花魚さんのお隣さん

二石臼杵

序色

美女と魔獣とじーちゃんと

 俺のじーちゃんはださい。毎朝新聞を読みながら緑茶をすすっている。そっから一日中、石みたいにじっと動かない。歳を取ってもああいう風にはなりたくないもんだ。


「そういうこと言っちゃだめでしょー?」


 お隣の花魚はなさかさんは笑ってたしなめる。彼女の淹れてくれた紅茶を飲みながら、俺はしぶしぶ頷いた。

 花魚さんは十年前にうちが引っ越してきたときからお隣に住んでいるお姉さんで、いつも紅茶とお茶菓子を用意して学校帰りの俺を誘ってくれる。俺も育ちざかりの高校生なので、夕食の前に彼女の家にお邪魔して小腹を満たすというわけだ。


「ね、美味しい?」


「はい」


「よかったあ」


 花魚さんは小首を傾けて微笑む。持っているティーカップの延長かと思うほどに白く艶やかな指が色っぽく折れ曲がり、カップの縁に付けられる唇は春を思わせる桜色だ。

 彼女はもう大人のはずだけど、たまに見せるお茶目な仕草が魅力的で、だから俺もお隣さんの立場を利用してついつい入り浸ってしまうんだ。

 じーちゃんからはあまりしょっちゅう人ん家に上がり込むんじゃないと注意されるが、知ったことか。俺は口に含んだ紅茶を味わいながらカップをソーサーに置き、辺りを見回す。

 花魚家はとにかく広い。今、俺たちがブレークタイムを楽しんでいるのは庭の家庭菜園スペースで、俺と花魚さんの座っているテーブルと椅子の周囲には見たことのない植物がのびのびと生い茂り、ちょっとした植物園のようにもなっている。花魚さんはここで紅茶の茶葉を育てているらしい。

 そんな緑色に囲まれた空間に紅茶の湯気が漂う。湯気は意思を持ったかのように空中に円を描き、穴を作った。


 その穴の向こうから、何か巨大な目がこちらを見つめているのが見える。

 瞳はだんだんこちらに近づいてきて大きくなり、やがて湯気の穴を突き破って黄土色の鼻の頭が覗く。

 生温かい息を吐き出しながら、そいつは穴を通ってこちら側へと這い出てくる。

 穴の縁に鋭い爪を引っかけ、露わになっていく巨体と二本の角、そして鱗の生えた羽。現れたのは、角と翼を生やした全長十メートルにもなるトカゲ、すなわちドラゴンだった。

 意表を突く来客を見た花魚さんは、笑顔のまま冷や汗を流す。


「あちゃー、今回はまずいかも」


 今回「も」の間違いでしょう。そう心の中でつっこむ。

 花魚さんとのお茶の時間は毎回こんな具合だ。彼女は俺の大切なお隣さんだけども、死神のような一面も持っている。

 というのも、花魚さんの淹れる紅茶は絶品すぎて、他の世界からさまざまな生き物がその香りにつられてやってくるのだ。

 もちろん、それらがすべて無害なものという保証はない。

 死もまた、お隣さんだと言える。


「替えのティーセットを出そうにも間に合わないかも」


 珍しく焦る花魚さん。幻獣たちは紅茶を飲めば落ち着いて帰ってくれるのだが、ドラゴンが現れた衝撃でティーセットが壊れてしまったようだ。

 ……おっと、これはひょっとして、大ピンチじゃないか?


 ドラゴンは怒り狂ったように吼え、大きく息を吸った。

 鱗の生え揃った喉がぼこりと膨れ、その丸みは徐々に上へ上へとせり上がってくる。牙の間から火の粉が漏れた。何を吐き出そうとしてるのかは言うまでもない。


「花魚さん!」


 俺はとっさに花魚さんの前に立ち、ドラゴンの炎を浴びて骨になるのを覚悟した。いや、骨すら残らないかもしれない。

 でも、憧れの人のために体を張れるならしょうがないか。

 炎の色は青紫色だった。膨大な熱とともに目前に迫るそれを、こんなときにも関わらず、のんきにもきれいだなと思ってしまった。

 俺の脳裏に走馬灯がよぎる。最後に思い出したのは、なぜか緑茶をすするじーちゃんだった。

 ドラゴンが死の炎を吐き出したそのとき。



「俺の孫に、なんばする!」



 走馬灯の中から飛び出してきたのかと思うようなタイミングで駆けつけたじーちゃんが、ドラゴンの横っ面を拳骨でぶん殴った。

 ドラゴンの首が曲がるのにつられて炎が逸れていき、地を舐める。

 焦げ臭い匂いが辺りに漂った。黒く焦げた地面のところどころに青紫の残り火がちろちろと揺らめいている。周りの植物に着火しなかったのは実に奇跡だ。

 ドラゴンは殴打の勢いで、空間にぽっかりと口を開けた穴の中まで吹き飛ばされ、みるみるうちに小さくなっていった。

 きっと、これでどこかのあるべき世界へと帰っていってくれたんだろう。


「……じーちゃん?」


 俺たちの前に立つじーちゃんは、少し荒っぽくなった息遣いで肩を動かしていた。

 渾身の力で俺のためにドラゴンを殴り飛ばしてくれたじーちゃんは、テレビの中のどのヒーローよりも光り輝いて見えた。

 けど、やはりもう無理をさせてはいけない年齢なんだという実感を見て取ってしまって、胸の奥がちくりと痛む。


 やがて呼吸を整えたじーちゃんは、じろりと花魚さんを睨む。花魚さんの華奢な体がぎくりと強張ったのがわかった。


魔茶マティーを使うのもほどほどにしとけよ、花魚さんよ」


「ひいっ、ご、ごめんなさい……!」


 しょんぼり肩を落とす花魚さんを見たじーちゃんは背を向け、背中越しに俺に声をかけた。


「帰って一服やろうや」


「お、おう」


 戸惑いながらも、俺は子どものように――孫のように素直にうなずいて、じーちゃんの背を追いかけた。



 我が家に帰ってきた俺たちは、緑茶を飲む。

 お互いに何も話すことはなかった。ただ、沸いたお茶を飲むだけの時間。けれども、それはどこか安心のできるひとときだった。

 ぷはあと一息ついたじーちゃんは、まっすぐに俺の目を見て、笑った。


「人さんを守ろうと命かけるたあ、さすが俺の孫だ」


 そう言ってじーちゃんは再び湯呑みを傾ける。

 俺も緑茶をぐびりと飲んだ。

 いつもは苦くてださいと思っていたこの味が、今は少しだけ好きになった。

 これは、俺とじーちゃんと花魚さんの、命がけのご近所づき合いの話である。

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