星のない男
その日、飛行船の客室で目覚めたジンジャーは、起き出してすぐ武装を完了した。
ガンベルトを着け、拳銃を左前のホルスターへ、スクロールランチャーは新たに取りつけた腰の後ろのホルスターへ差し込む。履き慣れたブーツにはワックスを掛けた。頭にかぶった中折れ帽は、もうトレードマークだ。
ジンジャー。銃を握って荒野を旅した『赤毛の魔女』と呼ばれる賞金首。
今日はその魔女の最後の日となる。『最後の敵』が現れるのだ。
ジンジャーは食堂で一杯のミルクと、黄身を潰した目玉焼きとスライスしたハムとキュウリを挟んだサンドイッチを腹に収めた。
動けないほど満腹になってはいけない。腹の中で戦うためのエネルギーになればいい。
ラウンジに旅行鞄を持ち込んで、空の旅に飽き始めていた大人たちの談笑を聞き流す。
やがてエールが脳裡に囁いた。
『出現しました。まもなくニューコークに到達します』
うん、と頷いて、ジンジャーは飛行船の荷物の搬入口へ向かう。すれ違う乗務員たちからにわかに慌ただしさがにじみ出る。まだ船員の隅々までは伝わっていないのだろうが、飛行船にも『最後の敵』出現の報が通信からもたらされたらしい。
「お客さま、こちらは立入禁止となっています。あちらのラウンジへお戻りください」
船員用通路を進むジンジャーが搬入口の手前で見咎められる。彼女は応じず、若い乗務員を意志の強い視線で睨み返した。
「ニューコークへはいつ着くの?」
「現地でトラブルが発生しており、ただいま当機は着陸地点を変更予定です」
「知ってる。あれのせいよね」
ジンジャーは首を傾げ、船窓を覗き込む。
遠くにニューコークの都市を望む。白い外観の瀟洒な家々が並び、ジンジャーが見たこともないような空を衝く摩天楼が林立する。東西大陸の人と物が行き交う港湾都市として発展を遂げた西大陸の玄関口だ。本来ジンジャーが乗りつけるはずだった巨大な駅舎からは、西へ向かっておびただしい数の線路が延びている。ここから合州国じゅうに人とモノとカネが送り出され、同時にそれらを吸い上げていく。国という姿のない生き物の心臓を担う、巨大なポンプのごとき都市がそこにあった。
その都市の港に白い人の姿が見えた。この距離で人の大きさが確認できるはずがない。巨大な、あまりにも巨大な魔獣が突如として海に現れたのだ。
「あれが『最後の敵』……。大きいだけなんてひねりが足りないわね」
『単純なものほど手ごわいですよ』
ジンジャーは乗務員に向き直り、告げた。
「途中下車をさせてもらうわ。わたし、行かなくちゃ」
何を言っているのか、と問おうとした乗務員の言葉は途中で途切れた。
突然ジンジャーの金髪が目の前で赤く輝きだしたからだ。
「あ、『赤毛の――」
「それは今日で店じまい。別の名前でも考えないとね」
ジンジャーは搬入口の気密扉に辿り着き、手を掛けた。
「ねえ、エール。これが最後かもしれないから、今まで言えなかったことを告白するわ」
『なんでしょう』
「あのね、エンゼルフェザーとかジャッジメントレイっていう、あの必殺技の名前。あれ絶妙にダサいわよ」
『カッコいいです』
「いや、絶対にダサ――」
『カッコいいんです。あれが。お嬢さまには理解できないだけで』
そういうことにしておくわ、と苦笑して、ジンジャーは乗務員へ振り返る。
「いらない説明だろうけど、部屋の気圧が下がりきるまで近づいちゃダメよ。外に吸い出されちゃうから」
ハンドルを回し、気密を解除して扉を横に引き開けた。
「ばっ、バカ野郎ッ!」
乗務員の罵声を背中に受け、ジンジャーの身体は空に吸い込まれた。
飛行船のプロペラに吸い込まれる前に、全身が赤い光に包まれる。
次の瞬間には『紅鋼の巨人』が飛行船に並んで空を飛んでいた。
巨人は船窓の向こう側で腰を抜かしている乗務員に小さく手を振り、赤い残光を引いて凄まじい速さでニューコークへと飛翔した。
「エール。会敵まで何秒かかる?」
『お嬢さまが望まれるなら一秒もかかりません』
「稲妻のスピードで駆け抜けるわ」
ニューコークの街はすでに混乱のるつぼにあった。屈強でならした港湾作業員たちは慌てふためき、仕事を放り出して逃げだした。三つ揃えを着こなす会社員たちも同じだ。街から脱出しようとする馬車たちで街路は詰まり、身動きの取れない状態になっている。
その頭の上を横切って、そびえ立つビルの中腹に何かが突き刺さった。船だ。魔獣が手で掴んだ船を投げつけてきた。損壊した建材と船の残骸が雪崩を打って逃げ惑う人々に降り注ぐ。石を投げ込んだ水面のように悲鳴が波打って広がっていった。
『最後の敵』――天を衝く巨大な魔獣は、昼光を照り返す銀色の毛並みに全身を覆われた猿の姿をしていた。
ビルの谷間に巨体を押し込めるように駆け込んで、人も物も踏み潰し、すくい取っては辺り構わず投げつける。赤黒いシミが外壁のあちこちに飛び散った。巨大な猿はその手足をビルの谷間に突っ張って、すいすいと壁面を登っていく。やがて直接、窓枠に指を掛けて最も背の高いビルの屋上に辿り着く。
ニューコークの象徴たる摩天楼を支配して、屋上に立ち上がった巨大な猿は街じゅうに吠え声を響かせる。
世界中を威嚇していた。奴にとって自分以外の全てが敵だった。いや、奴に敵うものなど存在しない。自分以外の全ては握り潰して遊ぶためのおもちゃだった。
快哉を叫んだとき、猿の胸に赤い稲妻が突き刺さった。奴にとってこの世で唯一『敵』となりうる存在の、最速最強の一撃だ。『紅鋼の巨人』がそこにいた。
神速の飛び蹴りを受け、摩天楼から落下する巨大な猿に、赤い巨人が追いすがる。
「死ねェえええッ!」
ジンジャーは大猿のみぞおちに踵をめり込ませて、地上へ落下する。猿はその脚を両手で掴み、引き剥がしにかかる。
高速で景色が上方へ吹き抜けて過ぎる中、巨人の脚がみぞおちから浮かされる。
銀と赤。ふたつの巨体が地面に落下した。衝撃があたりに伝わり、建物の窓ガラスが光の雨のように降り注ぐ。巨人の脚は強大な腕力で持ち上げられ、みぞおちには何のダメージは無い。ジンジャーはにやりと口の端を釣り上げた。
「蹴りは囮よ」
落下地点に回り込ませておいたエンゼルフェザーの一葉が猿の後頭部を刺し貫いていた。
「裂けろォ!」
フェザーの対消滅エネルギーが解放され、敵の耳から上が消滅する。巨人の脚を掴んでいた大猿の手が力を失ってしなだれた。
だが剥き出しになった頭の断面からは肉が盛り上がり、即座に元の形状を復元する。
危険を察知したジンジャーは飛び退いて敵と距離を取った。
『『最後の敵』――神の使いだというなら、ハヌマーンとでも呼称しましょうか。やはり一筋縄ではいきませんね』
「ゴーレムみたいに外から素材を吸収してるわけじゃない。ゼロから身体を元に戻してるんだわ」
『時間を遡行させて修復しているのか、規定された状態に無から復元しているのか。どちらにせよ莫大なエネルギーを使います。脳を吹き飛ばしても発動できることから見て、魔法を扱うプロセッサと巨大なエネルギー転換炉が存在するはずです』
「脳を潰しても生き返る。怪物は心臓に杭を打ち込まないと死なないってことね」
納得し、ジンジャーは手首を交差させて必殺の構えを取る。
「起き上がってくるのを待つ義理は無いわ。死ね! 必殺・情け無用光線!」
『ジャッジメントレイです。カッコいい名前なんですから使ってください』
放たれた破壊光線は大猿――ハヌマーンの胸へ注がれる。
直後、光の束は銀色の体毛を伝って全身に流れ、身体の末端で無数の光の飛沫となって飛び散った。光の雫は建物に飛び火して外壁を穿ち、屋根に穴を開ける。遠巻きに人の悲鳴が聞こえた。
『光の力に対して異常に伝導率の高い外皮をしています。ジャッジメントレイはおろか、転換炉の位置を透視することも防がれました。『試練』を必ず終わらせる『最後の敵』という看板に偽りは無いようです』
巨人の力をふるうジンジャーにとって、最も怖ろしい敵は、周囲を巻き込む無差別攻撃でも、姿を隠して忍び寄る暗殺者でもない。『紅鋼の巨人』でいられる三分間では倒しきれない持久力をもった敵である。
『最後の敵』はまさしくこの弱点を、これ以上ないかたちで突いていた。巨人をしのぐ巨体と、巨人が司る光の力を受け付けない外皮。あらゆるものを破壊する腕力と本能。そして不死身の肉体。『試練』を必ず抹殺するためだけの存在といえた。
「エール。敵の弱点を探して。透視がダメでも音の反響があるでしょう」
『エコーですか。体内に打撃を浸透させてください。残りの二分で仕留めましょう』
「そんなに手間取るかしら?」
強がりを口にするジンジャーの眼前で、ハヌマーンは立ち上がる。
鋭い牙が生えそろう口を開くと、その口中に青白い光が灯り、膨れ上がる。
危険を察知し、ジンジャーは地面を蹴った。ハヌマーンの顔がそれを追い、光の溢れた口からは『紅鋼の巨人』が撃ち出したものに相当する破壊光線が吐き出される。
巨人は空中で翻り、空を翔る。ハヌマーンの光線がその後を追い、ニューコークの街を薙ぎ払った。
「やっぱり手間取りそうね」
ジンジャーはエンゼルフェザーを展開。数枚をハヌマーンの眼前に投げつける。フェザーが弾け、対消滅エネルギーが大猿の顔面を消滅させる。光線が止まった隙を逃さず接近。
巨人の拳が敵の胸板を打つ。続けざまに腹に拳打と蹴りを浴びせ、深く踏み込む。
懐に入り込みすぎたせいで巨人の腕はハヌマーンに掴まれる。すでに吹き飛ばした顔面も元通りだ。ジンジャーは焦らず、大猿の手にフェザーを突き立て手首を消滅させる。猿の手が街路に落ち、大きな乗合馬車を叩き潰した。
ハヌマーンは手が欠けたことなど気にも留めず、反対の拳で巨人を殴りつけた。
腹を木杭で貫かれたような衝撃が襲う。巨人は身体をくの字に折って家々をなぎ倒して吹き飛ばされた。
「手足の長さで負けてるわね……」
『お嬢さま。エンゼルフェザーの操作を預かります』
立ち上がった『紅鋼の巨人』から、肩を守っていた銀の鱗が剥がれていく。それらは左右の手の甲に集まって、一対の剣身を形作る。同時に背中を覆っていた銀鱗が翼のように左右へ広がった。
『モード・サンダルフォン。攻撃特化形態です。リーチの差は左右の剣で補ってください。先程の打撃による反響は現在解析しております。敵は切り裂いて構いません』
「背中の羽は?」
『天使みたいでカッコいいでしょう』
「み、見かけ倒し!」
『ユーモアです。展開した翼は光線の防御と刃の補充を担う遊撃装備です。前面に残した装甲はお嬢さまの肉体を守るために必要なので使えません』
ジンジャーが内心で頭を抱える頃、彼我の距離が開いたと見たハヌマーンは再び破壊の咆哮を雄叫ぶ。
背中の翼から多数のフェザーが飛び出し、破壊光線を受け止めた。青白い光が飛び散り、街にさらなる破壊をもたらす。
ジンジャーは翼をはばたかせ、ハヌマーンへと飛びかかる。剣を縦横に振るうと、接触した刃が敵の身体に食い込んで剥がれ落ちる。即座に対消滅エネルギーが解放され、猿の肉片があたりに飛び散った。
「浅い……」
瞬く間に肉体を復元し、ハヌマーンは襲い来る。突き出した両手を剣に刺し貫かれながら、巨人の両腕を掴んで身動きを封じる。牙を見せつけ、口中に破壊の光が膨らみ始めた。
両手を塞がれたジンジャーは心の中で舌打ちをして、左手側の剣を全て対消滅エネルギーに変換。左手の消滅と引き換えに拘束を脱する。同時に、足元に転がる切り落としたハヌマーンの手を足で蹴り上げる。とてつもない重量の肉塊が顔の高さまで跳ね上がる。ジンジャーは半ばから無くなった左腕で、蹴り上げた手を持ち主の口に押し込んだ。
「それ返すわ」
光の力を伝導する表皮に破壊光線のエネルギーが伝わり、口の中で破壊の光が暴れまわる。ハヌマーンの後頭部はまたもや吹き飛んだ。すかさず右手の拘束を解く。
『お嬢さま。解析が完了しました。敵のエネルギー転換炉はみぞおちの下。胃袋のあたりにあります。転換炉は対消滅エネルギーを吸収します。フェザーで露出させてジャッジメントレイで破壊してください』
「『最後』の終わりが見えたわね」
エールの報告を受け、ジンジャーは右手の剣を振りかざす。
頭部の再生を終えたハヌマーンは宙返りを打って剣をかわす。ほんの数秒の斬り合いで間合いに対応している。
まさしくマシラのごとく身軽な動きでジンジャーを翻弄し、ハヌマーンは高く跳び上がって急襲する。巨人の剣と残り少ない翼で繰り出される連撃を迎え撃ち、ほとんどのフェザーと引き換えに片腕を切断する。
だが大猿のひざ蹴りを浴びせられ、ジンジャーは地面に蹴り倒された。
仰臥する巨人に馬乗りになり、残った片腕を拳を固めて振りかぶる。
「エール! 胸のフェザーを!」
『了解。残り十秒です。我らに勝利を!』
最後の防備である胸の装甲が弾け飛び、ハヌマーンの前面に突き刺さる。瞬間、対消滅。
とうとう『最後の敵』の胸の内が露になり、脈打つように輝く転換炉が姿を現した。
『紅鋼の巨人』は右手で指鉄砲を作り、指先に光を集束させる。
「さようなら。ミスター『
ジンジャーが破壊光線の引き金をひいたとき、ハヌマーンはその口を開いた。
口をきいた訳ではない。口内から物を吐き出したのだ。
ジンジャーが突っ込んだ、ハヌマーンの手だった。
落下した銀の手が巨人の指鉄砲に向かう。発射した光線は、その銀の表皮に弾かれ、辺り一面に拡散した。そして――。
『お嬢さま。時間切れです……』
ハヌマーンを遙か頭上に見上げ、ジンジャーは小娘の姿へと戻ってしまった。
「仕留めきれなかった、か……」
溜め息をつくジンジャーの上で、ハヌマーンが再び拳を振り上げた。もうこの巨大な暴力を受け止める力は無い。
死ねば全ては終わるはずだ。『試練』は完遂され、『勇者』は完成される。『白銀の巨人』は討ち果たされ、その墓碑銘は『赤毛の魔女』たちの墓標に付け足されるだろう。
だがジンジャーはそんなことに興味は無かった。ガンスリンガーの血がたぎっていた。
彼女は腰のスクロールランチャーを引き抜くと、銃口を剥き出しの転換炉に向けた。
「エール。あなたに勝利を」
ジンジャーはランチャーを発射した。魔弾がハヌマーン目掛けて飛び出す。
束の間、宙を泳いだ弾頭は、一瞬この世からかき消え、漆黒の穴に姿を変える。無に穿った穴。ジンジャーたち魔法使いが『魔界』と呼ぶ高次元空間だ。そこから無尽蔵のエネルギーがこの世に引きずり出された。
黒い穴を銃口に、大通りを埋め尽くすような青白い光の奔流が放たれた。鋭い光はハヌマーンの肉体を貫通し、空に向かって伸びていく。大猿の胸にはくり抜いたような丸い穴が口を開け、ジンジャーの視線はそこから青空を覗いていた。
「切り札が出尽くした後には奥の手が出てくるものよ」
ランチャーを下ろし、ジンジャーは鮫のように笑う。
大猿は拳を振り上げた格好で固まっていた。傷口は塞がらない。完全に死んでいる。
『最後の敵』は最期を迎えたのだ。
わずか三分間の激戦。巨人と巨獣のぶつかり合いは、大都市ニューコークを瓦礫の街へと変えた。
巨人の姿で戦っていたジンジャーに外傷は無い。ただそれ以外の傷跡があまりにも深く大きく刻まれすぎていた。
廃屋と化したワッフルスタンドの前で、彼女はイスに腰掛けてくつろいでいた。
自分でいれたお茶に口をつけて、たったひとり人待ち顔で時間の流れに身を任せる。
まるでデートの相手を待つ年頃の娘だった。やがてカップ半分ほどのお茶を飲んだ頃に約束の相手が姿を現した。
「さて、ただの拳銃がどれだけ通じるか……」
つぶやいて、彼女は静かにカップを置いた。
「ジンジャー嬢。無事だったか」
「待ち合わせの場所を決めなかったのは失敗だったわね」
瓦礫の山積する無人の大通りを、星のバッジを光らせてウェルチがひとりで歩いてくる。
ジンジャーは立ち上がって彼を迎えた。
「この有様は、君がやったんだな」
ウェルチは周囲の惨状を見渡して、厳しい表情で問うた。
「見ていたんでしょう。一部始終を」
「君が赤い巨人だったのか。まるで歩く災害だな」
「鉄道にだって乗るし、空だって飛ぶわ」
「旅する災害だ。迷惑極まるな」
ウェルチの皮肉に応じず、ジンジャーは尋ねた。
「保安官。よくここまで来られたわね。列車で別れた後、どうやってここまで?」
「それこそ鉄道に乗ってだよ。君との約束があったからね。そして君の言ったとおりのことが起こり、幸運にも君は生き残った」
「そうよね。そうなるわよね……」
ジンジャーは残念そうに力みの抜けた微笑みをたたえてかぶりを振った。
「『最後の敵』は倒した。これで『試練』は終わるのかしら?」
「君の旅はここが終点だ。私と共に行こう。君は罪を償わなければならない。本物の『赤毛の魔女』として裁かれ『赤毛狩り』を終わらせなければいけない。悪いようにはしない。私から判事へ口利きもしよう。快適な独房で少しの間だけ過ごしてくれればいい。天使のように安らかな顔で、天国より穏やかに暮らせるとも。お願いだ。君を傷つけたくない」
「ここまで上手くやってきたじゃない。ここにきて化けの皮が剥がれてきているわよ。『最後の敵』が倒されたのがそれほど想定外だったの?」
ジンジャーは鬱陶しそうに溜め息をついて中折れ帽を被り直す。戦いを始めるサインだ。
「わたしは初めて聞いたときどういう意味か分からなかった。今もよく分かってないわ。『天使』とか『天国』なんて言葉、ふつうの人間は知らないのよ」
西大陸の死生観に地獄はあっても天国は存在しない。死んだ人間は現世で族霊へと還る。生と死の循環こそがこの世界を支配する宗教の根本である。それは東大陸も同様だ。
この地上に生きる人間にとって『天使』も『天国』も未知の言葉であった。
ウェルチは一瞬目を丸くし、すぐに腹を抱えて大声で笑い出した。
「あーはっはっはっはっ……。こんな……こんなくだらない瑕疵でボロが出るとはな。さすがだ。さすが最強の試練。ここまで切れるとは思っていなかった」
「相手を持ち上げて自分のマヌケを隠すのはカッコ悪いわよ。第一、あなた怪しすぎるのよ。『敵』に襲われる町ではたいていあなたと出会ってる。わたしが気付かなかっただけで、すれ違ってたときもあったかもしれない。わたしだけじゃなく、『赤毛の魔女』の役目を負った全員がそうなんだわ。あなたが言ったのよ。『赤毛の魔女』を追うと魔獣の被害が出て、自分の目の前で罪も無い人々が死んでいったって。あなたは事件現場に駆け付けたんじゃない。あなたがいた場所が現場になったの」
ジンジャーはウェルチの鼻先を鋭く指差した。
「あなたと『赤毛の魔女』が一定の距離まで近づくと『敵』が出現して『赤毛の魔女』を襲撃する。あなたは誰より先に獲物に到達し、追い立てる
「いつから気付いていたんだい?」
「真っ黒な疑惑だけよ。ここで出会うまではね。今までの『敵』ならあなたが現場に居合わせても不自然ではなかったかもしれない。けれど『最後の敵』は違う。指定の日に東海岸に現れることは決まっていても、どの地点に現れるかまでは分からなかった。あなたがニューコークの街の名前を出すまではね。そして今日、予言が的中した」
「誘導が露骨過ぎたのか。次からは気をつけよう」
「次? 次なんて無いわ! 『最後の敵』はもういない! わたしは生き残った!」
「それが問題なのだよ。君が『最後の敵』に殺されてこそ計画は完遂する。倒せるはずのない敵を倒すなど、計画の異分子でしかない。君を取り除いてまたやり直さねば」
「あなた……ウェルチ保安官じゃないわね。彼は少女たちの犠牲に打ちのめされていた。そんなこと口が裂けても言わないわ。誰なの? ナントカ支援人格ってやつ?」
「戦術支援人格か。最初は似たものだったのかもしれないな。今はもう境目が曖昧になっている。長期間にわたって思考誘導を行った作用だろうか。グラデーションなんだよ。今は私がウェルチだ。君の知る私は、表に出ていない」
「わたしを殺すつもりなら、その前に教えてちょうだい。わたしは何人目の『赤毛の魔女』だったの?」
「四十二人目。この街の犠牲者と比べればささやかな数字だ」
欺瞞だ。次の『赤毛の魔女』が生まれればその周囲にさらなる犠牲者が生まれる。
惨禍の中心で『最初の敵』と向かい合い、ジンジャーは己の背後に四十一の墓標を背負う。名前も知らない少女たちの死の影と無念を肩代わりする。
「保安官の流儀はあなたも守るのかしら」
「どういう意味かな?」
「悪党には最初に一発撃たせるってやつよ!」
ジンジャーはスクロールランチャーを抜き撃つ。魔弾が炸裂し、爆炎がウェルチに襲いかかった。
炎の大波が覆いかぶさったとき、それは始めから無かったように消え失せた。
「それがあなたの能力の正体。身体に触れた魔法を無かったことにする力。銃弾を弾き返して見せたのは、弾丸に与えられた直進する魔術を消し去ったから。そうでしょう?」
「ご名答。だが、それが分かったところでどうする? サーベルでも振りかざしてみるかね、勇ましいお嬢さん?」
ジンジャーはランチャーをしまい、ホルスターの拳銃の撃鉄を起こした。
「わたしには嫌いなものが三つあるわ。ひとつは母さんのラズベリーパイ。もうひとつは人の命を数でしか計れない奴。三つ目は安全な場所から人に死ぬよう指図する奴よ!」
ジンジャーが拳銃を抜く。ウェルチもそれに応じた。
同時に撃発。ウェルチの胸で弾丸が弾み、ジンジャーの肩が血を流す。
ウェルチは続けざまに銃を放つ。ジンジャーはワッフルスタンドの前に転がるテーブルの陰に飛び込んだ。銃弾がテーブルの天板を貫く。盾にはならない。
『先走り過ぎたのでは?』
「しょうがないでしょ。キレちゃったものは」
ジンジャーは魔弾に即席で魔法を籠め、ランチャーに装填する。
「どうした! サーベルが見つからないのか!」
ウェルチの挑発に乗り、ジンジャーはランチャーを構えてテーブルから飛び出した。
相手の銃口がこちらを追う。引き金をひかれる前に魔弾を撃ち出した。
両者の中間で魔弾が炸裂。瞬間、空間に穴が開いたような漆黒の球体が浮かび上がる。
「これは!」
先刻の『最後の敵』を葬った一撃を思い出し、ウェルチは一瞬身構える。
その硬直を見逃さず、ジンジャーはランチャーを捨てて拳銃を両手で握った。
まだタクティカルシューティングという概念が形成される前の時代。片手撃ちが当たり前の拳銃を、非力さを自覚する女ゆえに両手でしっかりと握り込んで、身体を固定し、的を定め、引き金を、ひいた。
無音の街に轟音が響いた。ジンジャーは感じたことのない反動で握った銃を頭上に掲げる。その銃口からは白いガンスモークが立ち昇っていた。
「火薬、だと……」
ウェルチは胸を押さえ、苦悶の表情を浮かべる。崩れ落ち、仰向けに倒れる。空間に浮かんでいた黒い球体はそこで消えた。
ジンジャーの拳銃には一発だけ『最初の敵』を撃ち抜くためだけの弾丸が装填されていた。ガンパウダーの代わりに飛行船の物置で拝借した花火の火薬を詰め、ニップルの刻印を爆裂に書き換えて引火させ弾丸を発射する。エールが示した「ただの拳銃」である。
『お嬢さま。先程の黒い魔弾は?』
「閃光弾の逆よ。光を吸収するだけの意味の無い弾。光線の魔弾に似せたハッタリよ」
『あれは一発作るのに二十日かかりましたからね。しかし、私にまで隠し玉を作らなくてもよろしいのに』
「わたしもさっき思いついたんだもの」
ジンジャーは倒れたウェルチへと近づく。反撃を警戒して銃を握る手を踏みつけた。
「やっぱりそっちが本体だったのね」
「よく、見抜いたものだ。切れすぎる……」
「最初に爆炎が消えた場所がそこだった」
ウェルチが押さえつけているのは胸のバッジだった。弾丸を受け、ふたつに割れている。
バッジの形をした悪魔が文字通りウェルチに取りついていたのだ。
「か、神の差配を、薙ぎ払う……制御不能の、災害……。
「『カラミティ・ジーン』。いいじゃない。次の手配書はその名前で書いておいてね」
ウェルチの全身から力が抜ける。ふたつに割れたバッジは黒い霧となって消滅した。
少女たちを死地に追いやった死の星は砕け散ったのだ。
「ねえ、エール。今さらだけど『天使』って何?」
『神から遣わされた使徒です。お嬢さまを襲った『敵』たちも天使に相当します』
「ようやく分かったわ」
瓦礫の街にぽつりと立ち、ジンジャーはしみじみと言った。
「天使って悪魔なのね」
ジンジャーの脳裡からエールの溜め息が漏れた。
神の創りし『試練』は破綻した。『白銀の巨人』を倒す勇者は現れなかった。人の血と涙が悲しみの池を作ったが、世界は何も変わらなかった。
いや、ひとりの少女の見ている世界は、たしかに変わった。牧場から荒野へ。荒野から港湾へ。そして旅は続く――。
ジンジャーは肩の傷を縛って塞ぐと、旅行鞄を携えて歩き出す。
「さあ行くわよエール」
『どこへ向かわれるのですか?』
「わたしたちの旅はいつだって同じ。次は『白銀の巨人』の顔を拝んでやるわ!」
『そうですね。参りましょう』
ジンジャーは海風に髪を遊ばせる。向かい風を受けて潮の香を胸いっぱいに吸い込んだ。
「――東へ!」
赤い髪が海のきらめきを受けて輝いていた。
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