2. 大山鳴動して兎一匹。いや一羽

 外に出ると、空は赤と青の色が混じり合っていて、誰かがティースプーンでかき回したみたいだった。時刻は午後五時半。日が暮れるのが少し早くなっている。


「ピクニックみたいですね」


 そんなことを明次めいじが言ったのは、のんきだからじゃない。外に出る際に、花魚はなさかさんはわざわざ水筒を用意して、今持ち歩いているのだ。殺人兎が外に解き放たれたというのに、なぜそんなに悠長でいられるのか。

 女性が若く見える秘訣はミステリアスでいることだと、誰かが言っていたのを思い出した。

 花魚さんを先頭に住宅街を並んで早足で歩く。三人立って並ぶと、花魚さんの身長は俺たちよりやや低い。

 昔は花魚さんの方がずっとすらりと高かったのに、いつの間にか逆転してしまっていた。住宅街に伸びる、幾分か濃くなった三つの影は、どこか昼間よりも重そうに見えた。

 幸いにも俺たち以外に通行人はいない。誰かの首が転がっていることはなさそうだ。

 問題は、ヴォーパル・バニーがどこまで逃げたか、そして今いったいどこに潜んでいるのかだ。

 もしも住宅街を抜けてもっと先、商店街の方に逃げ込んでいたらまずい。あそこはそこそこ活気があるので、確実に犠牲者が出る。

 確かに兎は跳ねる動物だが、首を刎ねてどうするよ。平和に月で餅でもついとけよ。


「どこにいるか、当てはあるんですか?」


 俺も思っていた明次の疑問に、花魚さんは立ち止まり、水筒をちゃぽんと揺らして振り返る。俺と明次の足も止まる。


「当てはないけど、これから当てましょう」


 そうして蓋を開け、どこからともなく取り出したソーサーに水筒を傾ける。中から紅茶が出てきて平たく広がった。

 その紅茶の薄く広がったソーサーに口をつけ、花魚さんはくいと飲み干す。どちらかというと日本酒の飲み方だった。いける口だ。


「何してるんですか?」


「紅茶占い」


 ん、と花魚さんが差し出したソーサーには紅茶の茶葉だけが残って張り付いている。そしてあろうことか茶葉は、矢印の形に並んでいた。

 紅茶占いとは確か、紅茶を飲んだあとのティーカップの底に残った茶葉の形で未来を占うというものだった気がする。少なくとも俺の知っている紅茶占いはそうだった。だが花魚さんの場合は、さすがにひと味違うようだ。


「あの子はこの先にいるみたいだね」


 矢印は住宅街の先、商店街の方向をまっすぐ指し示していた。

 最悪だ。

 気がついたときには俺は花魚さんを追い越し、明次を置いていき、一人で全力疾走をしていた。コンクリートのブロック塀が俺の両脇を猛スピードで流れて過ぎていき、やがて途切れる。

 ついに住宅街を抜けてしまった。俺の足元から横断歩道が伸び、その先は商店街へと繋がっている。歩行者用の信号は赤だったので、足が止まる。

 だが、そこで見てしまった。横断歩道の上で、ちょうど一番向こうの白線に紛れ込むようにしてうずくまる白い物体を。ヴォーパル・バニーだ。

 まばらだが車は通っている。ヴォーパル・バニーは横断歩道のぎりぎり端っこにいるので轢かれることはないだろう。

 しかし妙だ。なぜあいつは商店街の中に入ろうとしない? あの中には大勢の人が確実にいる。首を切りたいのなら、入ってしまえばいくらでも獲物はいるだろう。

でも、うかうかしている場合じゃない。

 信号が青になれば、犠牲者が出る前に捕まえに行けるのに……!

 頼む。このまま誰とも会わないでいてくれ……!

 そんな俺の願いは、神に嘲笑われた。

 商店街の一番端にあるパン屋のドアが開き、あろうことか紙袋を提げたじーちゃんが出てきてしまった。

 それを見逃すヴォーパル・バニーではない。両耳を刀のように一本に揃え、頭を振り回し、風を切りながら横一閃にじーちゃんの首を落としにかかる。

 あいつは、獲物が自分から現れるのを待っていたんだ!


「じーちゃん!」


 俺の呼びかけに反応し、迫りくる刃の耳を目で捉え、じーちゃんは目を見開く。


「しまった!」


 そう叫んだじーちゃんは。



 ああ。ちくしょう。ふざけんなよ。



 じーちゃんは、パン屋のトングを使って、ヴォーパル・バニーの耳をあっさりとつかんでやがった。


「いかんいかん。こいつを店に返すのを忘れちまった。歳はとりたくねえなあ」


 いともたやすく凶刃をトングで挟みながら、ほざく。


三歩さんぽくん、大丈夫――みたいだねえ!?」


 そのうち、後ろから花魚さんが追いつき、だいたいの状況を見ただけで察していた。

 ヴォーパル・バニーは、きゅいっ!? とかわいい鳴き声を上げた。花魚さんが隣で通訳してくれる。


「『なんだその武器は!?』って言ってるね」


 トングです。パンを挟んでつかむための、トングです。この使い方は間違いなので、よい子は真似しないように。できねーよ!

 ぎちぎちと、耳を捕らえたままのトングが軋む。ヴォーパル・バニーは身動きが取れないようだった。うちのじーちゃんは万力かよ。


「最近の兎はすげーなあ。もう俺ぁついてけねえや」


 いやそれ最新型の進化した兎とかじゃないから。別の世界の怪物だから。そんな電化製品みたいに言わんといて。

 心の中でいろいろつっこんでいると、信号が青になった。俺は横断歩道を渡ってじーちゃんに駆け寄る。

 そのうちに息を切らした明次も合流し、四人で商店街の入り口にたむろする。


「花魚さんよ。なんだこいつは。あんたのペットか」


「いいいいえいえいえそんな滅相もない!」


 じーちゃんにじろりと睨まれ、目を忙しなく泳がせる花魚さん。両手と首をぶんぶんと振っている。かっこいいところ見せてくれるんじゃなかったんですか。


「じゃああんたの客か」


 図星を突かれて石像になる花魚さん。にしてもじーちゃんは、端から元凶は花魚さんだと確信しきっているらしい。実際合ってるわけだけども。


「ほい」


 両耳を押さえられ、宙ぶらりんの状態でじたばたと空気を蹴るヴォーパル・バニーを、じーちゃんは花魚さんの顔の前に突き出した。


「ちょっとこのトング返してくる。あとは任せていいな?」


 花魚さんが何度も頷いたのは言うまでもない。





 じーちゃんからヴォーパル・バニーを受け取り、俺たち三人は住宅街へと引き返して歩いていた。

 俺と明次はヴォーパル・バニーの足を一本ずつ握り、逆さまに吊るしている。この体勢にしておけば耳で切りかかられることはないらしい。内心冷や汗ものだが、そこは花魚さんの前ということでお互いに強がっておく。


「しかし、三歩のじーちゃんはすげえなあ」


 明次のその台詞はこれで今日三度目だ。


「なんであんなに動じねえんだろうな?」


「あれは動じてないんじゃなくて、ほんとにどうでもいいと思ってるんだよ。関心がないんだ」


 きっと、俺にも。


「そんなことないよー」


 俺たちの前を歩く花魚さんが言った。


土熊どぐまさんは、顔に出ないだけなんだよ。感受性は私たちとおんなじで、普通で、ちゃあんと世界を味わっているはずだもの」


 そういうものだろうか。花魚さんがうちのじーちゃんの理解者であるというのは、なんだか複雑な気持ちになる。


 言い忘れたが、土熊はじーちゃんの本名だ。

 枯藁かれわら土熊どぐま

 俺も人のことを言えたもんじゃないが、なかなかに螺子ねじのぶっ飛んだネーミングセンスである。


「でもその割にはじーちゃんのこと怖がってますよね」


「土熊さんとビスケットだけはどうもだめなんだよ……」


 そういえば以前、花魚さんにビスケットを作って持って行ったことがあるが、そのときだけは珍しく食べてくれなかった。

 それ以来焼き菓子を持って行くのは避けるようにしているが、なぜビスケットが苦手なんだろう。じーちゃんはわかるけど。まあ、好みは人それぞれと言えばそれまでだし、アレルギーの可能性もある。

 人の好みに口出しするのも野暮だしな、と思ったとき、明次がかすれた声で話しかけてきた。


「なあ、三歩。俺たち友だちだよな」


「悪友だろ」


 どうした、と横を向き、俺は言葉を失った。

 ヴォーパル・バニーの鋭い前歯が伸び、明次の首筋にかけられていたのだ。


「助けてくれ」


 明次は凍りついた笑みを浮かべていた。

 人質を、取られてしまった。


「へえぇ」


 花魚さんは振り返り、目を細めて薄く笑う。


「そういうこと、しちゃうんだぁ」


 それは色も艶もない、枯れ果てた笑みだった。

 花魚さんは水筒に手をかける。何をする気ですか、と訊ねる前に、すでに蓋は開けられていた。


「だったら私も、こうしましょう」


 素早く懐からティースプーンを出した花魚さんは、それで自分の白く細い指を切る。

 指先に血の玉がにじみ、彼女はそれを水筒の中に一垂らしする。花魚さんの血と水筒の中の紅茶が混ざった直後、水筒から真っ赤な蒸気が噴き出し、空中でとぐろを巻いて円を描いた。

 魔戸まどだ。見たこともない魔戸が今、開けられる。


 赤い魔戸から手が伸びる。鋭い爪の生えた、六本の指を持つ腕だった。血まみれのように真っ赤な腕の表面は絶えず脈打ち、あちこちに傷跡と思しき痛々しい筋が刻まれている。


「おいでませ、赤の魔人ベルドレッド」


 花魚さんの呼びかけに応えて赤い腕は明次の首元に当てられた前歯をチョコレートみたいにぱっきりと砕き、ヴォーパル・バニーの体を握りしめる。俺と明次は兎の足を手放した。

 そして、赤い腕から先の本体が、その全身を現した。


 角とも触角ともつかぬ二本の突起を頭の後ろに流した、人型の怪物だ。

 顔には左目が一つ、右目が縦に五つ並んでいるだけ。全身には無数の傷跡の線が走り回っていた。傷口が生きているみたいに蠢いている。


「サーヤ。我は寝起きで機嫌が悪い。要件を早く言え」


 三メートルほどにもなる赤い魔人は喋った。口もないのに、どうやって言葉を発しているんだろうか。

 花魚さんは魔人に笑いかける。しかし目は依然として笑っていない。


「この兎を、かちかち山のように懲らしめてやって」


「そのような山は知らんが、いたぶるのなら大得意だぞ」


 深紅の魔人はヴォーパル・バニーを顔の前に持ってくる。目しかない顔の表面に横に線が走り、その線を境に顔が二つに割れた。裂け目の中には無数の牙と、中心でうごめくドリルのような舌が待ち構えていた。


 思わず明次が目を背ける。

 もはや抵抗もせず、ただ震えるだけのヴォーパル・バニーを見て、俺は、



「待って、くれないか」



 自分でも信じられないことを口走っていた。魔人の手が止まる。花魚さんも不思議そうにこっちを見た。


「待つ? どうして?」


 花魚さんは小首をかしげる。


「このうさちゃんは、明次くんや土熊さんを殺そうとしたんだよ?」


「でも、二人とも死んだわけじゃありません」


 何を言ってるんだ俺は。明次のやつもぽかんとしてるじゃないか。


「我の食事の邪魔をするか?」


 魔人が合計六つの目で俺を見下す。その目に情の光はなかった。


「おいやめろって三歩! 殺されちまうぞ!」


 明次が俺の肩を揺さぶり小声で訴えかけてくる。けれども俺はベルドレッドとやらににっと笑いかけた。


「邪魔はしない。ごちそうしてやる。甘いものは好きか?」


 それを聞いたベルドレッドは、牙の並んだ口を閉じ、ずずいと顔を近づけてきた。


「大好物だ。医者に止められるほどにな」


 お前糖尿なのかよ。そっちが気になってしかたなかったが、本題を続けた。


「甘い甘いデザートがある。それをやるから、その兎は見逃してやってくれ」


「よかろう」


 即答だった。ぽんと俺の腕の中にヴォーパル・バニーが放り投げられる。ヴォーパル・バニーは借りてきた猫のように大人しかった。兎のくせに。

 契約成立したとたん、へなへなと明次が崩れ落ちる。


「無茶すんなよお。お前が食われるんじゃないかと冷や冷やしたじゃねえか。なんでこの兎を助けたんだよ?」


「悪いな、明次」


 地面にへたり込んだ明次に手を差し伸べ、俺は一言。


「たとえ間接的だとしても、花魚さんが誰かを殺すところは見たくなかったんだ。なんたって――」


 そこで俺は横目でちらと花魚さんを見やり、再び視線を明次に戻した。


「今はまだ、お茶の途中だからな」


「かっこつけやがって」


 明次は俺の手を取り、立ち上がる。二人でがっと拳を打ち合わせた。なぜなら俺らは男の子だからだ。


「いーぃ? 兎さん」


 花魚さんは俺の腕の中のヴォーパル・バニーの頭に手を置き、にっこりと微笑む。


「私の方がかわいいし、私の方が怖いのよ?」


 びくっと怯えるヴォーパル・バニーを見て俺は、女って恐ろしいなあ、などとぼんやり考えていた。


「そんなことはどうでもいい。早く甘いものを食らわせろ」


 ベルドレッドがそう急かしたとき。




「あ――――――っ!」




 部活で遅くなったのだろう、下校中の女生徒が俺たちを見て叫んでいた。

 その茶髪に眼鏡の顔はよく知っている。

 よりによってクラスメイトであり叔母でもある、紡寺つむでらふうだった。なんて間の悪い。

 ここにも一人、厄介な女が増えた。


 さて、この面子をどうやって説明しよう。焦る頭で必死に考える。

 着ぐるみ? CG? ドッキリ? 来週ある誕生日のサプライズの練習?

 来週は俺の誕生日じゃん。主役がサプライズの演出に関わっていたらだめだろ。

脳内でぐるぐると言い訳が生まれては消える輪廻を繰り返す。

 どうにも上手い誤魔化し方はなさそうだと諦めたところで、風は花魚さんを指差し、言った。


「花魚さん! 魔戸を開けっ放しにしちゃだめでしょ!」


「へ?」


 思わず間抜けな声が出る。魔戸のことは秘密にしていたはずなのに。こいつはティータイムに来たことがないのに。

 風。きみ、花魚さんの不思議な力を知ってたのか?

 ……なんで?

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