2. 招かれざる客と、招きたかった人

 ドラマなんかで海にバカヤローと叫ぶのもそうだが、人はなぜ落ち着きたいときに水辺を訪れるのだろう。

 あるいは、体の七割を占める水に囲まれ、溶け込み、心の傷を薄めようとしているのかもしれない。心の穴を水で埋めるように。

 通学路の途中にある河川敷、その橋の下で俺は一人考え込んでいた。いや、一人と一匹か。

 通学バッグから体を出し、自由になったピスヘントが寄り添うように俺の隣にいる。その姿は、まさしくお隣さんだった。

 ピスヘントに、食べかけのエビフライロールパンを差し出す。小竜はあんぐりと口を開け、勢いよくかぶりついた。


「なあ、美味いか?」


 言葉が通じるとは思えないが、話しかけずにはいられなかった。

 ピスヘントは夢中でエビフライロールパンを口の中に押し込もうとしている。口からはみ出たエビフライが尻尾を振っていた。


「美味いよな。俺も食べたから知ってる。でも、それはな、本当は明次めいじの分なんだ」


 自分に言い聞かせるように独りごちながら、ピスヘントの頭を撫でる。


「そしてそれを買うのに使ったお金は、ふうが部活のために集めた大切な費用だったんだってさ」


 ようやくエビフライを全部飲み込んだピスヘントは、こっちを見る。深い海色の瞳だった。

 その目を見るのがつらくて、これから自分が言うであろう言葉がつらくて、ぐっと喉を鳴らす。やがて、深呼吸を一つ、ついに俺はそれを口にした。


「お前が、運んできたのか? お金も、エビフライも」


 もちろん実際に持ってきたわけじゃないだろう。そこは不思議なお隣さんのことだ。魔法みたいな力が働いたに違いない。

 でも、人のものはその人のものだ。勝手に動かして、食べたり使ったりしてはいけないよ。

 ピスヘントの体の何箇所かに貼ってある緑の葉は、今にも剥がれ落ちそうだ。怪我が治りつつある証拠だろう。

 だから俺はこう言うのだ。


「ピスヘント。元の世界へ、帰ってくれないか?」


 薄情な台詞のはずなのに、自分でも驚くほど優しい声音になっていた。

 俺が学校を飛び出したのは、勝手に明次や風のものを奪ってしまった後ろめたさもあるが、それ以上に怖かったんだ。さらに他人から幸せをむしり取ってしまいかねないことが。

 視界の片隅で川の水面が陽光を反射し、せせらぎの音が耳の表面を滑る。

 俺とピスヘントは、ドラマのワンシーンのように見つめ合っていた。


 動いたのはピスヘントの方からだった。背中の翼を広げ、俺に背を向けて飛び立っていく。声をかける間すらなかった。ピスヘントの尻尾からは、涙の代わりに火の粉がこぼれて舞い散っていた。

 俺の気持ちが伝わってしまったのだろうか、最後に見た海色の瞳は、しっとりと濡れていた。去っていくピスヘントが黒く小さな点になるのを、俺は立ち尽くしてじっと眺めていた。

 先ほどのとはまた別の罪悪感が、胸をきつく締めつける。その苦しさが俺の良心を繋ぎ止めていた。


 どのくらい座っていただろうか。しばらく虚空を見つめてから、膝に手をついて立ち上がる。

 足は痺れていないから、今のやり取りはさほど長くはなかったはずだ。けれど、長時間歩いて彷徨っていたかのように体は重かった。

 さて、俺も行かなくちゃな。

 人は出会ったときより、別れ際の印象の方が強く残るものだ。お別れはしっかりしなくちゃいけない。

 あの小竜の行き先はわかっている。現れた場所、すなわち花魚さん家だ。帰りの魔戸もそこにあるしな。

 ピスヘントは、そこから元の世界へ帰るだろう。

 そう思っていた。





「ピスヘント? 見てないよ。一緒じゃなかったのかな?」


 花魚はなさか家に辿り着き、俺の説明を聞いた花魚さんはいつもの家庭菜園スペースでテーブルに肘をつき、首を傾げた。

 優雅にアフタヌーンティーとしゃれこんでいたのだろう。手に持っているティーカップからまだ湯気が立ち上っている。


「ここに、来てないんですか? あいつ」


「うん」と花魚さんは頷く。

 目論見が外れてしまった。じゃあピスヘントはいったいどこへ行ったんだ。帰り口は、ここにしか開かないというのに。

 あいつにこの世界での居場所はない。少なくとも、俺はそれを一つ潰してしまった。無責任に面倒を見ると見得を切ったせいで。

 生き物を飼うというのは、命を預かることだ。俺はそのことを身を以て知っていたはずなのに、いつの間にか喉元を通り過ぎた茶のように忘れてしまっていた。


「じゃあ、すぐに探しに行かないと……!」


「私が探しておくから、きみは学校に戻りなさい。さぼりなんて悪い子だ」


「茶化さないでくださいよ! これは俺のせいなんです!」


 食い下がる俺に根負けしたのか、花魚さんは一瞬目を閉じ、それから強い決意を眼差しに宿した。

「しょうがない。紅茶占いでピスヘントの居場所を特定しよう。三歩くんは私についてくること。決して単独で離れないように。おやつは三億円まで」


「事件じゃないですか!」


 ふふ、と舌を出す花魚さん。そのお茶目な仕草は確かに心奪われそうになるが、今はときめく余裕もなかった。

 花魚さんは茶葉たっぷりの紅茶を淹れ、それを飲み干し、カップの底に残っている茶葉を見る。茶葉は矢印となり、学校のある方向を指し示していた。


「学校の先にあるラベンダー園が怪しいね。行ってみようか」


 名探偵花魚さんは席を立ち、薄手のカーディガンを肩に羽織った。


「ついておいで」


「喜んで、マドモアゼル」


 そう返事したのは俺じゃない。というか俺はマドモアゼルとか言わない。

 誰だ、と思ったときには高い管楽器の音が鳴り響き、空中にひびが入っていた。亀裂は放射状に広がり、ばりばりと大気の破片がこぼれ落ちる。次第にひびは、歪な穴となった。

 まさか、これも魔戸まどなのか? だとしたら、誰が開けたんだ。

 穴の向こうから、羽根つき帽子をかぶった男がこちらを覗いていた。

 垂れ目だが眼光は鋭く、顎髭は槍のようにとがっている。手には猟銃を持ち、そしてそいつの周りにはラッパのような楽器――ホルンか――が、一人でに浮いて音を奏でていた。


「ピスヘントの居所を教えてくれて感謝するよマドモアゼル。あれは自分のだ」


 男は「自分のだ」の部分をとくにはっきりと発音し、穴をまたいでこちら側へ降りてきた。花魚さんが訝しげな目を向ける。


「誰かな? あなたは。魔戸を介さずに割り込んでくるなんて、マナーがなってないね」


「失礼。自分はバルバトスという者だ。此度は自分の商品がたいへん迷惑をかけた。今一度躾け直しておくため、茶の駅への侵入は大目に見てもらいたい」


 また言った。こいつは、ピスヘントを自分の所有物だと言い切っている。


「ピスヘントはここに来るとき、怪我をしていた。あれはお前の仕業か?」


 俺の尖った視線を、バルバトスは飄々と受け流した。


「いかにも。自分は道具の躾け、もとい手入れは怠らぬ主義なのでな」


「ピスヘントはお前のものなんかじゃない。あいつを傷つけたお前に、所有者の資格なんてない」


 俺にもな、と心の中でだけ付け足しておく。傷つけたのは同じだ。体か心か、ただそれだけの差に過ぎない。


「大事にしないくせに、所有者面すんな」


「はっはっはっは!」


 バルバトスは笑った。宙に浮かぶホルンが連動して鳴り響く。


「所有者だからこそ大事にしなくていいのだよ少年。借りたものは大事に扱って返せばならぬが、自分のものに遠慮はいるまい? それに、あれは商品なのだ。売れるように調整しなければならないのだよ。他人から幸運を吸い取り、所有者に分け与えるように調整するためには、きつい刺激も必要だったのさ」


 今、なんて言った?

 他人から幸運を吸い取る能力は、ピスヘントが生まれ持った能力じゃなくて。

 こいつが後から付け加えた、望まぬ力だってのか?

 ふざけんな。そんな能力を持たされて、周りにろくなやつが来るわけないだろうが。


「おっと失礼。あまり茶の駅にとどまっているわけにもいかぬのでな。さっさとピスヘントを回収して、退散させていただくよ」


 では、と言い残してバルバトスは背中から真っ黒な蝙蝠の羽を広げ、矢印の指す方向へ飛んで行った。

 置き去りにされた俺たちは、悔しげに空を見つめる。


「花魚さん」


「なにかな?」


「空とか飛べませんか?」


「無茶言わないで?」


 さすがの花魚さんにもできないことはあったことに、なぜか俺は安心していた。いや、そんな場合じゃない。バルバトスよりも先に、ピスヘントを見つけるんだ。なら、俺のやることは一つ。

 高校生らしく、学校へ行こう。






「つまりあれか? そのピスヘントっつーミニドラゴンが俺のエビフライを食って、紡寺つむでらの部活の金をくすねたと」


「そうだ。連れてきた俺のせいだ。本当にごめん」


 学校に着くとちょうど帰りのホームルームが終わったところで、下校の支度をしていた明次と部活の準備中だった風を捕まえ、俺は頭を下げた。


「お金は使った分は返す。エビフライは……貸しにしといてくれ」


「いやまあ、そのうち返してくれればいいけどさ。先生がちょっとカンパしてくれたし」


 と風。俺が盗んだとは疑ってはいなかったらしい。何はともあれ、大事になる前でよかった。

 明次は深刻そうな顔で腕を組み、うーんと唸る。


「しかたねえ、貸し一つな。あっ、こういうのどうよ? 今度お前がなんかとびきり美味いお菓子作ってきてさ、それを俺が作ったってことにして花魚さんに持ってくのとか。サプライズとギャップで花魚さんはきっと驚くぜえ」


「今はそんな話いいでしょ」


 すでに貸しの内容を妄想していた明次に、風が冷たい視線を投げかけ、俺の方を向いた。


「で、ピスヘントはどこにいるの?」


「たぶん学校の裏の方にあるラベンダー園。今、花魚さんが先に追いかけてくれてる」


「なら安心じゃねえか」


 頭の裏で腕を組む明次はのんきそうだ。俺だって事情を知らなかったらそんな態度にもなるだろう。


「でも、バルバトスっていうやつがやってきて、ピスヘントを自分のものにしようとしている。だから、どうしてもそいつより先に見つけたいんだ」


 俺は再び頭を下げた。


「お願いだ、明次、風。一緒にピスヘントを探すのを、手伝ってくれ」


 俺がじっと礼の姿勢で固まっていると、頭の上で二つのため息が漏れた。


「しょうがねえな。貸し一つ追加な」


「あーあ、朝練に続いて、放課後も部活さぼんなくちゃね」


 顔を上げると、明次と風が、にっと歯を見せて笑っていた。

 俺は「ありがとう」と告げ、

 心の中でも「ありがとう」と唱えた。

 一つは明次の分。心の中の感謝は、照れ臭いから風への分だ。

 明次が俺の背中を叩く。


「行こうぜ、三歩。お前の友だちを取り返しに」


 その手は温かかった。

 俺は力強く頷き、笑い返す。そうと決まれば善は急げだ。あの小さな竜は、きっと助けを待っている。




 学校の裏側の小道を十分ほど進んで山に近づくと、薄紫色のラベンダーが生い茂るラベンダー園がある。

 ちょっとした公園並みの広さで、ブランコやタイヤの遊具、それに水飲み場まである。入場料は無料で開放されているものの、訪れる人はほとんどいない。ラベンダーも放置され気味で、存分にその葉を伸ばしていた。

 黄金色の空の下、むせ返るようなラベンダーの香りを肺いっぱいに吸い込み、俺たち三人は園内へ足を踏み入れた。

 園の中心へ行くと、そこだけラベンダーの生えていない円形の空白がある。見晴らしのいい中央の広場には、花魚さんがいた。


「おや、勢揃いだね」


 彼女は俺たちを視界に入れると微笑みかけた。


「花魚さん! ピスヘントは!?」


「それがまだ見つけきれなくってね。紅茶占いでも精密な位置まではわからないんだ」


 眉尻を下げる花魚さんに、明次が一歩踏み出した。


「手分けして探しましょうよ」


「うん、そうしてもらえると助かるかな」


 続いて風が身を乗り出す。


「花魚さん。またお隣さんを招界したままほっといたことについては、あとでうちでこってり話し合いましょうね」


「うん、お手柔らかにしてくれると助かるかな」


「だめです」


「残念」


 風と花魚さんはお互いににっこりと笑い合っていた。やっぱり女って怖い。表情と心のチャンネルを、いとも簡単に切り替えてみせるのだから。

 俺たちは散り散りになってピスヘントを探し始めた。制服が汚れるのにも構わずラベンダーをかき分けて、隠れられそうなスペースを見つけては手当たり次第に確認していく。

 どこだ。どこにいるんだ。バルバトスが見つける前に探し出さないと。もしやもう、バルバトスに捕まってしまったのだろうか。

 最悪の想像を頭を振ってかき消し、薄紫の茂みに手を突っ込む。ここもはずれか。

 このラベンダー園の中にいるのは確かなんだ。どうにか向こうから姿を現してくれる方法はないだろうか。

 そこまで考えたとき、ふと思い当たった。あいつの好きなものは……


「俺、ちょっと家に帰る!」


 俺はみんなの方を振り向いた。風が眉をひそめている。


「諦めんの?」


「違う。ピスヘントの好物を作るんだ。そしたらあいつ、出てくるかもしれない」


「でも、そんなことしてたら時間が……」


 風の言い分は正しい。一刻を争っているのは百も承知だ。でも、今俺にできる一番のことは、もうこれしかないと思った。今から急いで帰って、それから――


「帰る必要はないよ」


 そこで、花魚さんがウインクをした。どういうことです?


「今ここで作っちゃいましょう」


 そう言って、懐からレースのあしらわれた白い布を取り出し、ばさっと広げる。すると布は空中で四角い形に折り曲がって固定され、垂れ下がる。見ると、どこから出てきたのか、いつの間にかその下にはテーブルが出現していて、布はテーブルクロスとなって上に重なっていた。

 テーブルの上にはカセットコンロとフライパン、そしていくつかの食材と調味料に、花魚さん家のティーセット一式が並んでいた。茶葉の入ったステンレスのキャニスターの表面に描かれた猫が笑っている。

 そしてティーセットとテーブル以外は、うちにあるものだ。じーちゃん愛用のシンプルな緑一色の茶筒まである。目を疑うような、まさに魔法。それを花魚さんはやってのけてくれる。

 空は飛べなくとも、それ以上にすごいことならできるのだ、この人は。


「私はいつでもどこでも紅茶を楽しめるように、ティーセットを用意できるんだよ。そしてお菓子を作ってもらうために、三歩くんちの台所もついでにティーセットと一緒に登録してるのさ。レディの嗜みってやつかな」


 そんなレディは世界広しといえどもあなただけだ。

 明次と風はあんぐりと口を開けていた。無理もない。かくいう俺も、ちょっと引いている。

 しかし、花魚さんが常軌を逸していてくれたおかげで、ピスヘントをおびき寄せることができるかもしれない。俺はさっそく、召喚されたキッチンの上で調理に取りかかった。

 卵を二個手に取り、ボウルの上で割ってかき混ぜる。一緒に入れるのは塩ではなく、シナモンだ。シナモンパウダーを三振りボウルに投入して、卵に馴染ませる。本当はビーターがあるといいんだが、贅沢は言ってられないので手動の泡立て器で素早く手早くボウルの中身を回転させる。卵とシナモンが目まぐるしく踊っていた。

 と、そこで花魚さんたちがじっとこっちを見ているのに気づく。


「いや、花魚さんたちは引き続き探しててくださいよ」


「あ、ああ。ごめん」


 料理中をずっと見られると緊張するじゃないか。とくに花魚さんの前ではなおさらだ。

 改めて料理を再開。コンロに火を点け、フライパンを中火で温める。その間に、さらに根気強くひたすら卵を混ぜる、混ぜる。腕がしびれそうな甲斐あって、卵とシナモンは角が立つほどにメレンゲ状になってくれた。

 充分に温まったフライパンにバターを入れ、直後に卵も追加する。スピードが命だ。じゃないとバターのやつはせっかちで、すぐに焦げてしまうからな。

 フライパンも傾けて動かして、卵の形を整えていく。

 卵は膨らみ、表面につぷつぷと穴が開いてきた。すかさずフライパンをトントンと揺らし、ひっくり返す。

 最後に皿で迎えに行って、フライパンの上の卵を乗せた。モンサンミッシェル風オムレツの完成だ。シナモンとバターの香りが、ラベンダー園内のつんと甘い空気と溶け合った。

 さあ、頼むから食べてくれ……!

 そう願ったとき。

 ぽうと、ラベンダー園の一角で小さな炎が灯った。炎は揺らめき、こっちへ飛んでくる。それは、ピスヘントの尻尾の先に点いた火だった。

 火が大きくなり、徐々に本体が見えてくる。やがて体中に茶葉を貼り付けた、小さな手乗りサイズの竜が姿を現し、こっちへ向かって飛んできた。

 来てくれたのか!

 ピスヘントはテーブルの上に乗り、くんくんと鼻を動かす。そして、ためらいなくオムレツにかじりついた。


「すごい、本当に出てきた……」


 風がそう漏らす。気づけば、花魚さんたちもテーブルに集まってきていた。


「こいつが俺のエビフライを盗んだ犯人か……ちくしょう、意外とかわいいな」


 憎めねえじゃねえか、と明次が顎に手を当ててうなる。根に持つなあ。

「私の方がかわいいよ」と花魚さん。ヴォーパル・バニーのときも言ってましたね、それ。「そりゃもちろん!」と明次は断言した。ぶれない人たちだ。


「あとは、この子を青の駅に返せば――」


 花魚さんがそこまで言ったところで、甲高いホルンの音がした。


「ご苦労! レディースアンドジェントルメン!」


 ラベンダー園のブランコの鎖と鎖の間に亀裂が走り、薄紫色の空間が裂けて、猟銃を持った男、バルバトスがブランコの上に現れた。


「おかげさまで自分は難なくピスヘントを回収できるというわけだ」


 きいきいと鎖を軋ませながら、バルバトスは揺れる。俺はそいつをきっと睨みつけた。


「探す努力すらしないのか、お前は」


「狩人というものは、いかに楽をして獲物を手に入れるかが腕の見せ所なのさ」


 俺の怒りもどこ吹く風でバルバトスはブランコから降り、銃口をこちらに向けた。


「返してもらうぞ、大事な大事な商品を」


 ピスヘントはびくっと体を強張らせ、オムレツから口を離して俺の背中に張り付く。それでいい。あんなやつにお前を渡すもんか。オムレツはまたあとで食べさせてやるからな。


「悪いけどね、」


 花魚さんが俺とバルバトスの間に躍り出る。ちん、とポケットから取り出したティースプーンを指で弾くと、たちまちティースプーンは巨大化して人間大のサイズになった。


「ここにあなたの商品なんて、一つもないよ」


 言って、ティースプーンを構える。バルバトスは片方の眉を上げた。


「茶の駅の住人風情が、自分に口答えするとはな。その代償、高くつくぞ!」


 猟銃の引き金が引かれた。飛んできた銃弾を、花魚さんはティースプーンの頭で叩き落す。金属音が響き、跳弾がラベンダー園の地面に突き刺さった。


「みんな、下がって!」


 そう叫んだ花魚さんと、バルバトスは同時に地面を蹴る。ティースプーンと猟銃がかち合い、火花が舞い散った。

 一合、二合と互いの武器が高速でぶつかり合い、衝撃が突風となってラベンダーを揺らす。

 俺と明次と風は、とっさにテーブルの陰に隠れてただ見てるだけしかできなかった。弾丸も、スプーンの軌道も、目で追うこともできない。

 だが、花魚さんが徐々に押されているのはなんとなくわかった。戦いを見ている俺の頬を冷や汗が伝う。

 そして決定的瞬間が訪れた。バルバトスが後方に飛び、ラベンダーの茂みに身を隠す。すかさずスプーンで追撃をする花魚さんだったが、すでにバルバトスはそこにいなかった。

 直後、花魚さんの背後からホルンの音がする。とっさに花魚さんは振り返るが、それが命取りだった。


「花魚さん!」


 俺が叫ぶも遅い。音の鳴った後方にはホルンが浮いているだけで、本体がいなかったのだ。

 そう気づいたときには、花魚さんの横から発射された弾丸が彼女の足を貫いていた。

 膝をつく花魚さん。その横の茂みから、バルバトスは悠々と姿を現す。


「貴女とのダンスは楽しかったが、もう十二時の鐘は鳴る。魔法もじきに解けるだろう?」


 バルバトスは余裕たっぷりに顎髭を撫で、花魚さんを見下す。もちろん銃口は突きつけたままで。


「さらばマドモアゼル」


 凶弾が撃ち出される寸前、俺の背からピスヘントが飛び出し、猟銃に体当たりをした。花魚さんの頬を銃弾が掠める。

 その好機を見逃す花魚さんではない。ティースプーンを振るい、バルバトスの手から猟銃を弾き飛ばした。


「このっ、」


 即座に銃を拾いに行こうとするバルバトスの顔面目掛けて、スプーンによる鋭い突きが繰り出される。それをかがんで避けるバルバトスの頭上から、さらにスプーンの追撃が降ってきた。たまらず横に転がって避けるバルバトス。彼の頭のあったところの地面に次々とスプーンの雨が降り注ぎ、何度も地面を穿つ。

 目にも止まらぬ攻防が繰り広げられているうちに、ピスヘントは再び俺のところへ戻ってきた。俺はピスヘントの頭をこつんと叩く。


「やるじゃん」


 こいつはさっき、他人から奪った運ではなく、自分の体一つで人を助けようとしたのだ。小さな体に秘められたその心意気を、俺は素直に尊敬した。


「三歩くん! 明次くん! 風ちゃん!」


 バルバトスに猛攻を仕掛けながら花魚さんが叫ぶ。


魔茶マティーを淹れてくれないかな!?」


 その声には余裕が微塵もない。

 魔茶。花魚さんが愛飲する紅茶。この世界と他の色の世界を繋ぐ魔戸を開ける、不思議なお茶。それを、俺たちが?

 確かに俺はお菓子なら作れるが、紅茶に関してはからっきしなんだぞ?

 そんな素人が扱って大丈夫な代物なんだろうか。


 しかし迷っている暇はない。今、このうちに、俺たちだけでやるしかないんだ。


「俺、紅茶なんて淹れたことねえよ!」


「私は触ったこともないんだけど! というか知らない道具がいっぱいある!」


 明次と風は口々に不安を述べるが、俺は覚悟を決めた。


「やってみます!」


 なぜなら花魚さんに頼まれたから。理由はそれだけで十二分に足る。少しでもいいとこ、見せたいじゃないか。


「明次は水飲み場で水を汲んできてくれ! 時間が惜しいから水は少なくていい! 風は茶葉を用意!」


 ヤカンを明次に放り投げ、指示を出す。

 俺は腕の中で震えるピスヘントをぐっと抱きしめた。大丈夫。お前をあんなやつの元へ帰しはしないからな。

 花魚さんの狙いは助っ人だ。ここへ新たなお隣さんを呼んで、助けてもらうつもりなんだ。

 肝心の花魚さんがバルバトスの相手をして手が離せないから、魔戸を開ける役目は俺たちに回ってきた。それだけだ。今この局面は、俺たちが淹れる一杯の紅茶にかかっている。


「汲んできたぜ!」


「よしきた!」


 カセットコンロに火を点け、明次が持ってきたヤカンを置く。横でそわそわと待機する風を見て、俺は半眼になった。


「風、それは茶葉じゃなくて青のりだ」


「先に言ってよう!」


「見てわかれよ家庭料理研究部!」


「わかんないから部活で鍛えてんの! これでもちょっとは腕上がってるんだからね!」


「主婦のダイエットよりも信用できない成果だな」


「ていうか人んちの台所なんかわかるかー!」


 むきになって言い争う俺と風に、明次が口を挟む。


「夫婦漫才してるとこ悪いが、もうすぐ沸騰しそうだぞ」


「夫婦に見えてたまるか!」


 俺と風の台詞がシンクロした。「そういうとこだぞ」と明次が笑う。ああ悔しい。

 もう戦力として期待できない風にピスヘントを預けて抱えてもらうことにした。これからは俺が淹れてみせる。花魚さんの淹れる紅茶を一番飲んだのは、彼女のことを一番見てきたのは、この俺だ。

 ヤカンの中を穴が開くほど見つめる。これほど真剣にヤカンを見つめたのは生まれて初めてだ。ヤカンの中の水も俺を見つめ返していることだろう。

 水の表面に小さな気泡が生まれ、五円玉ほどの大きさになった。今だ!

 ティースプーン軽く二杯分の茶葉をティーポットに入れ、ヤカンのお湯を注ぐ。本当ならあらかじめポットも温めておきたいところだが、今は一分一秒が惜しい。

 確か、こうだったな。二十センチくらいの高さから、勢いよくお湯の滝を流し込む。これでジャンピングができるはずだ。たぶん。

 さすがに東京タワーどころか二階建ての高さから注ぐこともできないけど、俺は花魚さんじゃないからいいんだ。枯藁かれわら三歩なりに、最速で最高の一杯を淹れてやる。

 お湯を入れ終わった俺はポットに蓋をした。茶葉を蒸らす必要があるとはわかっているけど、じれったい。明次も風も、ピスヘントまでもが不安げにティーポットを見つめている。


「明次。三分計ってくれ」


「おうよ」


 明次が携帯電話のタイマーを起動させるのを確認して、ようやく花魚さんの方を気にすることができた。大丈夫だろうか。

 俺が目を向けたのと、花魚さんが吹き飛ばされたのは同時だった。俺が花魚さんを見た瞬間、彼女の体は大きく仰け反り、宙を舞っていた。


「花魚さん!」


 目を離した隙に、形勢が豹変している。いったい何があったんだ。

 見ると、バルバトスの手には猟銃が戻ってきていた。それで花魚さんを撃ったのだろう。しかし、あの花魚さんが易々と追い詰められるなんて、どうして。


「貴女一人なら自分と互角ぐらいには戦えたのだろうがね、絶好の的が三人もいれば、かばわざるを得まい?」


 勝ち誇るように牙を見せるバルバトス。その邪悪な笑みが、俺たちを利用して花魚さんを傷つけたことを物語っていた。花魚さんの体のいたるところには血の滲んだ傷跡が見える。

 俺たちが足手まといなのをいいことに、花魚さんの優しさを逆手にとって、こいつは花魚さんを苦しめたんだ。

 花魚さんが俺たちをかばうのを承知で、わざと俺たちを狙って花魚さんを追い詰めたのだろう。俺の中で沸々と怒りが湧き上がるが、今本当に必要なのは俺の怒りじゃなくて、魔茶だ。

 以前花魚さんはこんなことを教えてくれたことがある。

 待つ時間こそが、紅茶を育てると。

 今の俺がやるべきことは、最上の魔茶を淹れることなんだ。耐えろ。俺は地面に倒れ伏す花魚さんの姿を目に焼き付けた。

 もうすぐ、とっておきの助っ人を連れてきます。絶対に。だから、立ってください花魚さん……!

 その思いが届いたのか、ティースプーンを杖代わりにして花魚さんは立ち上がる。どうやらスプーンを盾にして、直撃を防いだらしい。


「絶好の的なんてとんでもない。あそこにいるのは、とっておきの友だちだよ……」


 花魚さんは力なく笑った。バルバトスはそんな彼女を見据えたまま、銃口を俺たちに向ける。


「さあ、次はどうするねマドモアゼル?」


 そのときだった。俺たちとバルバトスの間に、明次が立ちふさがったのは。


「弱い者しか撃てない鉄砲なんか怖くねえぞ! なぜなら俺は強いからな!」


 嘘だ。その足はよく見ると小刻みに震えている。

 でも、明次の狙いは言われなくとも伝わった。三分経ったんだ。そして明次は壁になり、バルバトスに俺の動きを見せないようにしてくれている。

 明次が作ってくれたこの好機を見逃すわけにはいかない。

 俺は素早く、けれども一滴たりともこぼさないように注意してポットの紅茶を、ストレーナー越しに別のティーポットに注ぎ移す。

 そして濾された紅茶をティーカップに入れる。よし、これで魔茶は完成したはずだ。

 頼むぞ。力になってくれ。

 紅茶から湯気が立ち上り、凄まじい速度で円になる。

 俺は喉を鳴らし、目を凝らした。魔戸を開けることができた。問題は、何が出てくるかだ。

 鬼でも蛇でも、なんでもいい。

 とにかく、この状況を動かして……いや、ぶっ飛ばしてくれるようなやつが出てきてくれ!

 祈りながらも、決して目は閉じず、漂う湯気を睨む。

 その向こうにいる結果を、確かめるために。

 魔戸の円の中から朧気にシルエットが見えるようになってきた。

 そして、その影は湯気をまとって俺たちの前に立ち、その姿を晒す。

 見覚えのありすぎる格好、年々深くなっていく皺に、機嫌の悪そうな目。

 魔戸の中から現れたのは、なんと俺のじーちゃんだった。

 正真正銘の、花魚さんにとっての「お隣さん」が来てしまった。

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