風に向かって走れ


 突如として丘の上に列車が一両出現した日にも、牧童の小さな息子は、たったひとりで牧草地を探険していた。

 木の枝を振り回し、牧草をかき分け、小さな探検隊は孤独にも負けずに今日も行く。

 やがて背の高い草が途切れ、目の前が開けた。そこには思いがけない人がいた。

 雨風にさらされて擦り切れたような古着を着た娘。バサバサの金髪が麦の穂のように風に揺れている。くたびれた格好で、しかし彼女は少年の記憶のままの笑顔をしていた。

「ジンジャー! いつ帰ったんだよ!」

「今さっきよ。元気にしてた? 凄腕ガンマン」

 少年は歯を見せて笑って、赤いおもちゃの拳銃を構えて空想の悪党を片っ端から撃ち倒していく。

 ジンジャーは少年の頭を撫でて「牛に気をつけて遊びなさい」と忠告して別れた。

 自宅に向かう道すがらジンジャーは自嘲した。

「バカね、わたし。どうかしてるわ」

『以前と変わらないように見えましたが?』

「あの子が持ってたおもちゃの銃に警戒してた。いつでも銃を抜けるように、左手で撃鉄まで起こしてた」

『そういう旅をしてきたんです』

「わたしだけじゃない。あの子だって変わってたわよ。抜けた歯が生え換わってた。ひと月ちょっと離れただけなのにね」

 ジンジャーは久々に自宅のドアの前に立った。こんな大きさだっただろうか。

 自分は敵の攻撃を受けている最中で、幻の故郷に閉じ込められているのではないか。

 不思議な違和感と胸にストンと収まる懐かしさが同居していた。

 小さく深呼吸して、ジンジャーは自分の家のドアを久方ぶりに開いた。

「ただいま」

 遠慮がちに玄関をくぐると、予想外にもリビングで父親と鉢合わせた。

 牧場の昼休憩だったのだろう。彼は昼食のハムサンドを齧ってイスから立ち上がった。

「ジンジャー……」

 父親は齧りかけのサンドイッチを持ったまま娘に駆け寄り、その身体を力いっぱい抱きしめた。サンドイッチは潰れた。

「おおい、母さん! ジンジャーだ! 帰ってきたよ。帰ってきたんだ。おおい!」

 呼びつけられた母親は牧場の従業員たちの昼食の支度で疲れたのか、うんざりした様子でリビングにやってきて、おかえりなさい、と一言ぽつりとつぶやいただけだった。

 ジンジャーは父親と顔を見合わせて、いつもどおりの母親の態度にそろって苦笑した。

 父親はジンジャーに何も尋ねず、彼女のためにサンドイッチを用意した。あり合わせの分厚いハムをこんがり焼いて、マスタードとケチャップとコショウをたっぷり振りかけ、トーストしたパンに挟む。

 ジンジャーは知っている。父親が夜中に空腹のとき、落ち込んだとき、元気を出したいときにいつも自分で調理して葡萄酒といっしょに齧りついていたハムバンだ。ジンジャーは食べたことがない。あれは大人の食べ物で、自分はまだ食べてはいけないものだと、なんとはなしに遠慮していた。

 父親のハムバンが完成するまでに飲み物を用意する。勝手知ったる我が家。自分の愛用していたカップを手に取って、ミルクポットから牛乳を注ぐ。旅の間はソーダ水かお茶ばかりだったと、ふと思い出す。

 リビングのテーブルに食事を並べ、ジンジャーは父親のハムバンを両手で持って齧りついた。何ひとつ予想を裏切らない味がした。旅の間じゅうサンドイッチばかり食べていたジンジャーの舌は「ふつう」という評価を下した。腹を満たすためだけの料理だ。特別でもなんでもない。けれどジンジャーの胸はこれ以上ないほどやすらぎに満たされた。

 人心地ついた娘に、父親は重ねて世話を焼く。

「ジンジャー。風呂の支度をしてやろう。おまえ、ずいぶん汚れているよ」

「今日は列車の中で溺れかけたから」

「ん? んん? なぞなぞかい? 若い子のジョーダンはよく分からないな」

 首をひねりながら入浴の準備に向かった。

 ジンジャーは自室へ踏み入り、着替えを用意する。何もかもが家を出た日と一致しているふうに見えた。洋服ダンスの衣装は、旅で擦り切れた服と比べると、どれもこれも真新しいように感じる。

 ジンジャーの家には野外に入浴用の小屋を設けている。簡単な衝立に藁束の屋根が乗っているだけの、ほとんど囲いのようなものだ。その中に浴槽代わりの大きなタライがあり、水を張って焼いた石を放り込んで温めた中に浸かる。

 荒野では水は貴重だったが、牧場ではそれほどでもない。井戸もあれば、雨水を貯めてもいる。それでも風呂に張る水は贅沢なものだった。

 父親の用意した湯に浸かって、ジンジャーはとても無防備な自分を自覚する。

 銃も無い。ランチャーも無い。それどころか服も着ていない。

 旅の中でこんなに裸になったことはなかった。風呂のある宿に手が出ないせいもあるが、荒野を渡るジンジャーの精神はこういった無防備状態を受け入れられなかったのだ。

「安心はこんなにも人を弱くするのね……」

『お嬢さまはたくましさを失ったわけではありませんよ』

「わたしがたくましかったことってあるかしら?」

『お母さま譲りの神経の太さなど』

「あれは厚かましいっていうのよ」

 ジンジャーは傷だらけの身体をさする。逃げ込んだ藪の中で枝の先が裂いた皮膚の幾何学模様。魔獣の頭を口の中から吹き飛ばしたときの腕の噛み痕。賞金稼ぎの拳銃弾を受けてえぐれた脇腹。悪魔の放つ不可視の投げナイフを受けたときの創傷。それらを巨人の姿に変身した際に焼いて塞ぐので痕が残ってしまうものや、まだ癒えていないものもある。

 湯船の湯をすくい、顔をこすった。ぬめりと汚れがこそげ落ちて浸かる湯が濁る。乾いた血混じり旅の垢を落とすと、ジンジャーはすっかり牧場の娘の姿を取り戻していた。

 着替えをすませ、牧場を歩いて回る。生まれてから何ひとつ変わらない営みが続いている。牛は草を食み、馬が牛を追い、牧童たちが悩みながら汗をかいてそれらを世話する。

 ジンジャーが生まれるずっと前から長く続いている牧場だ。コヨーテとトンビ、ふたつの族霊が混ざり合ってそれが当然になるほどに営々と代を重ねている。

 高台に腰を下ろして、馬を休ませる牧童たちを見下ろし、ジンジャーはぽつぽつと虚空に語りかけた。

「うちの牛は肉牛なの。人が食べるために育てている。だから牛たちは生まれたときから死ぬために生かされる。それでもわたしたちは仔牛が生まれると喜ぶわ。自分たちの収入に直結するからというのもあるけれど、純粋に貴いのよ。自分たちの膝元で産声を上げる命が。それは人のワガママっていうか、なんていうか……」

『エゴ。独善ですね。結局のところ牛は人に殺されるのですから』

「そうよ。でも、だからこそ、わたしが勇者に殺される『試練』だって話を聞いたときも、受け入れられた部分があったの。わたしが死んでもきっと神様って人は、わたしがこの世に生まれたことを喜んでくれていたんだろうなって。わたしには生まれた意味や使命があって、そのために生かされてきたのかもしれないって」

 自分が襲われる理由。自分の旅の終着点。それを知った後も旅を続けられたのは、そこに正統な理由や高潔な精神が宿っているのだと自分に言い聞かせられたからだ。ジンジャーには誇りがあった。胸を張って意地を張って、自分の意思で旅路を進んだ。

「エール。以前あなたに聞いたわね。どうしてわたしが選ばれたのか、って。そのときあなたは、まだ答えられないって言ったわ。でも今日『赤毛の魔女』が持ち回りで押しつけられる役目だって気付いて、わたしが選ばれた理由が分かったわ」

 ジンジャーは手枕で地面に寝転んで、夕空を見上げ、ひとりクスクスと笑った。

「特に理由なんて無いのよ。きっと『白銀の巨人』の正体がわたしと同じ年頃の女の子なんでしょうね。だから同じ年格好の子が『赤毛の魔女』に選ばれた。それだけのこと。わたしが選ばれたことに特別な意味は無い。そうでしょう、エール?」

『仰るとおりです。確定された死。引き継がれる役目。仮想『白銀の巨人』の要素。これらが貴女の旅路に用意された解答です。貴女は私がつまびらかにするより先に全て言い当ててしまわれた』

 さすがです、とエールは称え、ひとつの提案をする。

『お嬢さま。西へ行きませんか。バカンスです。南もいい。常夏の国でトロピカルな思い出を作りましょう。海辺で開放的になって、顔のいい恋人を作られてはいかがですか?』

「急にどうしたのよ、エール」

『逃げましょう。私は貴女を死なせたくないのです。この旅のゴールは四十日間生き延びること。貴女は間もなくそれを達成する。そこで終わりにしましょう。『最後の敵』になど構うことはありません』

 ジンジャーは何もかもを諦めたふうに力なく微笑んだ。

「いいわね。行ってみたいわ。西の果て。サムライとゲイシャに会って、スキヤキとテンプラを食べるの。スシも外せないわ。父さんのペーパーバック小説に書いてあったもの」

『素敵ですね。そこには貴女を傷つけるものは何も無い。旅人に優しい気の良い人たちが貴女を歓呼して出迎えるでしょう。眠る暇もないほどのめくるめく刺激的な異文化体験が一生物の思い出として貴女の胸に残ります。旅をしてよかったと、貴女は満足感に包まれ、幸福だけが訪れる。誰も貴女を怖れず、皆が貴女を羨む。そしていい人とめぐり会って、幸せな家庭を築き、老いさらばえ、死の床で青春時代の旅を振り返り、人生が欠けることのない完璧で素晴らしいものであったと確信をもって、家族に囲まれながら永遠の眠りに就く。貴女にはそれがお似合いです。さあ、西へ行きましょうゴーウェスト

 ジンジャーは赤い夕陽に視線をやる。あの太陽の沈む先の、自由で穏やかな地平を想う。

「けれど死んでいった『赤毛の魔女』たちには、そんな人生は訪れなかったのよ」

 日が暮れる前に、ジンジャーは自分の家へと引き返した。エールは何も言わなかった。


 ひと月ぶりに母親の手伝いを買って出る。大雑把な母親のこと、父はさぞいい加減な料理を食べさせられてきたことだろう。自分のいなかった時間を想像し、ジンジャーはふくふくと微笑んだ。

 食卓にはジンジャー特製のミートパイが並び、久しぶりに家族そろってテーブルを囲む。

 幸せであたたかい食卓だ。旅暮らしを経たジンジャーにはこの温もりが何より嬉しい。

 食事の席でとうとうジンジャーの旅が話題に挙げられる。大雑把で無神経な母親が、どんな暮らしをしていたのかと尋ねてきたのだ。

 ジンジャーは貧乏旅行の話を聞かせた。生まれて初めて乗った長距離列車と尻の痛み。駅馬車の休憩所で、知らない者同士が身を寄せ合って眠った夜のこと。いろんなサンドイッチの話。決闘をしたことは――野次馬の視点で語った。

 ジンジャーの冒険譚を目を輝かせて聞いていた父親は、鷹揚に頷いて言った。

「そんなに大変な思いをして、ちゃんと用事は済んだんだね」

 ジンジャーは言葉を失い、表情を凍りつかせた。確かにそうだ。旅立つとき、隣の牧場の牧童に頼んだ伝言には「大事な用がある」とだけ説明したのだ。

 父も母もその成果を期待している。「おかえりなさい」と「おつかれさま」を言って、娘を家の中にしっかりと迎え入れてやりたがっている。エンゼルフェザーよりも柔らかく優しく、娘を包み込んで守ってくれようとしている。

 その期待に応えられないジンジャーは、うつむいて、息を詰めて、自分のやってきたことを反芻した。右も左も分からない旅路で、ひたすらに東だけを目指して突き進んで、敵と戦い、賞金稼ぎから逃げ出し、砂埃にまみれて、走り、撃ち、傷つき、怯え、疲れ果てて眠り、残酷な真実を突きつけられ、両手いっぱいに悲しみを抱えて――結局、何も成し遂げられなかった。

 ジンジャーの喉が絞めつけられたように、キュウと鳴いた。

「わたし、頑張ったのよ……。たくさん頑張ったんだけれど、全部だめになってしまったの。もう間に合わないのよ……」

 ポタポタとジンジャーの頬を伝って、雫がテーブルを濡らした。

 堪えていたものが堰を切ったようにあふれ出す。恐怖、孤独、苦痛、絶望、悔悟、諦念。ひとりで抱え込んでいたものが、目の端からふきこぼれて止まらない。

 ジンジャーは実家に帰って今、初めて涙を流した。

 両親の前で声を上げて泣いた。息をしゃくり上げ、顔を真っ赤にして泣いた。まるきり童女に戻ったように。

 父親は子供をあやすように優しい声で尋ねた。

「何をそんなにしくじったんだい? またやり直せばいいじゃないか。今はダメでもまた次があるさ。なあ、そうだろう、ジンジャー」

 まさか『最後の敵』に殺されてやることが望みだったなど、実の親に言えるはずもない。

「次なんて無いわ。あと四日でニューコークまで行く方法なんてあるわけがないもの」

「ニューコークって東海岸かい? それならいい手があるさ」

「そう、そんな上手い手があるはず……え? あるの?」

 あっさりと言い放たれた可能性に、ジンジャーの涙はぴたりと止まり、泣き腫らした目が父親の顔を見返した。

「おまえも知っているだろう。東海岸のレストランがうちから牛を買い付けにくるって」

「あっ……あァーッ! そうよ! 『空飛ぶ牛肉』よ!」

 旅立ちの日にも考えていたことだ。高級レストランが牛の買い付けにくることは。

 そのレストランは契約した牧場からいい牛を丸ごと数頭買い付けて、専属の肉屋に運んで解体・熟成して店に出す。

 そのこだわりは筋金入りで、貨物列車に牛を乗せて長距離移動させると、肉が痩せて味が落ちるとの考えから、同じ距離を短時間かつ低ストレスで移送するための特殊な乗り物を手配している。ジンジャーの脳裡にはその姿がくっきりと浮かんでいた。

「もうすぐ飛行船が出航するのね!」

 そのレストランは上等な牛を空輸し、それを『空飛ぶ牛肉』と宣伝して上客を集めている。選りすぐりの肉牛の、さらに上等な部位を、一流のシェフが塩のみで味付けし、長年の経験と勘を駆使して直火で焼き上げたステーキは、名立たる名店を押しのけてニューコークの名物料理のひとつに名前が挙がるほどだ。

 いつでも食べられるわけではない。上質の肉がいつでも手に入るとは限らないからだ。だからこそ、レストランの計らいで、肉牛の生産者にはもてなしが用意される。

 すなわち飛行船による空の旅と、地元ニューコークの観光である。ちなみに帰りは自腹となる。ジンジャーの父親は帰路に掛ける時間を惜しんで、ほとんど参加したことがない。

 まだ道が残されている。

 その可能性が、赤く腫れたまぶたの下の瞳に戦士の光を取り戻させた。まだやれる。まだ戦える。自宅のダイニングテーブルの前に腰掛けたままで、ジンジャーの精神はすでに荒野にあった。

「ありがとう、父さん! わたし、行くわ! わたしに行かせて!」

「どうやら立ち直れたようだね。どうだい母さん、明日はジンジャーの食べたいものを作ってやったら。なあジンジャー、何が食べたい?」

 再び旅立つ娘にそう尋ね、父親はどこか遠い目をする。

 ジンジャーは大人びた顔でそっと目を細めて答えた。

「わたし、母さんのラズベリーパイが食べたいわ」

 さっきまでどこか遠くを見つめていた父親の目は、明確に遙か彼方を映していた。その身体は死後硬直したように固く凍りついていた。


 旅立ちを決め、ジンジャーは自室で銃の整備を行う。いつもの分解・清掃よりも念入りに分解し、金属部品にしっかりと機械油を塗り込んだ。水中に浸かったせいだ。一発とはいえキチンと動作したのは日頃の整備の賜物といえた。

 本当は町のガンスミスに頼みたかったが、もう日も暮れた。仕上がりがいつになるかも分からない。女の銃だからと後回しにされては出発には絶対に間に合わない。

 組み立てを済ませ、ニップルをはめて動作を確認。ランプの明かりの下で、小さな火花がパチンパチンと弾けた。その様子を見て、エールが尋ねた。

『お嬢さまは雷管の魔法を書き換えることができるんですか?』

「まあね。ニップルの刻印は単純だから。魔弾に魔法を籠めるのと要領は同じよ」

 金属薬莢の場合は薬莢に雷管がはまり込んでいるので難易度が高い、とジンジャーは説明してやる。

「相手がパーカッション式だったら、シリンダーに触れられればニップルだけ全部、灯火の魔術に書き換えてやれるんだけど、今は金属薬莢カートリッジ式が主流だから」

 荒くれ者のガンマンと相対したときの対処法を自ら編み出していたことに、エールは驚いた様子だった。

 ジンジャーはもうすっかりひとりのガンスリンガーなのだ。

『今さら尋ねることではありませんが、本当に赴かれるのですね』

「わたしには嫌いなものが三つある。ひとつは母さんのラズベリーパイ。もうひとつは軽々しく約束を交わす人。そして三つ目は――」

『約束を破る者――ですね』

「ウェルチ保安官に言ったもの。約束の日にニューコークへ辿り着くって」

 その夜は旅支度を整えて、拳銃とスクロールランチャーを整備し、魔弾に魔法を籠め、やれるだけの準備をして、自分のベッドでぐっすりと眠った。夢も見ずに泥のように眠った。何日ぶりになるかも分からない安眠だった。


 飛行船の発着場は町の外にあった。出航の日とあって、見物客が集まっている。商売っ気を出した肉屋が腸詰の屋台を出していた。

『お嬢さま、今朝の朝食に出たあの……おぞましい物体』

「ラズベリーパイよ」

『私は知っていますよ。真っ黒な硬い外殻の内側で、粘度のある赤い液体が光の加減で明滅して見えて、あれは――溶岩』

「母さんのラズベリーパイよ。いい加減に認めなさい。あれは食べ物なの」

 屋台の腸詰を挟んだだけのホットドッグを齧って口直しをするジンジャーは、世界が認めるべきではない真実を強く主張した。

 優雅な空の旅に合わせて、持っている中で上等な衣装を着て、ジンジャーは飛行船を見上げた。巨大な長球形の白い気嚢に軽い気体を満杯にし、乗員が乗り込むゴンドラを吊り下げた空飛ぶ船の威容が輝いていた。

 船内から運び出したらしき数台の打ち上げ筒が空を睨み、飛行船の出航を祝して打ち上げられた花火が頭上で白煙を花開かせた。

『つかぬことをうかがいますが? あの飛行船は何で膨らんでいるのですか?』

「水素ガスに決まってるじゃない。エールってば、いつもウンチクを垂れるくせに、常識的なことは抜けてるんだから」

『常識的な人間は水素の詰まった風船の横で火薬を炸裂させたりはしないんですよ……』

「景気づけの花火くらい何よ。さあ、東へ戻るわよ」

 エールの心配をよそに、ジンジャーを乗せた飛行船は何故か無事に空へと舞い上がった。

 飛行船での空の旅の最中、ジンジャーは努めて明るく振る舞った。

 若い娘が彼女ひとりということもあり、牧場関係者の男性の人気は独り占めだった。関係者は揃いもそろって、だらしなく腹の出た中年男性だらけだったが。

 船内のカウンターバーでショットグラス一杯の強い酒をあおって、一曲しか弾けないバンジョーを掻き鳴らして歌って踊って、ゴキゲンになった。

 飛行船の中を探検して回った。空の上で檻に入れられた牛を見たり、調理場を見学したり、物置に潜り込んで見慣れない道具に好奇心を踊らせた。

 楽しかった。とても愉快で、素晴らしく爽快だった。

 夜にはひとり、部屋の中で戦いの準備に勤しむ。銃の抜き撃ちの練習。弾薬の確認。魔弾への魔法の充填。そうして疲れてからベッドに入り込んだ。

 暗闇の中、狭いベッドに寝そべると、これまでとこれからの戦いのことを考えてしまう。

「エール。あなた、わたしに隠している情報はもう無いのよね?」

『貴女の旅の目的については、全てはお話したとおりです。他に聞きたいことでも?』

「わたしたちは『最後の敵』のことばかり考えているけれど、もしかしたら『最初の敵』のことをもっと考えたほうがいいのかもしれない……」

『最初、というとケツァルコアトルですか?』

「ううん。他の敵のこともよ。敵は何を目印にしてわたしのところへやって来るの? 『赤毛の魔女』の存在を感じるの? それともエール、あなたの気配? 『紅鋼の巨人』の力に引かれているの? 旅の間じゅうずっと不思議だった。敵がわたしの位置を正確に把握できるなら、もっとピンポイントに出現して不意を突けばいい。けど、不意打ちや闇打ちは、悪魔や魔獣がもつ特殊な能力にかぎられる。敵が現れるときと、そうでないとき。何が違うのか。共通点はあるかしらって……」

『『最初の敵』――つまりお嬢さまのおおよその位置を敵へ知らせる『敵』ですか』

「わたしを見張る誰かが、どこかにいるのかも。それはひとりとはかぎらないかも。そんなふうに考えだすと疑心暗鬼に囚われて動けなくなっちゃうから、あなたには今まで言ってこなかったけれど……」

『私は戦術支援人格。巨人の力を操るための補助機能に過ぎません。私を追跡することは不可能でしょう。やはり巨人の力自体を追跡し、町や村などに立ち寄って動きが止まった際に敵が現れるように仕組まれているのではないでしょうか?』

「それだと駅馬車の休憩所でほとんど襲われてない理由が分からないわ。強盗に遭ったり、他の『赤毛の魔女』の敵とは戦ったけれど、わたしに差し向けられた敵じゃなかった」

『分類を始めると不自然な点が浮かび上がりますね……』

「わたしの仮説が正しければ、飛行船に乗ってるうちは襲われないと思う」

『『最初の敵』に見当がついているのですか?』

「仮説だし何の根拠も無いけれど、あのね――」

 ジンジャーは枕元から丸い船窓を眺めた。雲海がゆったりと風に吹かれていた。

 飛行船は向かい風を受けて空を走る。東へ。最後の戦場へ。


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