真昼の決闘
魔石という鉱物が社会を大きく駆動させるエネルギー源として注目され、その価値が高まるにつれ、魔石の採掘は一大産業となった。人々は情熱をほとばしらせ、魔石の鉱脈を探すため、道を拓き、鉄道を敷き、西大陸の荒野を西へ西へと突き進んでいった。西部開拓時代。人々が野心と冒険心をたぎらせていた時代。西大陸を手中に収めた合州国の青春時代であったと振り返る国民もいる。
しかし鉱脈もいつかは涸れる。鉱山事業を中心に栄えていた町は寂れ、治安は坂を転げ落ちるように悪化していく。
そこで生み出されたのが保安官である。私刑にはやる自警団をよしとせず、罪人を裁判に掛けて法によって裁くために組織された、この時代の警察機構である。彼らは町ごとに事務所を構え、所属する州を管轄に捜査・逮捕の権限をもつ。連邦保安官は合州国全土にその権限を広げた特殊な保安官だ。荒野では彼らが治安と法を守っている。
だが法にはいつでも抜け穴が存在する。私刑を是とする法が、開拓時代の夜更けになっても、未だ大きな顔でのさばっていた。
その名は決闘法。正当防衛と並ぶ免罪殺人手段である。
ジンジャーは長い時間馬車に揺られ、ようやく鉄道の駅がある町に辿り着いた。かつては魔石採掘で賑わっていた町だが、現在では鉱脈が痩せ、鉱山はほとんど稼働していない。それでも駅の周辺が栄えているおかげで寂れている様子はなかった。町の入り口からは駅に向かって一直線に目抜き通りが続いている。
その道を一軒の目立つ建物が塞いでいだ。町の中央広場に建つ大きな集会所だ。中央に鐘楼がそそり立ち、巨大な釣鐘が町のどこからでも見えた。この町のシンボルだろう。移動で疲れていたジンジャーも観光気分を取り戻した。
宿を探す前に心許なくなっていた常備薬を補充するため、薬屋を探し歩く。町を歩いているとふと砂糖を焦がしたような甘い匂いが香ってくる。匂いの元がちょうど薬局らしい。ドアを開けると室内に充満した甘ったるい煙がジンジャーに覆いかぶさってきた。
紫煙だ。けれどふつうのタバコではない。この匂いは、
店の中には干して乾燥させた薬草がそこらじゅうに吊るされている。いつから吊るされているのか、黒ずんでほこりをかぶっているものも混じっていた。充満する紫煙をかき分けて進むと、カウンターの向こうにパイプでタバコをふかす老婆が座っていた。
「こんにちは。腹痛の薬は置いてあるかしら? 旅行中に使える物がいいんだけれど」
ジンジャーが注文を伝えると、老婆はカウンターにふたつの薬を並べる。
「こっちが下痢止め、こっちが下剤。どっちがいるんだい?」
「下痢止め……ううん、両方いただくわ」
「あんた生水には気をつけな。すぐにお腹をくだすよ」
「お茶を沸かしてるんだけど、飲み残しを後から飲むとダメなのよね」
『何度警告しても、お嬢さまはもったいないと言って聞く耳を持たないのですから……』
「自分の感覚に従いな。ダメだと思ったものに口をつけてはいけないよ」
代金を支払って旅行鞄の救急セットに薬を詰めていると、薬師の老婆がジンジャーの背後に視線をやって話しかけてきた。
「あんた不思議な
「不思議って……何が見えるの?」
「翼の生えたコヨーテに見えるね。目が鋭い。猛禽かね。まるでグリフィンだよ」
「うちの族霊はトンビとコヨーテよ」
「代替わりするうちにくっついてきたんだねぇ。珍しいが、前にも似たものを見たことがあるよ」
年輪を重ねた老婆の目がジンジャーの瞳を覗き込む。胸の内の全てを見透かしてくるような静かで鋭い視線だった。
「それから隣に巨人がいるね。赤い巨人だ。とても強い族霊。いや、違う。これは守護霊だね。あんたの魂に寄り添ってる。でもあんた自身でもある。大きくて強い。太陽の力を感じるよ。あんたは一体何者だい?」
「ただの旅行者――いいえ、よくお腹を壊す旅行者よ」
苦笑いを浮かべて、ジンジャーは旅行鞄を畳んで店を出た。
「あの薬師のお婆さん、エールと会話してなかった?」
『気のせいでしょう。ところで話に上った『族霊』とはなんですか?』
「あなた、たまに常識を知らないわよね。なんて言えばいいのか――家紋みたいなものかしら。人が死ぬと肉体は大地に還る。でも魂は祖先のところへ行くの。死んでいった人たちはそこで一匹の動物のかたちになって一族を見守ると信じられてる」
西大陸での一般的な死生観である。死んだ者の霊魂は大いなる魂の
「結婚で家同士が結びつくと、ふたつの家の族霊を並べて祀ることになるの。大きな家の本家筋だと輿入れした家の族霊は祀らないって聞くけどね」
『死後の世界という概念は無いのですか?』
「存在する
『部族ごとに社会を築いて生活していた時代の名残というわけですね。興味深い』
「何が面白いんだか……」
珍しく興奮する様子のエールに、ジンジャーは小さく肩をすくめた。
不意に細い路地の張り紙に目が留まる。見覚えのある人相書き。
「こんなところにまで『赤毛の魔女』の手配書が……。げっ、賞金額が下がってるじゃない! いや、いいことなんでしょうけど、下がることってあるのね」
ジンジャーは人目が無いのを確認すると、張り紙を引っぺがしてポケットに突っ込んだ。
「まあ、焚きつけに使うくらい大目に見てくれるわよね」
正午前、空腹を満たすために町をぶらつきつつ適当な酒場に顔を出す。近隣の労働者が休憩に入る前で、店は空いていた。ジンジャーはカウンターの女主人にソーダ水とサンドイッチを注文する。すぐに提供されたサンドイッチは、缶詰のオイル漬けのイワシと刻んだ生のタマネギを薄く焼いたトウモロコシ粉のパンで巻いたものだった。味付けは塩コショウと少しの唐辛子だけ。疲れた身体に塩気が沁みて、ぴりっとした辛みをソーダ水で流し込むと喉がひりひりと刺激されて目が覚めた。
「へえ。サンドイッチじゃなくてブリトーっていうの。わたしこの食べ合わせ好きだわ」
店の主人と言葉を交わし、安穏と土地の料理を楽しんでいると、勢いよく店に飛び込んでくる者があった。
若い青年である。首にスカーフを巻いて革のジャケットを羽織り、白いズボンにガンベルトを巻いて、カウボーイ風の格好をしている。だが牧場育ちのジンジャーの目には本職ではないとすぐに分かった。今あつらえたばかりといったふうに身ぎれいなのだ。
整った格好とは対照的に、青年はひどく疲れた顔をしていた。オイル漬けになり損ねて路傍でしわくちゃに乾いたイワシの干物みたいだった。
干乾びた青年はブリトーをほおばるジンジャーを見るや、弱々しい声ですがった。
「た、助けてください……」
ジンジャーは答えず、再びブリトーにかじりつく。きっと女将の知り合いだ。そう思って視線を逸らして黙々と食事を続ける。
「あなたをガンマンと見込んでお願いしたいことがあるんです! 助けてください!」
青年の視線はジンジャーの腰の拳銃に注がれていた。その視線はすぐにジンジャーの顔に向けられる。八の字を書いた眉毛が陰気で悲壮な雰囲気を増幅して、ジンジャーの味気ない食事をぞんぶんに不味く仕立てていた。
「分かったわよ。わたしに何の用?」
半ば怒りを混ぜ込んで、青年へと向き直る。
「どうか助っ人を頼まれていただけませんか?」
「どこかに襲撃でも掛けようっていうの? やめときなさいよ」
「違います。決闘です。決闘の助っ人に立っていただきたいんです」
ジンジャーはしばし虚空を見つめ、決闘という言葉の意味を思索した。まもなく思索の海からエールが意味を掴み出す。
『決闘。勝敗によって問題に決着をつける手法。たいていの場合、実行には参加者の命が懸けられます』
「そうよね。なんでわたしが知らない人のために命張らないといけないのよ」
「いえ、顔だけ出していただければいいんです! お願いです! もう時間が無いんです」
「時間が無いって言われても、いきさつくらい知らないと手も顔も貸せないわよ」
青年はすみませんと頭を下げ、居住まいを正す。
「僕はウィル。この町で靴屋をやっています。実はこれから僕の恋人を賭けて決闘することになっているんです」
ウィルの話したところによると、彼の恋人の父親はこの町の名士で、その父親が本人の承諾もなしに結婚相手を見繕ってきたのだという。しかも相手方も町の有力者で、本人以外はみな結婚に乗り気でいる。
「あなたが身を引けばみんなハッピーで八方丸く収まるじゃない」
「僕が引いた分、丸くはなりませんよ」
「七方丸く収まるじゃない」
「図形はどうでもいいんですよ! 僕は恋人が心配なんです。婚約が決まってから飲めない酒を飲んでは具合を悪くして、今にも体を壊すんじゃないかと僕は毎日胸が潰れる思いをしているんです。それに相手の婚約者にはいい噂を聞きません。夜な夜な遊び歩いているとか、悪い連中とつるんでるとか」
青くなったり赤くなったり、ウィルの顔色は忙しなく変わる。
「とにかくこの偽りの新郎新婦と決闘をして、僕の側が勝てば、勝手に決めた婚約を白紙に戻すと、約束を取り付けたんです」
「新郎新婦と決闘? 恋人は味方なんじゃないの?」
「愛は必ず勝つのだから、勝った側の主張が正しいのだと、向こうの父親が二対二の決闘の許可を裁判所に取りつけたそうなんです」
「決闘裁判じゃない! いつの時代の話よ。でもだいたい話が読めたわ。町の有力者同士が手を結ぶための政略結婚。この町の住人に反対する人は誰もいない。二対二の決闘なのに、このままじゃ頭数がそろわずに不成立になる。……そこにマヌケが現れたってわけね」
ジンジャーは深く深く溜め息をついた。ソーダ水の炭酸が混じった涼やかな溜め息は彼女の気分をちっとも爽快にはしてくれなかった。
「顔を出すだけでいいっていうのは、つまりあなたが恋人の婚約者をぶっとばすってことでいいのよね?」
「はい。準備は万端です」
ウィルは自信満々に腰に挿したピカピカの拳銃を示して見せた。まるで使った形跡のない新品の銃だ。
「もしかして決闘だからそんな格好をしてるの?」
「決闘の正装ってよく分からなくて。変でしょうか?」
「ちなみに銃を撃った経験は?」
「縁日の的当てなら得意です」
どこからつっこんでよいものか、ジンジャーは一呼吸だけ思案して、いろいろと諦めた。
「ところで先生」
「先生?」
「助っ人の先生です。先生のお名前は?」
「ジンジャーよ。先生はやめて……」
うなだれたジンジャーは助力を期待して酒場の女将を見た。
「悪いけどあの家に睨まれたらうちは商売できないからね……」
そう言って残念そうに首を振るだけだった。ジンジャーは諦めて肩を落とした。
「報酬ははずんでもらうわよ」
「もちろんです! 僕らの未来への投資ですから! さあ行きましょう!」
ウィルはジンジャーを伴い、決闘の場所として指定された町の中央広場へ繰り出した。
鐘楼のそそり立つ集会所前にはすでに関係者が集まっていた。ついでに娯楽に飢えた観衆も集まっていた。馬が引いた屋台がいくつか出張ってちょっとしたお祭りだった。この町は頭の軽い人ばかりが住んでいるのか、とジンジャーは思った。
決闘場には動物が彫刻された木彫りの柱が二本飾られている。
『あれが族霊を象ったトーテムポールですか。なるほど。家柄がいいので動物が一種類しか彫られてないのですね。確かに紋章と同じ構造。私の知るものとは別物ですね』
「片方はカワウソで、もう片方は……あれ何? ムササビ?」
「モモンガです。北方にいる小さな動物ですよ」
ウィルの意外な博識ぶりにジンジャーは小さく感心した。
集会所の前に待ち構える関係者の姿が見えてくる。婚約者の父親ふたりと、その間に立つ婚約者の男女。
女のほうはペリエ。胸元の開いたドレスを着た娘で、ジンジャーと同じ長い金髪をしていた。伏し目がちな切れ長の目が物憂げで、なで肩の細身も相まって薄幸そうな雰囲気を漂わせていた。どこか放っておけない印象の美女だ。開いた胸元にカワウソのペンダントがさりげなく飾られている。
男のほうはシュエップス。脂っぽい黒髪で、殴られたみたいに腫れぼったい瞼に、切れ目を入れたような細い目をした太った青年だった。若いはずなのに身体の贅肉を三つ揃えに押し込めた姿は、銀行の頭取のような風格があった。こちらは太い指にモモンガを彫金した指輪をはめている。
そしてこれから始まる決闘を見届ける立会人。こちらはジンジャーもよく知っていた。
「ウェルチ保安官!」
「ジンジャー嬢! どうしてここに?」
観光です。などとは言えるはずもなかった。隣に並ぶ男が決闘をする気をみなぎらせた格好をしているのだから。
「保安官も同じでしょう。余所者だから厄介事を押しつけられたの」
なるほど、と言ってウェルチは目を細め、同情の視線をジンジャーへ送った。
ウェルチは連邦保安官である。地元の保安官が立会人を拒否したなら、たまたま居合わせた彼にお鉢が回ってくるのは無理からぬことであった。
「お知り合いだったんですか?」
「顔見知り程度よ。決闘に肩入れしてくれるわけじゃないわ」
ウェルチとの関係をウィルに聞かせていると、決闘相手のシュエップスが腹の肉を揺らしながら近づいてきた。そばに寄られると背の高さが際立って、ジンジャーは少々及び腰になってしまう。
「そちらの準備はできたんですかぁ? 怖気づいたのなら今からでも引き返せますよ」
シュエップスが慇懃無礼な口調でウィルに言う。エールみたいな喋り方だとジンジャーは思った。
『失敬ですね。似てませんよ』
「何度も話したとおりさ。僕は逃げない。君の結婚を必ず白紙に戻してやる!」
「やれやれ……命あっての物種ですよ」
啖呵を切るウィルに冷ややかな笑みを返して、シュエップスはペリエの隣に立ち戻った。ペリエは細い身体のほとんどをシュエップスの巨体に隠して儚げに立ち尽くしていた。
両陣営が揃ったことを認め、ウェルチが高く声を上げた。
「それでは決闘に先立ち、ルールの確認を行う! 両者はポールの位置まで離れた状態で待機する。正午の鐘を合図に、シュエップス氏の陣営からひとり一発ずつ、その場から交互に銃を撃ち合う。相手陣営の片方でも死亡する、ないしはウィル氏の陣営の降参を相手が認めることで決着とする。シュエップス氏側の意図的な降参は認められていない。また医師により続行不能が判断された場合も負けとなる。銃の弾はひとり三発。両陣営が六発の弾を撃ち尽くした段階で決着がつかない場合、引き分けとする。決闘の最中の殺人・傷害は罪に問わない。決闘の始まる前、または終わった後については、私は本来の職務に忠実になる。気を付けるように」
ウェルチの話を聞いているうちにジンジャーの顔色が青白く漂白されていく。
「ちょ! ちょちょ! ちょっと待って! これ、ペアの片方が降参を宣言したら、その時点で負けになるの?」
「相手が降参を受け入れればそうなるとも」
ジンジャーは光の速さでウィルに振り返り、新品のシャツの胸ぐらを掴んだ。
「顔だけ出してくれって言ったのは何だったのよ」
「い、いやぁ、決闘を取りつけた後は助っ人を探すのに必死で、ルールの確認までは考えが及んでいませんで……あは、はは……」
「わたしの一発目の弾丸があなたのこめかみをぶち抜かないって保証は無いからね」
「すみません! すみません! すみません!」
鬼の形相をした少女の迫力に、吊るし売りの安っぽいガンマンがぺこぺこ頭を下げる。
始まる前から負けてるようなもんだ。などという心無いヤジが観衆から飛んでくる。ジンジャーもそのとおりであるように思ったが、決闘に参加する当人である以上、笑ってはいられなかった。
「ジンジャー嬢。君も参加するんだね。今なら取りやめることもできるんだぞ」
「ええ。やってやるわ。どうせ相手がわたしを狙うメリットなんてギブアップ狙いだけだろうし。弾除けは彼に任せるわ」
ジンジャーは中折れ帽をかぶり直した。瞳にはすでにガンマンの眼光を宿している。
ウィル、シュエップスの両陣営が集会所の正面を境に向かい合う。足下には背の低いトーテムポール。こちらがカワウソで、相手がモモンガ。
正午がじわじわと近づいてくる。ウィルは落ち着きなく息を荒げて、一日中歩きつめたように顎を出して汗をかいていた。
「よその牧場から移ってきたばかりの牛だってもう少し落ち着いてるものよ。この距離なら銃の訓練をしてる人間でもそうそう狙って急所には当てられないわ。……まあ、うっかり当たっちゃうことはあるでしょうけど」
「ジンジャーさんは怖くないんですか……?」
「もちろん怖いわ。でもそれ以上に面倒に巻き込まれてむかっ腹が立ってるのよ。憂さ晴らしのひとつやふたつ、したくなるじゃない。さいわい、あの分厚いお腹ならちょっと弾が当たったくらいじゃ死にはしないわ」
「か、彼を狙うんですか!」
ウィルが頓狂な叫び声を上げたときだった。
正午を待たず、町に夜が訪れた。
いや、夜よりもなお暗い。肌を濡らすような漆黒の闇が一瞬にして町を包んでいた。
瞬く間に辺りが騒然となる。決闘騒ぎのお祭りなど比べ物にならない騒がしさだ。
空が落ちてきてベルベットの絨毯みたいに大地を覆い尽くしてしまったような、息苦しい闇が、人々の不安を本能の次元からかき立てた。
『お嬢さま』
「はいはい。分かってますよ。わたしのお客さまってことね」
『お出迎えの準備をいたしましょう』
ジンジャーの瞳は今もガンマンのままだ。すでに銃は握っている。
彼女だけの決闘が暗闇の喧騒の中で、誰にも知られることなく始まった。
集会所前に出張った屋台の店主が明かりを灯した。魔法ではなく手探りで火口箱からランプに火種を移したらしい。
火種の明かりはすぐに消え、ランプに灯った明かりも、間もなく筆で塗りつぶされるように消えた。
「なんだこりゃ……熱ちッ!」
束の間、灯っていた明かりに浮かんだ男が、再び訪れた暗闇の中でランプを触ったのだろう。火が消えたばかりのランプを触って火傷を負ったわけではない。
「あのランプ。火が点いたままみたいね。この闇に光が吸い取られている?」
『光は波です。同じ波長を被せて消しているのでしょう。特殊な戦場を作りだす能力。これは間違いなく悪魔の仕業です』
「闇に覆う悪魔――さしづめ、
相手の能力を分析している矢先、先程の男の悲鳴が聞こえた。
ぎゃあ、と魂消える声。断末魔かもしれない。まだ息はあるかも。暗闇がジンジャーに逡巡を強いる。
「気をつけて! 明かりをつけると狙われるわ!」
ジンジャーは声を張り上げて警告を促す。だがどれほどの人にその声が届いただろう。町じゅうの人にはとても聞こえない。
敵はどこからか標的を選び、狙いを定め、何らかの方法で殺傷している。条件に当てはまる相手ならばジンジャー以外の人間も標的に選ばれることとなる。
「この状況に対応しようとする奴を狙ってるの……?」
『そのようですね。お嬢さまも灯火の魔法は控えたほうがよろしいかと。一度使えば闇が魔法の波長を記憶して、この中では二度と明かりには使えなくなります。爆裂の火花は波長にゆらぎがあるので多少は長持ちするかもしれませんが――』
「開けた場所で使えばさっきの攻撃を受ける、ってことでしょう」
『まずは安全な場所に移動しましょう』
「あの暗闇を見通すやつね。早く使って」
『あれは目に入る光を増幅しているので、光が目に入らない現状では使用できません。くわえてウェルチ保安官がそばにいる状況で髪を赤く光らせるのも控えた方が賢明かと』
一瞬で消えるとはいえ、堂々と赤い髪を見られるわけにもいかない。ジンジャーは手探りで帽子の中に髪を詰め込んだ。
『お嬢さま、私が道案内をします。言うとおりにゆっくり歩いてください』
「速く動けば『私はこの状況に対応できます』って知らせるようなものだものね」
エールの指示を信じて、敵に襲われている状況であえておそるおそる移動を始めた。
ジンジャーが辿り着いたのは診療所の庭先だった。張り渡された何本もの洗濯ロープに白いはずのシーツが吊るされ、目には見えないが風に翻っている。
『この干されたシーツとシーツの谷間なら、サイレンサー効果が発揮され、遠くまで声は聞こえません。一時的にここで作戦を立てましょう』
「そっか。相手が状況を音で判断してる可能性は高いわね」
『お嬢さまは魔法を遠くに発生させることは不得手でしたね』
「そうよ。指の先にしか使えないから魔法使いの夢は五分で諦めたもの」
魔法を遠くに飛ばしたり離れた場所に発生させるには才能と技術と経験が必要とされる。ジンジャーのいう魔法使い――魔道士と呼ばれる者たちが最たる例だ。
『では近くならばどうでしょう?』
「え? でも使ったところで消されるんでしょう」
『指先ならそうでしょう。しかし闇に触れない場所。たとえば血管ならば?』
「ああ、なるほどね」
エールの提案に頷いて、ジンジャーは手首に意識を集め、灯火の魔法を掛ける。すぐに太い静脈が明々と光るが、即座に暗くなってしまう。
「ダメね。結局光らせる場所と目の間に闇が横たわってるんだから……」
ジンジャーは自分の目に手首を押しつけた。皮膚の下で血管が光っているのが分かる。だがその光は皮膚より表層には出てこない。
『いいえ。体内にまで影響を及ぼさないと分かっただけでも収穫です。闇を吸いこむと肺が腐って死ぬ、というようなことはないのですから』
「毒をばら撒いた悪魔とは違う。無関係な犠牲者は出ていても無差別に襲ってるわけじゃないもの」
敵が何を条件に標的を絞り込んでいるのか。どのような手段で攻撃しているのか。闇の中が見通せないでいると、エールが状況に変化をもたらした。
『お嬢さま、今視覚を調整します。これで少しは見えるでしょう』
エールの言葉と共に視界が回復する。とても明瞭とはいえない。数歩先までしか見えない上に、濃淡のグラデーションで物が見えている。脳が色を認識しないので、白黒のような、虹色のような不思議な世界だ。
「これ一体何が見えてるの?」
『温度です。皮膚が感じる周囲の温度を共感覚で視覚に変換しています。明るい色が高い温度、暗い色が低い温度の場所です。これで地形や障害物がある程度把握できるはずです』
「これで少しはまともに――」
動けそうだ、と言いさした言葉が止まる。
ぬくもりを映し出すジンジャーの視界に、奇妙なものが見えていた。
洗濯されたシーツの向こう側に、丸い物体が浮かんでいた。リンゴやオレンジのような果実ほどの大きさの、何か。周囲より温度の低い円形の物体が、ジンジャーの頭の少し上くらいの高さをゆっくりと移動していた。
「なに、これ?」
シーツをめくり、向こう側を確かめる。通りの向こうに並ぶ家々の明るい壁面をくり抜くように、丸く暗い色が浮かんでいる。何かで吊り下げられてもいなければ、支えられてもいない。ただ球体が浮いている。その球体と目が合ったような気がした。
『お嬢さま! 離れてください!』
瞬間、エールの警告が叫ばれる。
ジンジャーは弾かれるように跳びすさる。めくったシーツが再びロープに垂れ下がる。その平らな白布が水面のように波打った。
次の瞬間、シーツが小間切れに弾け飛んだ。
「なっ!」
一瞬遅れてジンジャーの腹部に衝撃が走る。水の入った革袋で殴られたような、重く後を引く衝撃。息を詰め、膝を突く。ズキズキと鈍い痛みが響き、内臓が熱を持つ。
『敵の攻撃手段です。衝撃波を撃ち出して体内から破壊する装置です。お気をつけて。次が来ます』
ジンジャーは横っ跳びに転がって銃を構える。顔の横を強い風が吹き抜けていった。
「こうすればいいんでしょう!」
痛みに耐え、銃口を球体に向けて引き金を引く。
球体は吹き飛び、向こう正面の家の壁に叩きつけられ、弾け飛んだ。何か冷たい液体がだらりと壁面を流れ落ちていく。やがて乾くようにその液だれも消えた。
ジンジャーは辺りを見渡す。まだ周囲は闇に包まれたままのようだ。
「あれは本体じゃないわね」
『攻撃手段であり索敵手段。つまるところ『使い魔』といったところでしょうか』
「使い魔?」
『あの球体は敵の目であり手です。音の衝撃を発生させ、その反響で周囲の状況を判断しているのです。そして高い出力で衝撃波を放てば破壊をもたらす』
エールの声に耳を傾けながら、ジンジャーは痛みをこらえて息を整える。
『使い魔は一体だけではないでしょう。どれほどの数を使役しているかは分かりませんが、町ひとつを監視できるだけの数であることは疑いようもありません』
「逃げないと……」
『はい。複数体の使い魔に囲まれて衝撃波を食らえばひとたまりもありません。今、視界に音の反響を上乗せします。ご利用ください』
温度の濃淡で見ていた世界に音の立体感が加わる。白飛びしていた開けた道がくっきりと見えるようになった。
「もっとハッキリとは見えないの?」
『こちらから音を立ててその反響を拾えば精度は上がりますが、当然、敵に発見される危険も増します。敵の索敵も同じです。自分から音波を発するアクティブソナーと、周囲の音を受け止めるパッシブソナー。二種類を使い分けていると見て間違いないかと』
ジンジャーは作り笑いを浮かべて歩き出す。行くあてなど無かった。この場を離れなければという義務感だけがあった。
「今回の敵はちょっと強すぎない?」
『光を司る巨人の力とは相性が悪すぎます。巨人になっても相手が見えなければエンゼルフェザーは使えません。辺り構わずジャッジメントレイを撃ってもこの闇に吸収されます』
「試練ね。今までで一番の試練だわ」
『そのことでお伝えしなければならないことがございます』
エールがどのことを指しているのか、ジンジャーには見当がつかなかった。
『以前も申し上げました。神が試練を生み出されたのは『白銀の巨人』を倒す者――勇者を完成させるためだと』
「どうして今そんな話を……?」
『覚えていますか? 貴女と初めて出会った日のことを』
「それはもちろん。うちの牧場が魔獣に襲われて、わたしが巨人になって撃退した。それが何なの?」
『あれからちょうど二十日経ちました。『最後の敵』が現れる期日まであと半分です。このタイミングでお伝えせねばならないことがございます』
「それ今言うこと?」
『私としても、お嬢さまには目の前の敵に集中していただきたいのですが、この情報の開示を遅らせることは許されておりません』
神妙なエールの態度に、ジンジャーは敵に受けた痛みのことも忘れてしまっていた。
『お嬢さまは襲い来る敵を『試練』と称しますね』
「だってあなたがそう言ったんじゃない……」
『私が申し上げたのは『貴女の前に敵が現れ、試練が襲いかかる』ということです』
「だから……」
何もおかしなことなどない。ジンジャーの前に試練たる敵が現れ、襲いかかってくる。それを打倒していき、『最後の敵』を討ち果たしたそのとき、ジンジャーは世界の異物『白銀の巨人』に対抗しうる『勇者』となりおおせている。そのはずだ。この旅は勇者を生み出すために、ジンジャーが試練をくぐり抜けていく苦難の道。そうであったはずだ。
何も間違っていない。ジンジャーは内心で自分にそう言い聞かせようとする。
だが心臓は早鐘を打ち、気持ちの悪い汗がじっとりと背中を湿らせる。
おかしい。何かがおかしい。ボタンを掛け違えた服を丸一日着続けたみたいな、決定的な違和感がある。
その違和感がジンジャーの脳裡に奇妙な発想を芽吹かせる。
「まさか『試練』っていうのは……。いいえ。違うわ。そんなはずない……」
『貴女の想像どおりですよ』
ジンジャーの疑念をエールは冷たく肯定した。
『貴女こそが『試練』なのです。ジンジャー』
「呼び捨てはやめてッ!」
ヒステリックに叫んでも、エールの酷薄な言葉は止まらなかった。
『貴女に巨人の力が与えられたのは貴女を『仮想・白銀の巨人』とするため。貴女を倒すために襲ってくる敵たちこそが神の遣わした『勇者』なのです』
「それじゃあ……『最後の敵』っていうのは一体……?」
『倒された勇者たちを参考に、貴女を確実に殺せるよう調整された最強の勇者――それが東海岸に出現する『最後の敵』です』
これまでジンジャーは旅の中で戦ってきた。旅をやめて留まれば、その土地の者が戦いの巻き添えになって死ぬ。その無辜の人々の死を避けるために、旅を続け、戦い、勝ち続けてきた。
この旅がいつか終わり、自分の戦いが報われる日が来ると信じていた。巨大な魔獣に立ち向かったのも、非情な悪魔を打ち倒したのも、『最後の敵』というゴールがあると思えたからこそだ。
だが、希望など無かった。
ジンジャーは悪である。勇者が打倒すべき悪である。そう神が定めた。
ジンジャーは悪役という業を背負わされた令嬢。まぎれもない『悪役令嬢』であった。
前に進み続けても、その業の火にくべられて燃え尽きるだけだ。
『お嬢さま。貴女は死ぬ
「知っていたの……? 最初から、ずっと……?」
『はい。私は貴女を導くために遣わされました』
「知っていて、ずっと……わたしと、旅をして、戦って……」
ジンジャーの胸中に二十日間の旅路の記憶が去来する。怖ろしい敵との戦いの記憶ではない。初めての鉄道の旅で尻が痛くなったこと。駅馬車に乗って荒野で夜を明かしたこと。乗り合わせた知らない人たちと歌って騒いだ夜のこと。傷んだお茶を飲んで腹を下したこと。安くて冷たくておいしくない保存食。安くないのにまずい土地の名物料理。出会った気のいい人々。出くわした胸の悪くなる奴ら。列車の車窓から見える、なんてことのない赤茶けた荒野。雲をかぶった山々。悠然と空を横切ってゆく飛行船。故郷を思い出す牛の群れ。知らない誰かが口ずさんでいた古い歌。タバコの匂い。強い酒の味。酒場で得意げに披露した一曲しか弾けないバンジョー。旅行鞄を枕に見上げた月。暇を見つけては整備した銃。初めて訪れた町で見つける見覚えのある手配書。子供の、年寄りの、女の、男の、生きとし生けるものの笑顔。
確かに荒野に生きていた。長い長い、たった二十日間の記憶だ。
つらいことも苦しいことも怖ろしいこともあった。だが間違いなく楽しかった。
いつも、どこにいても、ジンジャーのそばには相棒がいた。エールという掛け替えのない、慇懃無礼で口うるさい相棒がいた。
「あなた、自分も死ぬって分かってて……わたしのところに、来たの?」
『それが神の定めたことであれば、私は従うまでです』
「ばか……」
ジンジャーは自分の胸ぐらを握りしめて、ぐっと息を詰めた。
『私を、憐れんでいるのですか?』
「そんなに難しいことじゃないわ。やっとあなたのことが少しわかった、って、ただそれだけのことよ」
『何を言っているのか私には理解できません。貴女は死ぬのですよ?』
「そのときは、あなたも一緒に死ぬんでしょう? あなたはこれまで、いつか死ぬかもしれないからって――そんなことで、うろたえたりはしなかった。戦うって、生きるって、きっとそういう純粋で単純で当たり前のことなのよ。牛が草を追ったり、ラズベリーの木が雨を浴びたり。今日このときのことだけ考えてる」
『問題をすり替えています。確定された死を前にして、なぜ生のあり方を説くのです』
「すり替えてなんてないわ。だってどう死ぬかより、どう生きるかで悩むほうが人間らしいじゃない」
『あと二十日の命だとしても?』
「先のことばっかり考えて、不安に押しつぶされて塞ぎ込むほうがバカらしいでしょう」
ジンジャーの目の前は――いや、四方八方上下左右、どこもかしこも真っ暗闇だ。一寸先は闇だし、板子一枚下は地獄である。不安と絶望が床上浸水している。
「これまであなたが絶望しないでやってきたのに、わたしが絶望するはずがないわ。雨が降らないなら雨に向かって歩いていく。わたしたちはそういう旅をするの。これまでも、これからも」
相棒は言った。
『はい。お嬢さま』
ジンジャーは自分の胸を掴む手を放し、いつもの得意顔を取り戻す。
「ねえ、エール。知ってるでしょう。わたしには嫌いなものが三つあるって」
『ひとつはお母さまのラズベリーパイ』
「もうひとつは神妙そうな相棒」
『それで三つめは?』
「わたしたちの旅を邪魔する奴らよ! 集会所に戻るわ!」
ジンジャーは反撃に転じる。
「町じゅうに放った使い魔を操るには町を見渡せる場所に陣取るしかない。あの鐘楼は町のどこからでも見えるんだから、裏を返せばあそこからなら町のどこにでも目が届く」
『私もそう思います。ですがそれはあの使い魔を見つける前の話です。帳の悪魔が全ての使い魔を操っているのであれば、敵はお嬢さまの存在を認知しました。これから鐘楼に向かったところで、待ちかまえているのは十中八九使い魔のほうでしょう。それもひとつやふたつではない。ありていに言えば、罠です』
「その罠を確かめないことには手掛かりは見つからないわ。狩るか狩られるか。まるで藪の中を進んでいく狩りね。こっちも罠を仕掛けようかしら」
敵に見つからぬよう気を張って、ジンジャーは路地にもぐり込んだ。
今、町のどこかに使い魔が飛んでいる。至近距離まで近づかなければ存在も感知できないそれが、ジンジャーに殺意の視線を向けている。
それでもジンジャーは大路に足を踏み出した。音の反響を広く拾うためだ。町のあちこちで定期的に波紋が湧く。分散させた敵の使い魔たちが町の状況を走査している音だ。
ジンジャーは壁伝いに歩いて、ゆっくりと集会所を目指す。いつ自分が『試練』だと判断されて攻撃されるか分からない緊張で、決闘前のウィルのように顎を出して汗をかいていた。
袖口で口を覆って呼吸の音にさえ気をつけ、足音を立てないよう引きずるような足取りで、土地勘のまるで無い町を行く。
『敵のアクティブソナーのおかげで地形や障害物はかなり詳細に把握できるようになりました。ですが敵がどこかは判断がつきかねます』
「きっと人型の悪魔なのね。じっと息を殺して人に擬態してるのよ。明るい場所で見れば一目で悪魔だって分かる見た目なんでしょうけど」
やっと集会所の前に辿り着いて、安堵の息をぐっとこらえた。
ジンジャーは道端の屋台の荷車に途中で拝借してきた洗濯ロープをくくりつけた。道の向い側の屋台にも同じようにロープの端を結ぶ。洗濯ロープにはゴミ箱に溢れていた空き缶をねじ込んでいる。即席の鳴子の罠である。鳴りものが付いているわけではないため、風に揺れて音が鳴る代物ではない。
「人がつまずけば空き缶が地面を叩いて音が鳴るわ。悪魔は音を立てない」
逆説的な罠である。罠を避ける者をエールが察知したとき悪魔を特定できる。
さすがに中央広場を全てカバーしきるほどの鳴子は用意できなかった。集会所の入り口に面した目抜き通りを横切るように一幅だけ張り渡しているのみだ。
集会所前は決闘の直前とほとんど変わっていなかった。誰も身動きが取れなかったらしい。ウィル、ペリエ、シュエップス、そしてウェルチ。屋台の店主は少々姿を消したようだが、決闘の関係者は観衆を含めて残っていた。
ジンジャーは彼らの脇をそっとすり抜け、集会所の壁に張り付く。銃を握って撃鉄を起こす。残弾は五発。この暗闇の中では再装填は不可能だ。
壁伝いに入口へ近づく。ドアに鍵は掛かっていない。ドア越しには中の様子は分からない。耳を当てて音を拾っても異常は感じられない。ノックを三回。乾いた音の反響。
素早くドアを開け、ジンジャーは集会所内へ身体を滑り込ませる。
正面に三つの球体が並んで彼女を出迎えた。彼女は即座に身体を沈め、横転。真上を向いて銃を構える。頭上に潜んでいた四体目の使い魔を狙い、撃ち抜く。
即座に移動。一瞬前まで彼女がいた場所に衝撃波が浴びせられ、集会所の床や長椅子がクッキーのようにひしゃげ、割れ、弾け飛ぶ。
ジンジャーは鐘楼へ伸びる昇り階段へ一目散に走った。至近距離でなければ使い魔を感知できない。だが同時に使い魔のほうも至近距離でなければ人体を破壊するほどの衝撃波を放てない。
とにかく距離を取って目的地まで走る。それがジンジャーの選んだ戦術だった。
鐘楼の内部は四角い吹き抜けで、中心に鐘を鳴らすロープが垂れ、その周りをらせん階段が囲んでいた。ジンジャーは入口の使い魔たちに追いつかれる前に急いで階段を駆け上る。吹き抜けの内部は温度が一定で濃淡は分かりにくかったが、音がよく反響して距離感は掴めた。
吹き抜けという立地を利用して、使い魔たちが上と下の双方からジンジャーに睨みを利かせる。散発的に放たれる衝撃波。人間の可聴域を超える超音波に、耳鳴りがする。
壁に背中を押しつけ、衝撃波をやりすごしたジンジャーは手足の触覚と平衡感覚を頼りに再び階段を上る。使い魔たちは自らが放った衝撃波の影響でパッシブソナーが機能していない。耳が眩んでいるのだ。
ひとつ。ふたつ。ジンジャーの弾丸が使い魔を蹴散らす。残弾は二発。
ようやく大きな鐘の下まで頭を出す。
「敵の痕跡は?」
『左手の縁にかすかにぬくもりが残っています。ここに腰掛けていたのでしょう』
「準備に時間を掛けすぎたわね。鳴子の反応もない?」
『ありません。屋内の使い魔を操る以上、かなり近くにいるのは間違いありませんが……』
「やっぱりアレをやるわ」
『心得ました』
吹き抜けを昇ってくる使い魔に追いつかれる前にジンジャーは釣鐘の真横に躍り出た。ここにも当然のように使い魔が待ち構えている。
ジンジャーは集会所の入口側に浮かぶ使い魔を撃ち抜く。残弾一。
拳銃を持ち替え、アンクルホルスターからスクロールランチャーを抜く。
真正面に発射。魔弾は暗黒をしばらく進み、空中にまばゆい光を放った。
地上の人々が閃光弾を見上げる。光は一瞬で消える。
同時にジンジャーは鐘楼から後ろ向きに飛び出した。
「わたしを見てる奴が敵よ」
空中で放つ最後の銃弾。狙いは大きな釣鐘だった。暗闇とはいえ外しはしない。
刻限を大きく過ぎて、正午の鐘が、今やっと打ち鳴らされた。
鐘の反響がエールのパッシブソナーの精度を引き上げる。
いた。地上から空を見上げる人々の中、ただひとりジンジャーを見上げる何者かが。
『お嬢さま、右後方、四時の方角です』
落下する少女の肢体が赤い光に包まれる。その光は闇の中に溺れ、誰の目にも届かなかった。闇の中に赤い巨人が人知れず現れる。
巨人、と呼ぶにはいささか小さい。身長は棹立ちになった馬ほどだろうか。町の中で戦うためにあえて大きさを制限していた。
巨人のかたちをした『試練』が人影の前に降り立った。
「エール。フェザーでいいのね」
ジンジャーは両肩から刃状の装甲を数枚引き剥がして両手に構える。
『はい。お嬢さま。貴女に勝利を』
エールが敵だと特定した、正体のわからない人影へ向け、疑うことなく刃を放つ。
エンゼルフェザーは空中を縦横無尽に飛びまわり、回避不能の全方位斬撃を浴びせた。
手応えがあった。生き物の肉ではない何か柔らかい塊を切り裂く感触。
次の瞬間、世界に光が降り注いだ。ジンジャーの姿はもう赤い巨人ではなくなっていた。
両手に拳銃とランチャーを握ったまま、彼女は肩で息をしていた。
「度胸比べはわたしの勝ちよ。目の前に立ったとき、足元のロープを避けて後ずさってた」
『お見事です』
視界が元に戻る。温度と音だけの世界は残像がちらつくだけだ。
「帳の悪魔。結局どんな姿だったのか分からなかったわね」
武器を仕舞い、何食わぬ顔で決闘場へ引き返す。
振り返った集会所前の光景に、ジンジャーの顔が青ざめた。
鐘楼へ上る前には何の異変もなかったそこは、今や騒然としている。
シュエップスの陣営で、ペリエが血を流して倒れていた。
「何があったの?」
震える手で銃を握るウィルに問う。
「決闘ですよ。正午の鐘が鳴ったから撃ち合いが始まったんです。そうしたらすぐに明るくなって、この有様です」
ジンジャーはペリエのそばにたたずむ立会人――ウェルチの元へ駆け寄った。
決闘に立ち会った医師がペリエの具合を診て、力なく首を振る。ウェルチは立ち上がり宣言した。
「ペリエ嬢の死亡を確認。よって決闘はウィル氏の勝利とする!」
周囲からはささやかな拍手が送られ、ウィルを祝福する。
ウィルはピカピカの拳銃を新品のガンベルトに戻してうなだれていた。
ジンジャーはペリエの遺体を見下ろした。複数の弾痕が彼女の全身を貫いていた。
「ウェルチ保安官。一体どうしてこんな惨状に?」
「ジンジャー嬢。君は無事だったか。広場が一瞬だけ明るく照らされて、その後に鐘の音が響いたもので、暗闇に乗じてペリエ嬢が撃たれた。おそらく野次馬からも相当な人数が撃ち込んでいる」
まさしく蜂の巣だ。薄幸そうな美女の面影は残っていない。ジンジャーは胸の前で両手の指を合わせて円を作る。西大陸の一般的な祈りの所作である。
「ごめんなさい。閃光弾はわたしが打ち上げたものです。近くに妙な気配を感じて周囲を照らしたんです。このくらいの球体が浮いていて、それを銃で撃ったら闇が晴れました。きっと悪魔だったんだと思います。鐘の音もそのときの流れ弾でしょう」
「悪魔退治なら仕方がない。誰も責めはしないさ。ペリエ嬢は自業自得という面もある。ずいぶんと恨みを買っていたようだしな。死んだばかりの者を悪く言いたくはないが、悪女というやつだよ。男を漁り、貢がせ、借金漬けにしては遠くに売り飛ばす。実家のほうも資産を食い潰されていたらしい。自分の娘を白アリだと悪しざまに罵っていたよ」
「うわぁ……」
「今回の決闘は両家が結託して裁判所を抱き込んで仕組んだようだ。私も決闘中の殺人を罪に問わんと言った手前、誰も捕まえることができない」
余所者のジンジャーやウェルチには、この町の有力者が仕組んだ免罪殺人を非難することなどできるはずもなかった。
ジンジャーはうなだれるウィルの元へ戻ると、いわく言い難い表情で言葉を探した。
「えーと、あのね、ウィル。なんて言っていいか分からないんだけれど……」
慰めの言葉も見つからなかった。当然である。ペリエのこともウィルのことも何も知らないのだから。
口ごもるジンジャーを差し置いて、励ますようにウィルの肩を強く叩く者があった。
「よくやってくれましたね、ウィル」
シュエップスの巨体がそこにあった。
ジンジャーは彼が「よくもやってくれましたね」と言ったのかと、発言を反芻した。もちろんそんなことは言っていない。
「あ、ああ。そうだよ。やったんだ。俺がやったんだ」
ウィルは顔を上げてシュエップスを見上げた。瞳が輝きを取り戻す。
「そうだ。ジンジャーさん。そういえばちゃんと紹介してませんでしたね」
急にジンジャーへ振り返り、彼はシュエップスを示す。
「僕の恋人のシュエップスです」
「はい?」
呆気に取られるジンジャーの手を、シュエップスが恭しく握った。
「ジンジャーさんと仰るんですね。このたびはウィルにご助力いただき、まことにありがとうございました。貴女のおかげで望まぬ婚約を破談にできました。本当に感謝してもしきれません」
ほっふほっふ、と合い間に息継ぎを挟んで、シュエップスは興奮した様子で感謝を述べると、丸い身体を折って頭を下げる。
「どうりであなたがモモンガなんて珍しい動物を知ってるわけね。恋人の族霊なんだもの」
恋人のことを褒められたと勘違いしたのか、ウィルは照れ臭そうにはにかんで頭をかく。
「ジンジャーさん、彼は数学者になるのが夢なんです。でもこの町じゃその夢は叶わない。だから僕らはふたりで大学のある町に移ります」
ウィルとシュエップスが恋人同士だという事実もまだ飲み込みきれていないところに、続々と新しいプロフィールが付け足されて、ジンジャーの理解は全く追いつかない。
「へえ、よく分からないけど頑張ってね。いつ頃町を発つの?」
「今からです」
ウィルは近くの屋台の荷車に掛けてある幌布を取り去る。その下からはしっかりとした旅支度が現れた。
「さあ行こう、シュエップス。僕らの未来へ!」
「ええ、ウィル。旅立ちましょう。私たちの明るい未来へ!」
荷車の御者台にふたりでぎゅうぎゅう詰めに腰掛けて、ウィルが手綱を振るう。
集会所に背を向けて、荷馬車が進みだした。たぶんきっとおそらく明るいはずのふたりの未来に向かって。
「えっと……これってつまり……」
『いわゆるひとつの『駆け落ち』ですね。実際に駆けてゆく駆け落ちも珍しいですが』
偶然にも荷車にはジンジャーがくくりつけた鳴子のロープが結えてあった。反対側は悪魔を倒したときに切断されている。
ロープに差し込まれた空き缶が引きずられて地面を弾み、ガランガランとけたたましい音を立てる。騒がしい旅立ちだ。いくらなんでも晴れがましすぎる。
ふたりは気にするふうでもなくジンジャーに手を振って、一直線に町を出ていった。
「なんてカップルなの……」
しばらく呆然と立ち尽くしていたジンジャーは思い出したように手を開く。先刻、シュエップスが手を握った際にねじ込んだモモンガの指輪が転がっていた。純銀で細工も精緻。売ればいい値がつくはずだ。ウィルが払わなかった報酬の代わりだろう。
あるいは族霊から逃れるためにシュエップスが捨てたのかもしれない。彼らは自ら進んで一族から追放されていったのだ。ジンジャーは心の中で旅の安全を祈った。
ふたりを見送り、ジンジャーは集会所のほうを振り返る。もう決闘の観衆はいなくなっていた。野次馬がぽつぽつと残っているだけだ。
ジンジャーは再びペリエのそばへ戻った。また胸の前で指の円を組む。その隣にウェルチも並び立って帽子を脱ぎ、彼女の冥福を祈った。
「彼女を弔うのは我々だけのようだ」
「みんながみんな薄情なわけじゃないわ。ペリエに同情したせいで、彼女を知る人から嫌われるのを避けたいのよ。余所者が口を挟めることじゃない」
「そうだな。私も同情できるほど、彼女を知るわけじゃないが、実家は町の卸酒屋らしいから飲食店は特に関わりになりたくはあるまいよ」
ジンジャーは内心、膝を打つ。酒場の女将が「睨まれたくない」と言っていたことや、シュエップスが飲めない酒に付き合わされていたという話にも合点がいく。
ウェルチは屈み込んでペリエの瞼を閉ざした。乱れた着衣を整え、胸元のカワウソのペンダントを掛け直してやる。
「ジンジャー嬢。あの規模の悪魔が出たとなれば、『赤毛の悪魔』が絡んでいる可能性がある。私は本来の職務に戻るよ。君も気をつけてな」
「ありがとう。ウェルチ保安官。あなたも気をつけて」
言葉とは裏腹に、悪魔との度胸比べに勝った女の視線はグルングルンと宙を泳ぐ。
ウェルチを送り出し、ペリエの元にはジンジャーひとりが残った。
「死ぬために戦わされたことには同情するわ……」
自分も同じ身の上だから。ジンジャーは我が身を省みる。ペリエは自らの行いで業を背負い、破滅のレールに乗せられた。ジンジャーは訳も分からず似たような線路の上を歩かされている。
死んだ人間は族霊の元へ行く。ペリエは一族の者に切り捨てられたが、それでも追放はされなかった。きっとカワウソの族霊になって一族を見守るのだろう。
「死んだ牛の魂は牛の王の元に還る。牛の国で尽きることのない草を食んで、幸せに暮らすの。犬には犬の王。猫には猫の王。コヨーテにはコヨーテの王。みんな死ねば自分の王国で幸せに暮らすわ」
この場から立ち去った魂を前にして、ジンジャーは問う。
「ねえエール。死んだ勇者はどこへ行くのかしら?」
『神の御許へ還り、『最後の敵』をより強靭なものへと鍛えます』
「勇者に安息は無いのね……」
ジンジャーはもう一度だけペリエを悼んだ。
鐘楼から鐘の音が鳴り響いた。深く静かな音色が町じゅうに響き渡る。誰かの前途を祝すように。誰かの冥福を祈るように。
勇者は眠らない。試練は歩いていく。乾いた荒野で虹を待たず、雨に向かってまっすぐに。
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