第一色 殺人兎と万能トング
1. いつも通りの非日常
突然だが、三歩という歩数をどう思う?
悪友は言った。「鳥だったら忘れるよな」。
誰が鳥頭だ。
叔母は言った。「『さ』じゃなくて『ち』だったら危なかったねえ」。
うるせえ。
とにかく俺は三歩という言葉にあまりいいイメージがない。そしてそれが気に食わない。なぜなら――
「三歩。朝飯できとるぞ」
じーちゃんが俺を呼ぶ。そう、三歩とは俺の名前だからだ。
三歩。
溺れる者だって枯れた藁なんかつかまないだろうが、苗字に文句をつけてもしょうがない。
問題は、なぜ「三歩」なのかということだ。
俺は一人っ子だし、家族の中に一歩さんがいるわけでもない。理由をじーちゃんに訊いても、暖簾に腕押しとばかりにはぐらかされる。
特別奇抜な名前や難解な当て字というわけでもないけれど、悪友たちの反応を思い出すたびに、どうしてももやもやする。
なんでよりによって三歩なのか。三歩進んだら、あとはもう二歩下がるしかないじゃないか。俺の名前は生まれたときからどん詰まりだ。
「三歩ー! 朝飯だぞー」
朝、呼ばれた自分の名前へのぼやけた不満を抱えながら、俺はもそもそと布団から這い出た。すっきりとしない頭と気分のまま制服に着替え、がたがたと音の鳴る部屋の襖を開ける。
いつも同じところに足を置くせいで、歩く部分だけやや凹んだ階段板を踏みしめて一階の食卓へ行くと、ちゃぶ台の前でじーちゃんが新聞を読んでいた。
ちゃぶ台の上に並ぶメニューは、湯呑みに注がれた緑茶と、そして目玉焼きとベーコンの乗ったトースト。家は和風な造りの癖に、じーちゃんはパン派なのだ。
「おはよう」
新聞越しにじーちゃんの声を聞く。さっき俺の名前を呼び、これからも呼び続ける低い声だった。この耳のタコは、完治することはないだろう。
「……おはよう」
ワンテンポ遅れて俺も座る。うちにいる家族はこれで全員揃った。
両親もばーちゃんもいないし、見たこともない。間違いなくいるはず、もしくはいたはずなのに、写真すらないのだから俺にとってはじーちゃん以外の家族はUMAみたいなもんだ。
原因はさっぱりわからないけれど、俺には十年以上前の記憶がない。物心ついたときからじーちゃんと二人っきりだった。
それ以前のことを思い出そうとすると、真っ黒な景色しか頭に浮かばない。俺の過去は黒いクレヨンで塗りつぶされているようだった。
昔はよくじーちゃんに両親やばーちゃんのことを訊いたものだが、そのたびに眉をしかめるじーちゃんの顔を見たくなくて、いつしか二人っきりの家族構成に慣れてしまっていた。
「部活は入らんのか」
新聞から目も離さずにじーちゃんが問う。それは質問というより、独り言に聞こえた。
「もう入るタイミングを逃したし、とくにやりたいこともないからね」
「そうか」
そうぼやくじーちゃんの視線はやはり、新聞に預けられたままだった。
俺はじーちゃんが苦手だ。じーちゃんは口数少なく、最低限のことしか話さない。その口調もどこか事務的で、本当に俺のことを孫だと思ってくれているのか、疑問に思うときもある。
これでも昔は俺もおじいちゃんっ子だったはずなんだけどな。画用紙で作った拙い肩叩き券をプレゼントしたこともある。結局じーちゃんはその肩叩き券を使ってはくれなかった。それが地味にショックだったのを覚えている。遠い昔の日の、頼りない思い出だ。
いつからだろう。俺の心がじーちゃんから離れていったのは。
もしかしたらそれは、今のこの家に引っ越してきて、あのお隣さんと知り合ってからなんじゃないだろうか。
俺の関心は磁石のようにあの人に引き付けられ、じーちゃんから引きはがされたのかもしれない。
ベーコンエッグトーストをかっこみ、緑茶の熱さに苦しみながらも喉の奥に流し込んだ俺は通学バッグを手に立ち上がる。
「行ってきます」
「ん」
食卓を離れて玄関に行き、靴を履き替えたところで、背中から声が投げられる。
「三歩」
食卓を立とうともしない声の主に、俺も振り返ったりしない。
「また帰りに花魚さん家に寄るのか」
返事をする代わりに、俺はがらがらと引き戸を閉めた。
「おはよう、三歩くん」
ため息をつくよりも早く、横から声がかけられた。
「おはようございます、花魚さん」
家の中にいたときの窮屈さが吹き飛び、俺は笑顔で左を向く。
うちの左隣には、屋敷が建っている。住宅街の中でひときわ大きく、図書館と植物園が合体したような立派な建物が、お隣の花魚さんの家だ。
その花魚邸の主、
年齢は聞いたことないけど、少なくとも見た目は二十代前半。
ゆったりとしたワンピースの上から淡い色のカーディガンを羽織り、手には黒い指ぬきのロンググローブをはめていた。
腰まで届くさらさらの飴色の髪とロングスカートが箒のリズムに合わせて揺れている。箒にかかる指と、スカートの裾から覗く足首は真っ白で眩しく、アスファルトに反射する朝日の中で輝いているように見える。長いまつ毛は、指でぴんと弾いたらハープのように澄んだ音がしそうだ。
見るものみな新鮮とばかりに好奇心の光の宿っている深い紅茶色の瞳は、まっすぐ俺を見つめていた。
我が家の和室のパンと並ぶ、毎朝見慣れた光景の一つが、邸宅の前で箒をさばく花魚さんの姿である。
花魚家の周りにはいつも何かの葉っぱが落ちているので、それを片付けるのが花魚さんの朝の日課なんだ。今は五月だから、彼女の足元に集まっている緑は、葉桜かな。
春の風に長い髪がそよぐ。飴色の髪は、本当の飴細工のように艶やかに光を反射している。花魚さんのいい香りが運ばれてきた。彼女は少し乱れた髪を手で梳いてから、小首を傾げる。
「毎日学校なんて大変だね」
「慣れればそれほどでもないですよ」
苦笑して返すと、花魚さんは口元に指を立てていたずらっぽく微笑んだ。
「今日もうちに寄ってく?」
「
「待ってるからねー」
小さく手を振る花魚さんに手を振り返し、背を向けて歩き出す。今日一日の元気はすっかり充填完了だ。俺はスキップでもしそうな足取りで学校へ向かった。
スキップといえば、花魚さんと最初に会ったときのことを思い出す。
今の家に引っ越してきたとき、当時高校生くらいだったご近所の花魚さんにじーちゃんと一緒に挨拶しに行ったときのこと。まだ子どもで人見知りだった俺がじーちゃんの後ろに隠れながらも自己紹介をしたとき、三歩という俺の名前を聞いた彼女は、あの人だけは、歌うようにこう言ってくれた。
「きみと私の距離だね」
そう言って、軽やかにスキップをしながら俺の目の前に立ってかがんでから目線を合わせ、にっこり笑みを浮かべたのだ。
そのあとに続く「隣に住んでる花魚です。よろしくしましょう?」の挨拶に俺は何も言えず、ただ熱くなった頭を前に倒すのが精いっぱいだった。
あのときから、俺の心の片隅には花魚さんが住んでいる。ぼーっとしているときや、ドラマや漫画の恋愛シーンを見るたびに彼女のことを思い出してしまう。
この感情がなんなのかぐらいは、さすがに自分でもわかっている。でも、一歩を踏み出す勇気はない。俺の名前はさらに二歩も進んでいるというのに。
そんなことを考えているうちに、学校へ着いてしまった。考え事をしていると時間は急ぐ。不思議なことだが、気にするほどのものでもない。ちらほらいる他の生徒の中に紛れて、制服で個性を塗り潰し、俺は校門をくぐった。
教室に入って自分の席に着いてしばらくすると、勢いよく教室のドアが開けられ、身長の高い男子生徒が入ってきた。長い前髪の隙間から覗く目は、教室に入るや否や俺をロックオンする。
「あっぶねー、間に合った!」
朝のホームルームが始まる直前ぎりぎりに滑り込んだそいつは、何人かのクラスメイトと軽く挨拶を交わして俺の隣の席に座ると、こっちへ身を乗り出してきた。
「三歩、今日のお菓子は?」
「家にあるよ」
「んなこたわかってる。メニューはなんだよ?」
「花魚さん家でのお楽しみ」
教科書ノート筆記用具を出して、机の横に通学バッグをかけながらそいつは口を尖らせた。
「明次もなんか作ってみればいいのに」
「俺? 無理無理。男はお菓子作りできないように神が設定してるんだよ、きっと」
「じゃあ俺はバグかよ」
呆れた眼差しを受けたその男――
爽やかな笑顔に、すっかりこっちの毒気が抜かれる。ほんと、普通にしていればもてそうなのになあ。そういう話はしたことはないが、実際、何度か告白されたことがあるそうだ。
と、そこでちょんちょんと背中を突かれた。上半身をひねって振り返ると、明るい茶髪のぼさぼさ頭に眼鏡をかけた活発そうな女子が口元に人差し指を当てている。
「なんすか、叔母さん」
「なんだ! 叔母さんって言うなこの野郎! ホームルームが始まるから静かにしろって言ってんの!」
「
「はっ、確かに」
急に冷静になったこの少女は
同級生でありながら、じーちゃんが言うにはなんと俺の母さんの妹らしい。
もちろん母さんのことも覚えていないので正直実感はないのだが、母さんの妹ならこう呼ばれても言い返せまいと、俺は礼儀と悪意を込めて彼女を叔母さんと呼ぶことがある。こんな風に。
本人は当然快く思ってはいないが、風の方も俺の名前をいじることがあるのでお互い様である。
「静かにしようぜ、叔母さん」
「ぬぬ、あんたの名前を平仮名にして鏡に映してやるからね」
ほらな、お互い様だ。ちなみに今の風の意図がわからない人は、わからないままの方が無駄な時間を過ごさずに済む。
「ところでねえ、三歩。花魚さん、今日も会った?」
「もちろん。相変わらず元気で美人だったよ」
「美人かどうかは聞いてないっての」
「左様で」
なぜだか風は、毎朝こんな感じで花魚さんの様子を俺に聞く。
別に彼女が花魚さんと親しげに話しているところは見たことないんだけど、どういう風の吹き回しなのやら。
俺の母さんの妹だということは百歩譲って信じるとしても、風が花魚さんとも関係者だとは到底思えない。
いったいなんのために花魚さんのことを気にするのかと訊こうとしたところでスピーカーから鐘の音が鳴り響く。ホームルームが始まった。俺は質問するのをすぐに忘れ、大人しく席で姿勢を正す。退屈でありがたい学校生活が、今日も流れていく。
そして放課後。全ての授業が終わり、疲れた生徒もいる中で、俺と明次は活き活きとしていた。
「いやー、終わった終わった。これで学校から解放されますな三歩氏」
「ああ、家に帰りましょうぞ明次殿」
「あんたら授業中に口調が変わる呪いでも受けたの」
にやにやと話す俺と明次に、風が半眼でつっこむ。
こちとら学校が終わるのを今か今かと心待ちにしてたんだ。大目に見てくれ。
「じゃあ、行こうぜ」
「おうよ」
俺と明次は同時にすっくと立ち上がり、通学バッグを持つ。
「ちゃんとまっすぐ帰んなさいよ」
「叔母さんがおかんみたいなこと言ってる!」
「叔母さんでもおかんでもないわ!」
両手を挙げて怒る風を置いて、俺らはとっとと教室を後にした。風はこれから部活があるから、追いかけてはこない。我ら帰宅部の勝利である。万歳。
風には、俺たちが下校中に道草を食っていることは秘密にしてある。知られたら何かとうるさそうだし、何よりあの不思議なティータイムを説明するのは骨が折れる。信じてもらえるかどうかもわからない。
校門を出た俺と明次は両側に葉桜の生い茂る道を並んで歩く。夕方の五時とは思えぬ日差しの強さだったけど、そよ風のおかげでそこまで汗をかかずに済んだ。途中、明治の家があったがスルーする。目的地にはまだ着いていない。
きらきらと陽光を反射する川の上をまたぐ橋を渡り、商店街を抜けて住宅街へ入ると、巨大な花魚さんの家の一部が見えてきた。あの家はほんとにいろいろ規格外だ。住人も。
住宅街は家の数だけコンクリートのブロック塀が両脇に並んでいるのだけど、花魚さん家だけそれがない。もはや塀で隠せるとかそういう次元の家ではないのだろう。
花魚さんの家が近づいてくると、必然的に俺の家も手前に現れる。俺ん家が花魚家に添えられたパセリみたいだな、と思った。
「ちょっと今日の分取ってくる」
「オーケー。武運を祈るぜ」
明次を我が家の前で待たせて、玄関の引き戸を開ける。靴置き場にはじーちゃんの愛用の下駄が揃えてあった。
俺は息と足音を殺し、ゆっくりと台所へ向かう。鴬張りの床板が鳴る。しーっ。
台所に辿り着き、冷蔵庫の扉を開けて、中からラップのかかったグラタン皿を取り出した。うん、よく冷えている。それを紙袋に入れて、知らず頬が緩むのを感じたとき。
「帰ってたんか」
突然後ろから声がしたので飛び上がりそうになる。しまった。見つかった。
グラタン皿を手に背後へ向き直ると、じーちゃんが腕を組んで立っていた。
「た、ただいま」
「また花魚のところへ行くのか」
じーちゃんの声からはあまり温度が感じられない。この人はいつもそんな感じだ。何を考えているのか、掴みづらい。
「そうだよ」
俺は素直に白状する。何もやましいことはしていないはずなのに、どこか後ろめたい気分になった。
「あんまりしょっちゅう人様の家に入り浸るんじゃないぞ。花魚も暇じゃないんだからな」
「……じーちゃんに花魚さんの何がわかるんだよ」
「わかるさ。お前よりつき合いは長いからな」
これだ。じーちゃんのこの、俺よりもずっと花魚さんのことを知っているような口ぶりが好きになれない。つまるところ、この感情は単なる嫉妬だ。
だからこそ、俺は花魚さんに会いに行く。じーちゃんと花魚さん、二人の間にどんな過去があったかは知らないが、それを未来で追い越すために。
「行ってきます」
逃げるように玄関へ向かうと、じーちゃんもついてきた。
「……なに?」
「買い物に行くだけだ。夕飯までには帰ってこい。気ぃつけてな」
結局、じーちゃんと一緒に家を出ることになった。明次がじーちゃんに当り障りのない挨拶をし、俺たちとじーちゃんはそれぞれ反対方向に進む。
俺と明次は花魚さん家へ。じーちゃんは商店街のある方へ。からころと下駄の音を転がして去るじーちゃんの背中は、ひどく小さく見えた。
「お待ちどお」
明次の肩に手を置き、花魚さん家へ向かって歩くと、三十秒もしないうちに着いた。
改めて花魚邸を見上げると、毎回その外観に圧倒される。
巨大な六角柱の上にピラミッドのような三角が覆いかぶさっている家屋は古城を連想させるし、隣接しているドーム型の家庭菜園スペースはまるで宇宙へ飛び立つロケットの先端みたいだ。いつかそのまま打ち上げられて、花魚さんは月へ帰ってしまわないだろうか。
「いらっしゃいませ」
俺たちが着いたちょうどぴったりのタイミングで古城の扉が開き、中から花魚さんが現れた。俺たちがこの時間に来ることなんてお見通しだし、計ったように出迎えるなんて朝飯前だ。深い紅茶色をした瞳が俺たち二人を吸い込むように誘っている。
「さあ、ブレークタイムとしゃれこみましょう」
ウインクをして中へ招く花魚さんはどこまでも妖しく、たとえそこが地獄に通じていたとしても俺たちは喜んで足を踏み入れるしかなかった。
「いやーすいませんね花魚さん。お邪魔しまーす」
脱いだ靴を手に明次がだらしなく笑う。学校内では決して見せない顔だ。写真に撮ってやろうかと思いつつも俺も靴を脱ぎ、紙袋を提げている方とは反対の手で持った。
「お邪魔します」
長い髪を揺らして歩く花魚さんの後に続きながら、明次がひそひそ声で話しかけてきた。
「やっぱり大人の魅力っつーのかなあ、クラスの女子とは雰囲気が違うよな、花魚さんは」
「お前、お姉さんがいるだろ」
「あれは女にカウントされねえから」
姉というものは理不尽の塊だ、と明次はぼやいた。そういうものなのか。俺にはじーちゃんしかいないからわからない。
花魚邸を奥へ進むと、家庭菜園スペースへと続く渡り廊下がある。花魚さんの先導でそこを通っていくと、徐々に両サイドが緑で埋め尽くされていった。気分はジャングルに迷い込んだ探検隊だ。
渡り廊下を抜け、家庭菜園スペースに入ると辺りはすっかり名前も知らない植物まみれになり、湿った空気の匂いが鼻に飛び込んできた。
床が石畳に覆われたところで、俺たちは再び靴を履き直す。ここは土足でいいのだ。というか、土足じゃないとうっかり得体のしれない植物の実や蔓を踏んだときが怖い。
地面にかぶさる大きさも色もとりどりの石が、植物の生えていない箇所を示す道となり、俺たちを導く。
ここに生えている植物はどれも見たことがないものばかりだ。
一輪なのに、花びらの色が一枚ずつ違うカラフルな花。
天井からぶら下がっている、人間の指のような五本の突起が突き出ている蔦。
延々と渦を巻き続ける巨大なゼンマイもどき。
大人の腹も貫けそうな棘を幹から生やし、てっぺんにオーロラ色の大輪を咲かせる大木。
どんなに図鑑やインターネットで調べても見つからない珍種の植物を、花魚さんは見事に管理している。
ドーム状の天井からは光が惜しみなく降り注ぎ、室内にもかかわらず何条もの天使の梯子ができている。そしてひときわ大きい光の帯が、中央に設えられた丸テーブルと三脚の椅子を主役のように照らしていた。
「おや、今日はプディングだね」
席に座るように促しながら花魚さんは言った。まだ何も見せてないというのに、さすがだ。
「プリンを作ったのか?」
椅子に腰を下ろして明次が目を丸くする。
「ちょっと違うよ」
俺は紙袋をテーブルの上に置き、中からグラタン皿を取り出してラップをめくり取る。
皿の中ではカットされた食パンがカスタードソースに浸かって並んでいた。
ブロック状に切った食パンの上から卵と牛乳と砂糖を混ぜた卵液をかけて、染み込ませてからオーブンで焼き上げたパンのプディングだ。
レーズンを入れてもよかったな。本当は出来立てを持ってきたかったけど、帰ってから作っていたら時間がかかるのでしょうがない。
「なら、ミルクティーにしましょう」
花魚さんはぽんと手を打ち鳴らし、無邪気に微笑んだ。
テーブルの上には、さまざまなティーセット一式が用意されている。丸形のティーポットや、茶葉の入ったティーキャニスター。ソーサーに乗ったティーカップとティースプーン、それにヤカン。紅茶を濾すストレーナーからティーポットに被せるポットカバーと、なんでもござれだ。
もちろんかわいらしいミルクピッチャーもある。道具の名前は全部、花魚さんに教えてもらって覚えたものだ。ちなみに明次はまだ全部覚えられてはいない。勝った。
「ちゃちゃっと淹れるから待っててねー。お茶だけにお茶だけを」
なんとも反応しづらいことを言ってくれる花魚さん。本人はご満悦そうだから何も言うまい。
「なあ、三歩」
半笑いのまま明次がこっちを向く。
「なんだよ」
「水を差さない方がいいよな?」
「お茶だけに?」
「うるせえ!」
怒られた。つい花魚さんのがうつってしまったかな。
俺たちがくだらない会話をしている間にも花魚さんは手際よくティーポットに茶葉を入れ、ヤカンからポットにお湯を注ぎ、だんだんヤカンを持ち上げていった。その様はまさに踊るようで、思わず見入ってしまう。
ポットの中で勢いよくお湯を入れられた茶葉が浮かんでは沈みを繰り返す。ジャンピングというやつだ。
普通は二、三十センチ上からお湯を注ぐものらしいが、花魚さんは五十センチ以上の高さから入れている。しかもそれでお湯が跳ねずに一滴もこぼれていないというのだから、見事なものだ。
「よくそんな高いところから注げますねー」
明次の感嘆の声に気をよくした花魚さんは、お湯を注ぎながらふっふーんと器用に胸を張った。豊かな胸が強調される。
「調子のいいときなら東京タワーの上から地上のティーポットに注げるよ」
「まじすか!?」
驚く明次だが、俺は知っている。花魚さんならやりかねないということを。
ポットの中のジャンピングを眺めているうちにあっという間に時間は経つ。茶葉が十分に蒸れたのを確信した花魚さんはもう一つの空のティーポットの上に、金属でできた金魚すくいのポイのようなストレーナーをかざして、さっきのポットの中身を注いで移し替えていく。こうして茶葉を濾すのだ。
「はい、できたよー」
最後の一滴まできちんと注ぎ終えた花魚さんは、濾された紅茶の入ったポットを掲げた。かんぱーい、のテンションとおんなじだ。
三つのティーカップに均等に紅茶を注ぎ分ける花魚さん。三つ目のカップには、最後の一雫まで残さずにしっかり淹れた。
「最後の一滴はゴールデンドロップと呼ばれていてね。一番紅茶の成分が抽出されて濃くなっているから、主役とも言えるんだよ」
そう解説しながら、花魚さんは俺と明次の前にそれぞれティーカップを置く。紅茶のいい香りが鼻をくすぐった。
「さ、ではミルクを入れましょうかね」
ミルクピッチャーが配られ、三人の前にティーセットが揃う。テーブルの中央にはパンのプディング。ブレークタイムの準備は完了だ。
カップの中にミルクをたらりと流す。深く赤い水面に、真っ白な線が飛行機雲のように描かれた。かき混ぜようとティースプーンを紅茶の水面に差し込むと、かちん、とカップの内側に当たってしまう。行儀が悪かったかな、と思った瞬間。
「いてっ!」
ティーカップの中から声がした。カップが喋った? いや、違う。中身の紅茶の方が喋っているんだ。
なぜわかったかというと、紅茶の表面を揺蕩っていたミルクの線が曲がりくねって渦を巻き、人の怒り顔のような模様になっていたからだ。
「おい、小坊主。もっと優しくかき混ぜろ!」
やたら偉そうなミルクティーの物言いにかちんときた俺は、むきになって言い返す。
「小坊主じゃない。俺はもうすぐ十六だ」
「はっ、俺様から見たらまだまだ小坊主よ」
「淹れられて三分のミルクティーが何を言う」
ミルクティーと口喧嘩する俺を、明次はぽかんと、花魚さんは楽しげに眺めている。二人のミルクティーはどちらも普通で無口だ。羨ましいなあ。
花魚さんとのティータイムで不思議なことが起こるのは日常茶飯事なので、このぐらいでいちいち驚くのももう飽きている。
「だいたい、本来はミルクをカップに入れた後で紅茶を注ぐのが完璧な淹れ方だろうが。そんなことも知らねえのか小坊主」
「そうだったんだ」
花魚さんの方がびっくりしていた。知らなかったんすか。意外。
ならば花魚さんのためにも弁明せねばなるまい。
「お茶の楽しみ方なんて人それぞれだろ。完璧とか正式とか正解とか、そんな息の詰まるものを気にして飲む紅茶が美味しいもんか」
「世の中には礼儀と流儀ってもんがあるんだよ!」
「ええい、うるさい!」
俺はティースプーンで乱暴に紅茶をぐるぐるとかき回した。ミルクと紅茶が混じり合い、表情が消えていく。
「何をす――やめ――ふざ――」
完全に均等にかき混ぜられ、薄茶色になったミルクティーの野郎はそれっきり静かになった。
生意気なミルクティーの最期を見届けた俺は、カップを傾けて少し口に含む。まろやかな勝利の味がした。
カップをソーサーに置くと、明次が感嘆の息を吐いた。
「やっぱり花魚さん家のブレークタイムは飽きねえなあ。どんなテーマパークより面白えや」
「だろ?」
「なんで三歩が得意げなんだよ」
だってお隣さんだもの。
「二人とも、これからもっと不思議なことが起こるみたいだよ」
意味ありげに含み笑いをする花魚さんの持っているティーカップの表面に波紋が広がる。まるで何かが現れる予兆のように。
その予感は正しく、花魚さんの紅茶から濃厚な湯気が漂い、空中で渦巻いて直径一メートルほどの円になった。
「ほぅら、
花魚さんが魔戸と呼ぶその穴は、俺たちのいるこの世界と別の世界をつなぐ出入り口だ。
原理は知らないし聞いたところでわからないだろうが、魔戸を通ってさまざまな「お隣さん」がやってくる。それは日によって妖精だったり怪物だったり幻獣だったりするのだが、今日はいったいなにがやって来るのだろうか。
食い入るように魔戸を見ていると、中心から何かが飛び出してきた。
白いボールに似た、意外と小さいものだった。家庭菜園スペースの床に着地したそれは、かわいらしい一羽の兎だった。
俺たちの知っている兎とほぼ同じ外見で、大きさはバスケットボールぐらい。普通の兎との違いといえば耳がやたら光を反射してきらきらと光っていることぐらいか。正直、他の世界の生物とは思えない。兎はつぶらで真っ赤な瞳で順番に俺たちの顔を見る。
柔らかそうな毛皮は粉雪のように白くさらさらで、撫でたらさぞ気持ちよさそうだ。というか今すぐ撫でたい。
そう思ったのは明次も同じらしく、やつは兎のそばでしゃがみ込む。あっ、先を越された!
「なんだお前、どこかの学校の飼育小屋から逃げ出してきたのか?」
笑いながら手を差し伸べる明次はあまりにも無警戒だ。その甘さが命取りだった。
兎はその隙をつき明次に飛びかかり、彼の首目がけて耳を高速で振り回す。その真っ白な耳は鋭利な刃物と化しており、明次の首を刈り取って真っ赤に染まる――!
が、それよりも一瞬早く花魚さんは明次の椅子を足で払い、体勢を崩させる。急速に椅子ごと下へ落ちた明次のすぐ上を、ジャンプした兎が通り過ぎる。二本の耳が鋏のようにがちぃんと空を切って打ち鳴らされる。
再び反対方向に着地した兎はこちらへ向き直り、再度飛びかからんとじりじりと動きながら俺たちをつぶらな瞳でロックオンする。
かわいい顔して、殺しにかかっている!
「ヴォーパル・バニーだね。人の首を刎ねようとする、危険なうさちゃんだ」
「うさちゃんとか言ってる場合ですか花魚さん!?」
そんなとこもかわいいけども!
払った足を戻して花魚さんは立ち上がる。その仕草こそ優雅だったものの、いつもの余裕は見て取れなかった。俺も席を立ち、尻餅をついていたままの明次を起こす。
「赤の駅の住人は血の気が多くって、ほんと、大変」
花魚さんが口にした赤の駅というのは、先ほどの魔戸で通じている別の世界のことだ。
俺たちの住んでいる世界の他にも世界はいくつもあって、それぞれ赤の駅、青の駅といった風に色の名前で呼ばれている。ちなみに俺たちのいるこの世界は茶色の駅となるらしい。
それぞれの駅は、花魚さんの淹れる紅茶の湯気という、か細い線路で繋がっているのだ。
「三歩くん、明次くん。いったん逃げようか」
「花魚さんもですよ」
「私はいいの。私は、最後に笑うから」
人に逃げるよう促して自分は一歩も動かない花魚さんは、ヴォーパル・バニーから目を離さずにティースプーンを手に取り、指で軽くはじく。すると、物理法則を無視してティースプーンはぐんぐんと縦にも横にも大きく伸び、花魚さんはそれを薙刀のように構えた。
「なあ、三歩。逃げようぜ」
明次の言うことはもっともだ。
「怖いからってのもあるけど、俺らがいたところで、花魚さんが戦いやすくなるわけじゃねえだろ?」
「ああ」
わかってるさ。足手まといだってのは痛感してる。
でも、友だちを殺されそうになって、冷静でいられるわけがない。
俺は椅子を持ち上げ、ヴォーパル・バニーに殴りかかった。
「けど、かっこぐらい、つけさせろ!」
無謀だと笑えばいい! だけどこうでもしないと気が済まない! 何より花魚さんがいるんだ。
迫りくる椅子の一撃をヴォーパル・バニーは跳んで躱す。そうくるだろうと思ってたから、俺はこうするんだよ。俺は空中にいるヴォーパル・バニー目がけて、渾身の力で椅子をぶん投げた。錐もみしながら兎を目指す椅子を見て、内心ガッツポーズをとる。当たる!
が、ヴォーパル・バニーは両耳を竹とんぼさながらに高速で回転させ、浮いたまま水平に横に移動した。飛べるのかよ! そうくるとまでは思わなかったわ!
「三歩くん!」
花魚さんが叫ぶが、ヴォーパル・バニーの方が速い。勝手に動いた罰が当たったな、これは。
ヴォーパル・バニーはまっすぐ俺に向かって空を駆けてくる。刃の耳が俺の首元に近づいたとき、俺は、
ああ。だから兎は一羽二羽と数えるのか。
と、そんなくだらないことを考えていた。
そのとき、何者かに背中を思いきり突き飛ばされた。首を刎ねられるすんでのところで俺は前へ転び、耳の刃を避けることができた。背中が妙に熱い。
誰だ? 花魚さんは俺の前にいるし、明次でもなさそうだ。
倒れた俺はすぐさま起き上がり、見た。
俺の飲んでいたティーカップから薄茶色の手が伸び、ぽたぽたといくつも雫を垂らしているのを。
「……ミルクティー?」
俺の呼びかけが届いたのか、液状の手はぐっと親指を立てる。そして、それからヴォーパル・バニーに真っ二つに切り裂かれて地に落ちた。
「ミルクティー!」
床に薄茶色の水たまりが広がる。俺はそこに手をつき、必死で集めようとしたが、覆水は盆に返らない。こぼれたミルクティーはただの甘い液体となって、床に染み込んでいく。
「…………」
あいつは確かに生意気なやつだった。口は悪いし屁理屈をこねるし、上から目線で俺を小坊主呼ばわりしてきた。両手でミルクティーを救い上げる。俺の手からミルクティーはこぼれ落ちて去っていった。
だけど、真っ二つにされるほど、悪いやつじゃなかったのに。
「私のお茶を、無駄にしたな?」
とたん、ぞっと冷え込むほどの声が聞こえてきた。
花魚さんがティースプーンを手に、ヴォーパル・バニーを睨みつけている。彼女の周りに紅茶の湯気が集まり、竜巻となって吹き荒ぶ。花魚さんの長い飴色の髪がばさばさと乱れて弄ばれている。
花魚さんが、怒っている。それを感じただけで俺は息が苦しくなり、全身を蛇に絞めつけられたみたいに動けなくなってしまった。ちらと目線だけを横に向けると、明次も俺と同じく全身を強張らせていた。
ただごとならない異変を察知したのだろう、ヴォーパル・バニーは急に回れ右をして俺たちに背を向け、家庭菜園スペースのガラスを突き破って外へ逃げ出した。ガラスの破片がダイアモンドのように光って降り注ぐ。
花魚さんを中心に吹き荒れていた湯気が散り、さっきまで発せられていた威圧感が消え失せる。
花魚さんはくるりと振り返り、人差し指を立てた。
「三歩くん。だめでしょー。危ないときは年上の意見を聞かなくちゃ。いくらかっこつけても、あのまま死んじゃったらかっこ悪かったんだからね」
「……はい、ごめんなさい」
「素直なのはよろしい」
言って、花魚さんは頭を撫でてきた。明次が羨ましそうに見ているが、俺は恥ずかしさでいっぱいで、代われるものなら代わってやりたかった。はい、嘘です。
「さて」
俺の頭から手を離し(正直ちょっと名残惜しかった)、花魚さんは小首を傾げる。
「じゃあ、外に逃げたあのうさちゃんを探しに行くけど、ついてくる?」
「いいんですか?」
花魚さんはにっと笑った。
「今度は私のかっこいいところ、見せてあげる」
周りに生い茂っている植物たちが、期待に拍手をするようにざわめいた。
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