第二色  エビフライと五千円のつけ

1. エビフライ失踪事件

 両親がいるのはいいことだ。たいていの人には両親がいて、一緒に暮らしている。それは幸せの形の一つだろう。

 だけど、だからといって両親がいないことが悪いのかというと、そんな単純な話ではない。俺にはじーちゃんしか家族がいないし、明次めいじのやつも実は母親を亡くしている。お互い、母親というものの影を求めて、年上の花魚さんに惹かれているのかもしれない。


「お母さんって、どんな匂いなんだろうな」


 ずっと昔に明次が言ったそんな台詞を、なぜかたまに思い出す。

 両親がいるのは幸せなことなのだろう。

 でも、俺も明次も、自分なりに健やかに生きているつもりだ。だからかわいそうだなんて気を遣ってもらう必要もない。

 つまり何が言いたいかというと、幸せの押し売りは、幸せとは限らないという話だ。




 その日は、花魚はなさかさんと二人っきりで、いつもの花魚家でのブレークタイムを楽しんでいた。なんでも法事があるとかで明次はいない。おかげで俺は素敵な日曜日を過ごすことができそうだ。

 花魚さんは目を閉じて美味しそうに紅茶を味わう。彼女がソーサーの上に置いたカップの縁が、薄いピンクのルージュで彩られていた。


「そういえば花魚さんの名前って、『はなさかな』って読まないんですね」


「そうだね。きっと、『な』は迷子になってるんだよ」


 他愛のない会話をしながら、紅茶を飲む。今回俺が持参したお茶菓子はシンプルにスコーンだ。

 おしゃれなお菓子なのでとっつきにくいイメージもあるが、作り方は材料を混ぜて焼くだけと意外と手軽なんだこれが。しかも紅茶との相性は抜群ときた。欠点は破片がぽろぽろこぼれやすいところか。

 今日はミルクを入れないストレートティーだ。スコーンのときはストレートの方がよく味が馴染む。


「にしても三歩さんぽくんの作ったスコーンはよく笑ってるね」


「どういうことですか?」


「ほらここ」


 スコーンを一つつまんで花魚さんは指差す。スコーンの側面に、内側から弾けそうな割れ目が入っていた。


「スコーンが横に割れてるのを、スコーンが笑う、って言うんだよ。おかしいよねえ」


 むしろ笑ってるのは花魚さんの方ですが。ああもうかわいいなちくしょう。


「笑ってるスコーンは美味しい証拠なんだって。笑顔は最高のスパイスだね」


「同感です」


 確かに、笑っている花魚さんを見ながら飲む紅茶は格別に美味い。

 スコーンを一口かじって、紅茶を口に含む。スコーンに紅茶の風味が宿り、口の中でほどけていく。

 周りを取り囲む家庭菜園スペースの植物たちが、五月の陽気を受けて喜んでいるようだった。

 花魚さんと二人きりでお茶を味わうこの空間の、なんと居心地のいいことか。

 しかし、二人きりの時間は長くは続かない。花魚さんのティーカップから湯気が湧き出て、空中で踊って輪になる。こっちとあっちの世界をつなぐ、魔戸まどが開かれた。

 宙に浮かぶ魔戸をくぐり、勢いよく何かが飛び出す。それは家庭菜園スペースをぐるりと一周して飛び回り、そして失速して俺たちの座っているテーブルの上、スコーンの山に突っ込んだ。

 スコーンの中から緑色の尻尾が覗く。おそるおそるスコーンをどけると、体長三十センチほどの小さな竜が出てきた。

 蛇に手足が生えたのだと言われてもおかしくないほど胴は長く、小さいながらも背中に翼も持っている。

 全身は緑色に輝く鱗に覆われていて、細かい宝石を散りばめたかのようだ。頭には短い二本の尖った角があり、四本の手足の先にも鋭い爪が見えた。

 目は閉じられており、呼吸に合わせて体が微かに膨らんだり萎んだりを繰り返している。

 よく見ると、その小竜はところどころに傷跡があった。

 細かい切り傷や擦り傷、蚯蚓腫れなどが痛々しく全身の鱗に刻まれている。血は青く、細く流れていた。


「! 花魚さん!」


「うん、そうだね」


 花魚さんは立ち上がり、周りに生い茂っている植物のいくつかから葉っぱを何枚かむしり取ってくる。その葉っぱをティーカップに入れてから、スプーンで紅茶をすくって小竜の口に差し込む。

 小竜が小さく細長い舌をちろりと出して紅茶を舐めると、傷はみるみるうちに小さくなった。

 さらに紅茶の上に浮かんでいた、さっき入れた葉を絆創膏のように傷口に貼り付ける。小竜の息遣いが落ち着いていった。


「魔法みたいですね」


「魔性の女ですから」


 ぱちりとウインクをしておどける花魚さん。言えてる。

 やがて小竜は目を開け、首を持ち上げてきょろきょろと辺りを見回した。


「まだ完全に傷が治ったわけじゃないからね。無理しちゃだめだよー」


 花魚さんはその頭を優しく撫でた。小竜がくるくると喉を鳴らす。


「なんで怪我してたんでしょうね」


「さあ? 青の駅にはひねくれものが多いから、何かトラブルに巻き込まれたのかも」


 どうやらこの竜は青の駅の住人らしい。


「ピスヘントの子どもだね。幸運を持ってきてくれる能力があるんだよ。だから狙われたのかも」


 こんな小さな体に、そんなすごい能力を秘めているのか。

 花魚さんはピスヘントを撫でるのをやめ、自分の頬に手を当てる。


「さて、困ったね。この間のヴォーパル・バニーのことがあるから、ティータイムが終わったらすぐに元の世界へ帰ってもらうつもりだったんだけど――」


「このまま帰すのは、心配ですよね」


「そうなんだよねー」


 ピスヘントを眺めていると、目が合った。まだ万全の状態ではないのだろう、その目の輝きは弱弱しく、すがるようにこっちを見ている。


「火ぃとか、吐きませんよね」


「今は大丈夫だと思うよ」


 吐くには吐くらしい。

 そーっと、刺激しないよう手を伸ばし、頭を撫でる。ピスヘントは気持ちよさそうに目を閉じた。

 その仕草が愛らしくて、俺は自分を抑えきれなかった。


「花魚さん」


「なにかな?」


「この子、うちで飼ってもいいですか?」


「だぁめ♪」


 即答だった。でも、と彼女は続ける。


「怪我が治るまで一日くらいはかかるし、その間だけなら一緒にいてもいいんじゃない?」


 柔らかく微笑む花魚さんは、まるで女神に見えた。魔性の女神だ。

 スコーンを一つ、ピスヘントの口へ持っていく。ピスヘントはスコーンの匂いを嗅ぎ、それからかじりついた。小さな体に丸々一個のスコーンを収めたピスヘントは、そのまま二個目を頬張る。

 どうやらお気に召したようだ。俺もお前のことが気に入ったよ。

 ピスヘントの背中をさすりながら、考えを巡らせる。問題は、どうやってじーちゃんや風の目を欺いてお持ち帰りするかだな。




「ただいま」


 家に帰り、玄関の引き戸をがらがらと開ける。

 トートバッグを提げて居間の前を通ると、そこにじーちゃんが座っていた。


「おう、おかえり」


 こんなときに限って新聞を読んでいない、ときた。

 ずっと昔、今と同じようにじーちゃんに隠れてこっそりドラゴンを飼おうとしたことがある。そのときは大変な目に遭い、こっぴどく怒られたものだ。

 じーちゃんの拳骨はべらぼうに痛かったなあ。俺は知らず、自分の腹を撫でていた。あのときの痛みは今でも鮮明に思い出せる。

 だが大丈夫、今度は大丈夫だ。内心焦りながらも、平常心を保つ。


「お前も茶ぁ飲むか?」


「いや、いいよ」


 花魚さん家で紅茶飲んできたし。誘いを断って二階へ上がろうとすると、じーちゃんに呼び止められた。


「三歩」


 体が強張るのがわかる。じーちゃんは変なところで勘が鋭いから、油断ならない。年の功ってやつか。


「明日、ちょっくら老人会に顔出すから、帰りは遅くなる」


「ん、わかった」


 今度こそ俺は二階へ上がることができた。襖を開け、自分の部屋に入ったとたん、大きく息を吐いた。


「と、悪い悪い」


 そしてトートバッグを広げ、中に押し込んでいたピスヘントを解放する。

 ピスヘントは翼を羽ばたかせ、天井に下がっている蛍光灯の周りをぐるりと飛び回った。その尻尾には炎が灯り、揺らめいている。

 ……炎、ここで出すのかよ。隠し通す自信がなくなってきた。

 ひとしきり飛び回ったピスヘントは、俺の背中に張り付く。ははは、蝙蝠かお前は。


「三歩」


 まったくの不意打ちで襖が開けられる。俺は瞬時に体を半回転させ、入り口側から背中が見えないようにした。


「ノックぐらいしてくれよじーちゃん!」


「襖にか?」


 そういやそうだ。今のは俺の方がおかしかったな。いよいよばれるんだろうか。心臓がうるさい。ついでにピスヘントの尻尾の炎が腰の辺りで燃えていて、そこそこ熱い。

 俺の苦労も知らず、じーちゃんは眼鏡の奥で俺をじっと見て口を開く。


「夕飯はオムレツとスパゲッティ、どっちがええ?」


 今夜の夕食はオムレツになった。

 ……和風住宅なのにか?


 その晩、俺はこっそりオムレツを半分残し、自分の部屋に持って行ってピスヘントに与える。ピスヘントは大喜びで平らげた。

 そしてピスヘントを部屋に残して風呂を済ませ、ピスヘントと一緒に布団に入る。もちろん尻尾の火は消してもらっている。トカゲみたいな見た目の割に、ピスヘントの体は温かかった。おかげで、すぐに瞼が重くなってくる。

 誰かと一緒に寝るのは久しぶりだ。小さい頃、じーちゃんと一緒の布団で寝ていたのを思い出す。懐かしさに包まれながら、俺はぐっすりと眠ることができた。


 翌朝目覚めたときには、すでにじーちゃんは老人会の集まりへと行っていた。俺も学校に行く支度をして、家を出る。朝食はおなじみのトーストで済ませた。



「おはよう三歩くん。あの子は元気になったかな?」


 玄関先で鼻歌を奏でながら箒を動かしている花魚さんに声をかけられる。いつもは嬉しいことなのだが、今日に限ってはどうしても後ろめたさがあった。


「はい、おかげでだいぶ回復してますよ」


「それはよかった。じゃあ私が元の駅へ帰しておこうか?」


「あー、いや、今まだあいつは寝てるんで、学校が終わったら連れてきますよ」


「そう? ふーん……」


 その目は何か言いたげに俺の顔をじっと見ていた。この人に探られると、一切の隠し事ができる気がしない。


「あ、じゃあ学校遅刻する前に、俺はこの辺で」


 気まずくなって、逃げるように花魚さんと別れた。正直後ろ髪を引かれる思いだが、仕方ない。

 昨夜から今朝にかけて散々迷った挙句、俺はピスヘントを通学バッグに忍ばせて高校へ連れて行くことにしたのだ。こいつにあまりにも懐かれたせいで、すぐに別れるのが惜しくなってしまったからだ。

 もちろん危険な賭けだが、家に匿って火事になるよりはましだろう。要は今日一日、ばれずに乗り切ればいいのだ。両サイドをブロック塀に挟まれて、歩きながら決意の息を吐く。


「ふう」


「なんだ! 呼んだかい!?」


 いきなり背中を叩かれた。俺の叔母兼同級生の紡寺つむでらふうがけたけた笑って隣に並ぶ。


「呼んでねえよ! ただのため息だ」


「またまたー。お前はほんとに私のことが好きだな?」


「断じて違う。というか、朝練はどしたよ?」


「今日は寝坊したからさぼった!」


 堂々と風は胸を張った。こいつも俺と同じ町内に住んでいるのだが、部活で朝は早く帰りも遅くなるために、一緒に登下校することは滅多にない。

 家庭料理研究部とかいう部で、料理を作る部のはずだがなぜか朝練があり、朝は体力作りのために走りこんでるのだという。アグレッシ部。

 にしても、このタイミングで寝坊されると、少し厄介だな。


「ところで三歩、今日も花魚さんは異常なし?」


「異常にきれいすぎることを除けば異常なしだね」


「はいはい、いつも通りね」


 こうして毎朝花魚さんのことを気にかけるのも、例の親戚代行とやらの関係なんだろうか。親戚づき合いも大変だな。

 呆れたように目を閉じた風は、片目だけぱちりと開けて「ん?」と俺の腰元を見る。俺はとっさにかばうように通学バッグを自分の背中側にずらした。

 よりによって風に気づかれるのは面倒だから避けたい。今日ぐらいは女の勘なんて働かなくていいんだよ。働き方改革ってやつだ。


「あれ? 鞄がぱんぱんじゃない? 何入ってんのさ」


 俺の心のつぶやきが聞こえたかのように、風は目ざとく眼鏡を光らせた。一瞬、答えに窮するが、黙ったままでいるわけにもいかない。


「明次に貸すエロ本が入ってるんだよ」


「ふぇあ!?」


 俺は迷わず明次を売った。

 風は面白いほど飛びのき、目を白黒させている。


「え、え、え、ええろ……この人痴漢です!」


「痴漢ではねえよ」


 どうやら上手く気を逸らすことに成功したようだ。風はこの手の話題に弱く、避けたがっている節がある。初心なやつめ。


「わ、私、今からでも朝練に行ってくる! やっぱりさぼるのよくない! あと未成年がそういうの持ち歩くのもよくない!」


 ててーっと風は駆けて行った。よし、これでひとまず嵐は去った。

 住宅街を抜け、商店街を通り、橋を渡ったところで明次の家が見えてくる。家の前に差しかかったとき、ちょうど明次が顔を出した。


「よう、三歩。おはようさん」


「すまんね明次。おはよう」


「なんで俺、謝られたの?」


「なんとなく」


 俺と明次は並んで学校へ向かった。細かいことは気にするな。悪友だろ?

 結局、教室に入った頃には風が女子の何人かに口を滑らせたみたいで、俺たちは無の視線を投げかけられることになったのだが、さすがにちょっと心が痛むねこれは。

 嘘もよくないな。



 俺の通学バッグの中には、ピスヘントと、他に水筒や食パンの耳を上げたラスクや玉子サンドも一緒に入れてある。窮屈だろうが、授業中はそれで我慢してもらった。実際、鞄から鳴き声や炎が上がることもなく、無事に昼休みになった。

 俺と明次は学食へ足を運ぶ。といっても定食や丼を頼むわけではなく、学食の横に隣接されている購買でパンを買うためだ。なんだかんだでやっぱり俺もじーちゃんの孫である。

 購買では、一日十食限定のエビフライロールパンが売られていた。初めて見る新商品だ。さっき看板が出されたばかりで、まだ行列もできていない。俺と明次は自然とそこへ並ぶ。

 前に並んだ明次がさっそく新商品を買っているとき、俺は背筋が寒くなるのを感じた。

 所持金、足りないかもしれない。

 財布の中にお札はなく、小銭も心許ない量だった気がする。エビフライロールパンは二百三十円。それに飲み物も欲しい。だが財布はそれを許してくれるだろうか。

 いざとなったら明次に借りるか、と思いつつ財布を開いて、あれ、と思った。

 五千円札が入っていたのだ。

 俺、こんなにお金持ちだったっけ。じーちゃんからそれほど小遣いをもらった覚えもないし、謎だ。

 でも、今お金が必要なのは事実なので、いったん謎は謎のまま置いておいて、俺はエビフライロールパンとジュースを買った。あと、調子に乗ってサラダも買った。たまには贅沢もいいだろう。

 教室に戻ってパンの袋を開けると、エビフライロールパンは、エビフライをパン生地で丸く包み、さらにそのパン生地もかりっと揚げてあるという、非常に男子が好きそうなボリューミー加減だった。

 しかも中にエビフライが二本も入ってる。お得だ。俺が幸せそうにエビフライを噛みしめていると、明次が「あれっ」と言った。どうした?


「俺のパン、エビフライが入ってないんだけど」


 それは大事件ですな。明次が見せたエビフライロールパンの断面は、確かにそこに収まるべきのエビフライがなく、ぽっかりと空洞になっていた。

 妙だ。単にエビフライの入れ忘れなら、空洞ができるはずがない。エビフライ失踪事件だ。


「ちくしょう、俺が三度の飯よりもエビフライが好きだと知っての狼藉かよ!」


 嘆く明次。エビフライも飯にカウントされるのでは?

 運が悪かったな。そう心の中で言うと同時、何かが引っかかる。


『運』?


 昨日の花魚さんの言葉が頭をよぎった。



 ――ピスヘントの子どもだね。幸運を持ってきてくれる能力があるんだよ。



 そうだ、俺の分のパンにエビフライが二本も入ってる時点で、おかしいとは思っていたんだ。それに……


「あーっ!?」


 後ろの席で風が叫ぶ。


「今度部活で作る料理の材料費、確かに入れたはずなのになくなってる! なんで!? 私だけの分じゃないのに!」


 教室内でざわざわと動揺が伝播する。俺はというと、五月にもかかわらず背中が汗だくになっていた。冷や汗だ。

 思わず俺は通学バッグを見る。


 お前、なのか?

 もちろんバッグが返事をするわけがない。


「ごめん、ちょっと早退する!」


 気づけば、俺は四千円ちょいの財布の中身を全部丸ごと風に預け、通学バッグを手に席を立って走り出していた。


「えっ、ちょっ、三歩!? 何このお金!? いいの!?」


「おい三歩、どうしたんだよ急に!」


 後ろで風や明次の呼び声がするが、全部教室に置いていく。

 ただどんなに速く走っても、恐怖と罪悪感はぴったりと背中についてきて、離れてはくれなかった。

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