の鳴き声が木霊する。
「ははは! 頼りない助っ人だな!」
そのバルバトスの耳障りな笑い声は長くは続かなかった。
なぜなら、発射された弾丸を、じーちゃんが豆粒みたいに箸でつまんで速度を殺していたのだから。
頼りない? バルバトス、お前はなんもわかっちゃいない。
うちのじーちゃんは、この上なく頼もしいぞ。
「ったくよお。俺は飯を食ったら温泉に入るのを楽しみにしてたんだぜ。それがどうだ、日帰り旅行になっちまった」
眼鏡の奥でじーちゃんがバルバトスを射殺すように見る。
「お前さんに八つ当たりさせてもらうぞ」
ついてねえ、と吐き捨ててじーちゃんは腰を上げて地を蹴る。
一瞬でバルバトスの懐に入り込み、茶碗を上に放り投げてから空いた手でバルバトスの顎に下から掌底を打ち込む。衝撃に大気が震え、テーブルクロスがはためき、ラベンダー園がざわめく。
大量の空気を吐き出して後ろに仰け反り、倒れるバルバトスを尻目に、じーちゃんは重力にひれ伏して落ちてきた茶碗をキャッチした。
じーちゃん、かなり怒ってらっしゃる。
「ま、さ、か、茶の駅の住人ごときに自分が……!」
「お互いついてねえなあ、おい!」
言いつつ、じーちゃんは箸でバルバトスの腕をつかみ、大きくひねった。バルバトスの体が高速で縦に回転する。その回転の中心に、じーちゃんは蹴りを叩き込んだ。錐揉みしながら、バルバトスがラベンダーの茂みに突き刺さる。
確かに、じーちゃんが来てしまったのがバルバトスの運の尽きだ。見ていて気の毒にすら思えるほどに。
……ん? 運?
俺は風の腕の中のピスヘントを見る。
「まさか、お前なのか?」
俺の問いかけに、ピスヘントは不思議そうに湿った瞳を向けてくるだけだった。
老人会で楽しむはずだったじーちゃんの運を吸収し、ここへ呼び出すことで俺たちに幸運をもたらしたということか? バルバトスの運も使ったのかもしれない。
なんだよ。最高の能力じゃないか。見直したぜ。
お前のおかげで、俺たちは助かったんだ。
「た、助かったのか……?」
へなへなと崩れ落ち、テーブルの足によりかかる明次の背中を拳で叩く。
「お疲れ。かっこよかったぜ」
「だろ?」
明次は力なく親指を立てて憎まれ口を聞いた。ほんと、すごいやつだよお前は。
「もー、あんまり無茶しないでよ」
ピスヘントに頬を舐められながら風が目くじらを立てる。いやめっちゃ懐かれてるじゃん。一晩を共にした俺だって舐められたことないのに。
明次は力なく笑う。
「無茶じゃねえよ。だって茶ならそこにあるだろ?」
「なんだそれ! 意味わからん!」
明次、その台詞は俺もちょっとどうかと思うぞ。上手いこと言おうとして言えてない感が満載だ。
すっかり安心しきって雑談に興じてしまったが、花魚さんは無事だろうか。俺は彼女の元へ駆け寄った。
「花魚さん、大丈夫ですか?」
「やあ、三歩くん」
ずたぼろになりながら微笑む花魚さんは、それでも美しかった。
「きみの淹れてくれたお茶のおかげで、助かったよ」
細い飴細工のような髪はぱらつき、顔に張り付いている。
「すいません、遅くなって。それに、俺たちを守ってくれて、ありがとうございます」
「ふふ、お安い御用だよ……なんて、かっこつけられないか。でも、
「いいえ」
俺はまっすぐ花魚さんの目を見た。紅茶のように深い赤色をした、吸い込まれそうな瞳だった。
「俺は、花魚さんに守られたいです」
花魚さんはきょとんとしている。そうだろう。これだけじゃただの情けない男だ。だから俺は続けてこう言う。
「そして、花魚さんを守り返したいんです」
花魚さんはゆっくりと瞬きをして、じっくりと俺の顔を眺め、それから長く息を吐き出した。
「ふふ、今まさにそうなってるね」
「いずれはじーちゃんの力を借りなくても花魚さんを守りますよ。だって俺は、あのじーちゃんの孫ですから」
「男の子だね。楽しみだ」
花魚さんはそうっと俺の頭を撫でた。髪がくすぐったくかき分けられる。俺は恥ずかしくなってそっぽを向くと、視線の先にはじーちゃんがいた。
花魚さんと二人で、じーちゃんの戦いを見つめる。じーちゃんの強さを心に刻み込む。いつか、俺の手が届くように。
薄紫色の絨毯を踏みしめ、駆けまわりながらバルバトスが銃弾の雨を降らせる。四方八方から迫りくる弾丸に対して、じーちゃんは箸をひうんと振り回して空気を切り裂く。振り終わった箸には、何発もの銃弾が挟まれていた。
じーちゃんは箸を開き、弾をラベンダーの上にぱらぱらと振りかける。ふん、と鼻を鳴らしながら。
「この、常識知らずめ!」
悪態をつきつつバルバトスはラベンダーの茂みに飛び込む。直後、じーちゃんの背後からホルンの音がした。さっき花魚さんを苦しめた奇襲だ。
危ない! と俺がじーちゃんを心配する前に、じーちゃんは。
「やかましい」
背後に目もくれずに、後ろ回し蹴りでホルンを打ち砕いた。粉々になったホルンの破片が黄金色の夕陽を反射し、きらきらと舞い落ちる。
「なんなんだ貴様は!?」
じーちゃんの斜め前の茂みの中からバルバトスの声がした。予想外の事態につい声を上げてしまったようだ。もちろんそれを聞き逃すじーちゃんではない。
「よう」
一足飛びでバルバトスに肉薄し、茂みに箸を突っ込む。箸を引き上げるとバルバトスの腕が釣れた。
「貴様、でたらめが過ぎるぞ!」
苦し紛れにバルバトスの猟銃が弾を吐き出すよりも早く、じーちゃんは茶碗を持った手で相手の顔面を殴った。もういいから、茶碗と箸はどっかに置いときなよ。
「さっきからお前さん、近所迷惑だぜ」
じーちゃんは箸でバルバトスの腕を捕まえたまま、茶碗で何度も顔面を殴る。それでも中の白米は一粒もこぼれ落ちていなかった。
バルバトスの膝ががくりと崩れたところで、ようやくじーちゃんは相手の腕から箸を放す。そして、傍らに佇んでいたうちの台所用品が並んでいるテーブルの上に、茶碗と箸を置いた。
「どうだ、大人しく元の世界に帰りたくなったろう」
じーちゃんはしゃがみ、うずくまるバルバトスの後頭部に問いかけた。
「ふざけ――」
猟銃を構えようとするバルバトスの手を、踏みつける。苦悶の声が夕暮れのハーブ園に響いた。
「帰りたいよな?」
目を細め、にたりと笑うじーちゃん。眼鏡がぎらりと輝く。バルバトスに負けず劣らずの悪人面だ。
しばらくの沈黙が続き、硝煙の匂いと紅茶の香りとラベンダーの香気が混じって辺りを満たす。バルバトスはゆっくり顔を上げた。
「……ああ、十二時の鐘も鳴った。確かに引き上げた方がよさそうだ」
その言葉の通り、バルバトスの瞳にもう闘志はなかった。片手は降参を示すかのように挙げられ、もう片方の手は猟銃ごとじーちゃんがしっかりと踏みつけている。
「敗北を認めよう、ジェントルマン」
バルバトスは目を閉じ、口元にうっすら笑みを浮かべる。それから、かっと目を見開いた。
「自分の腹の虫はそうは言っておらぬがな!」
そう言って、自由な方の手で懐から拳銃を取り出す。銃口は俺を見つめていた。
「え」
銃声。目の前に、血の花が咲いた。
ただしその色は俺の赤ではなく、青色をしていた。
とっさに俺の前に躍り出たピスヘントが、代わりに銃弾を食らったんだ。
空中で広がった翼が徐々に折りたたまれ、ピスヘントが墜落していく。俺はそれを受け止めた。
「お前っ、なんで!」
腕の中のピスヘントはひんやり冷たかった。血とともに体温が外に流れ出してしまっているみたいだ。
なんで俺をかばったんだよ。俺はお前を突き放したんだぞ?
確かにそのあと守ってやるなんて思ったけど、それは一度突き放したことに引け目を感じていたからだ。ただの罪滅ぼしだったんだよ。お前が命を懸けるほど立派な覚悟なんてなかったんだ。
だから、こんなたいそうな恩返しなんて、しなくてよかったのに。
もうこれ以上血を逃がすまいと、ピスヘントを抱きしめる。
「ごめん、私がちゃんと、捕まえておかなかったから」
風の声は涙で滲んでいた。謝るなよ。お前が謝ったら、俺は誰に謝ればいいんだ。立場がなくなるじゃないか。
「ばかな、自分の商品が、自身を傷物にするなど……!」
「ばかはてめえだ」
歯噛みするバルバトスの手を、じーちゃんが拳銃ごと握りつぶす。ばりぼりと骨と拳銃が砕ける音と、バルバトスの悲鳴が轟いた。
「花魚。茶葉、借りるぞ」
じーちゃんはテーブルの上のキャニスターに手を突っ込み、茶葉を一つかみした。俺の隣で花魚さんが上体を起こす。
「で、でも、まだお湯が沸いていませんよ?」
「構わん」
花魚さんとピスヘントを一瞥し、じーちゃんは顔をしかめる。
「俺の腹ん中は、とっくに煮えくり返っとる」
そして、つかんだ茶葉を口の中に放り込み、飲み込んだ。
「はああああああ」
じーちゃんは特大の息を吐く。口から湯気が溢れ、地面に積もっていく。湯気は地面の上で円を描き、陣となった。
地面の魔戸の中からそいつは頭から順に浮き上がってきた。全身が見えるようになると、その姿の異様さがはっきりしてくる。
五メートルを超す、全身緑色のダンゴ虫だった。二本の足で地に立っていて、人間に似た腕もある。ダンゴ虫を無理やり人型にしたような感じだ。
「緑の魔球、デミドリアス……」
花魚さんがぽつりとつぶやく。その声には畏怖の色が含まれていた。
ぎーる、とダンゴ虫が鳴く。果たしてそれは本当に鳴き声なのか判別がつかないけど、ダンゴ虫の発した音なのは間違いなかった。
「デミドリアスだとぉ!?」
驚いているのはバルバトスも同様だった。だらんと折れた片手をもう片方の手で握り、肩で荒く息をしている。その目は血走っていた。
「なぜ、なぜよりによって緑の駅の
恥も外聞もなく、這う這うの体で逃げ出すバルバトスを見逃すほど、今のじーちゃんは穏やかではない。
ごん、とじーちゃんはデミドリアスの頭を裏拳で叩く。それを合図に、デミドリアスはダンゴ虫の習性そのままに丸くなり、直径二メートルほどの緑色の真球となって地面の上で弾んだ。
「ピッチャー振りかぶって、」
腰をひねり、跳んで勢いをつけるじーちゃんは高らかに叫ぶ。
「蹴りましたとさあ!」
そして空中で腰を回し、球体になったデミドリアスを右足で思いっきり蹴り込んだ。
そんなピッチャーいねえよ!
巨大な緑の玉はバルバトス目がけて跳んでいき、獲物を吹き飛ばす。鉄球よりも重いものがぶつかる音が響いた。
「があああああ!」
ラベンダー園を抜け出し、黄金色の空にバルバトスのシルエットがくっきりと刻まれる。空気中でバルバトスは見えない壁にぶち当たったように磔にされ、空気とデミドリアスとの間に挟まれた。
バルバトスを中心に、夕焼け空にひびが入る。真っ黒な亀裂が空を覆い、ばきばきと崩壊の音を奏でる。ついに空が割れ、バルバトスはその向こうに広がる暗闇の空間の中へ、デミドリアスとともに消えていく。
「自分がいったい何をしたら、こうなるのだ!?」
それがバルバトスの残した最後の言葉だった。ひびは逆再生のように元に戻っていき、再び空は黄金色に包まれた。
バルバトスの消えた明後日の方向に背を向け、くしゃくしゃと髪を掻きむしったじーちゃんは、ふうと息を吐く。
「俺の孫と友だちを、いじめたんだろうが」
そうして、とんとんと腰を叩くのだった。さっき思いっきりひねったから、痛めてやしないかな。どんなに強くても歳は歳だから心配だ。
俺の視線に気づいたじーちゃんは顔をしかめる。
「俺なんぞより、今はそいつと花魚の心配だけしてろ」
そうだ、ピスヘントも花魚さんも、撃たれているんだ。花魚さんたちに駆け寄ると、彼女は弱弱しく笑った。
「大丈夫、私は、最後に笑うから」
「怪我人は大人しく甘えてくださいよ」
強がる花魚さんの肩に、俺は思わず手で軽めのつっこみを入れてしまった。直後、生意気な真似をしてしまったと本気で後悔する。ああほら、花魚さんも目を見開いてるじゃないか。
すると、花魚さんはいきなりすっくと立ち上がった。どこにそんな力が?
「ありがとう、三歩くん。元気が出たよ。その子の傷も塞いじゃいましょうかね」
てきぱきと魔茶の茶葉をピスヘントの傷口に塗り込んでいく花魚さん。無理をしているわけでもなく、本当に回復したかのようだ。我が家のお隣さんは、いちいち人間離れしておられる。
ちっ、とじーちゃんの舌打ちが聞こえた。しょーがねえか、ともぼやいている。何がそんなに機嫌を悪くさせているのか、見当もつかない。
魔茶の茶葉を塗られ、俺の腕の中でぐったりとしていたピスヘントの瞳に、少しずつ生気の輝きが宿ってきた。
「おおー、やっぱ花魚さんの紅茶は魔法だな」と感心したように明次。
「よかったあ、助かって」と安堵しているのは風だ。
「俺ぁ先に帰っとくぞ。遅くならないうちにお前らも帰れ」
じーちゃんはこんなときでもマイペースだった。箸と茶碗を持って帰っていく。
ゆっくりと首を起こし、俺と目が合ったピスヘントは申し訳なさげに目を伏せた。
「こら、そんな殊勝なことすんな。竜ってのはもっと強えーんだぞ」
俺は笑ってピスヘントを元気づける。
「それに、お前がかけたのは迷惑のうちにも入らねえよ。迷惑ってのは、こういうのを言うのさ」
俺は制服のシャツをまくり上げる。そこでピスヘントは見たはずだ。俺の腹に大きく残った、茶色く濁った火傷の跡を。
「昔な、お前みたいなドラゴンをじーちゃんたちに隠れてこっそり飼おうとしたら、服の中で火を吐かれたんだよ」
あのときはしこたまじーちゃんに叱られたっけ。火傷よりも、その後に食らったじーちゃんの拳骨の方が、人生で一番痛かったなあ。
「だから、お前はかわいい方なんだ。その調子で立派な竜になって、そして――」
まくり上げたシャツを下ろし、ピスヘントの頭をこつんと小突く。
「いつか俺を、その背中に乗せて飛んでくれよ」
笑いかけた俺に、ピスヘントは大きく口を開けて鳴いた。笛のように高く、よく通る元気のいい鳴き声だった。
次の瞬間、脱皮をするみたいにピスヘントの傷口から茶葉が剥がれ落ち、新しい鱗が生え変わっていた。さすがドラゴン。ゲームや漫画でも強いはずだ。
すっかり元気になったピスヘントは俺の腕の中から飛び立ち、尻尾に炎を灯してラベンダー園を飛び回る。
薄紫の上に赤い炎が尾を引き、黄金色の空を舞う。それは、とてもこの世のものとは思えないほどの夢幻的な光景だった。隣にいる風が俺の頬をつねる。痛い。
「ふぁにすんだ」
「いや、夢見てるみたいでさ、つい」
自分のをつねれ。
「だったら私も―」
花魚さんが反対の頬をつねってくる。ああもう。だから痛いに決まってるだろ。
「三歩、学級文庫って言ってみ?」
両頬を引っ張られた俺を見てにやにやと笑う明次は当然のごとく無視をした。口が裂けても言うかそんなもん。とくに今はなおさらだ。
どんな絵画よりも色鮮やかな景色を前にしても、俺たちは相変わらずおかしなことで笑い合っている。この関係がずっと続けばいいのにと、柄にもなく祈ってしまった。
さあ、帰ろうか。自分の家へ。自分の駅へ。
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