許されざるもの
――私が彼女と出会ったのは山間の集落へ向かう列車の中だった。信じられるだろうか。西大陸に名を馳せた『災厄』と私は座席を隣り合って座っていたのだ。もっともその頃はまだ物騒な通り名がつく前で、彼女はただの純朴な少女に見えた。そのときは女の一人旅同士ということもあり話が弾んだことを覚えている。
ジンジャーと名乗った少女は東海岸を目指す旅の途中だと言った。この文章を読む読者諸兄ならば彼女が東海岸で何をやって『災厄』となったのか、ご周知のとおりだろう。
とまれ当時の彼女がアウトローのアの字も知らないのと同じく、当時の私もまた駆け出しのルポライターだった。私は山を移動する遊牧民を取材するために足を運んでいた。ジンジャーは特定の目的があったわけではなく、列車が整備と補給のために停車するので、他の乗客同様に途中下車した様子だった。
列車を降りたジンジャーは人目をはばからず大きく伸びをしてたっぷりと自分の尻を揉みほぐした。昔、村の集会で大あくびをかましたときに、ひとりだけ集会所の壁を向いて立たされたことを思い出していた。たかだか三十分ほどの時間が永遠と等しく感じた。あれはみじめではあったが、それでも尻が平たく押し潰されたように痛むことはなかった。
「生きたままお尻をタルタルステーキにされるかと思ったわ……」
『山岳ルートを選んだのはお嬢さまでしたよね』
中折れ帽をかぶり直し列車に悪態をつくジンジャーを脳裡からエールが諫めた。
「平野を抜ける路線は貨物列車ばっかりで客車が全然来ないんだもの。山道を折り返すたびに車体がキイキイ悲鳴を上げるなんて知ってたら乗らなかったわよ」
『お忘れかもしれませんが、まだ下山のための乗車が残っています』
「今は忘れることにしたわ。乗り換えのこともね」
尻をさすりながら少女は駅を出た。
春の陽気を線路の上にこぼしてきたみたいに高原の空気は肌寒さをはらんでいる。少し前までは融け残った雪があったのだろう。爽やかな湿り気がジンジャーの鼻先をくすぐる。新緑の芽吹く木立の小道を行くとすぐに村落が開けていた。
遊牧民たちが春から夏の終わりまで過ごす『夏の家』と呼ばれる集落である。彼らはここで夏までを過ごし、秋になれば下山して麓の集落で冬越えの準備に従事する。
村の暮らしを眺めて歩くジンジャーの向こうから、一頭の家畜が駆けてくる。体表を羊のように柔らかな毛で覆われ、短い角が頭の後ろに向かって生えている。だが馬のように首が長く、蹄の先が割れていない。牧場育ちのジンジャーの知らない生き物である。
不思議なその生き物を追って小さな少女が懸命に走ってくる。
わあわあと嬌声を上げる少女に追い立てられる家畜は、立ちはだかるジンジャーを避けようと横合いに跳びはねて勢い余って地面を転げまわる。
「こらー、あぶないでしょ!」
「ごめんなさい。大事な仔でしょう」
地面に投げ出された家畜を押さえつける少女に、ジンジャーは頭を下げる
「おねえちゃんじゃないよ。この子がね、飛び出して行ったから」
真っ赤なほっぺたに黒い瞳をした少女は、あどけない笑顔をジンジャーに向ける。
「まだ子供ね。名前はなんていうの?」
「あたし、シトロン! この子はリボンちゃん! かわいいでしょう」
シトロンが倒れた家畜を抱き起こしているうちに、ジンジャーの脳裡に声が響く。
『あれはバロメッツ。家畜化された魔獣です。ご推察のとおり、目の前の個体はまだ幼体ですね』
「魔獣って家畜になるの?」
『生来の魔獣は子を成しません。ですので正確には魔獣化された動物を家畜にしたものです。グリフィンが馬をヒッポグリフに造りかえるように、魔獣にされた動物は元の動物同様に交配が可能です。元がどんな動物だったのか分かりませんが、バロメッツは家畜になった稀有な魔獣ですね』
「ふうん。見た目だけじゃそうは思えないけど」
『その証拠に有毒です』
「え! この動物、毒があるの?」
「そうだよ。おねえちゃん、バロメッツのことくわしいの?」
「う、ううん。よく知らないの。教えてもらえる? わたしはジンジャー。うちは牧場をやってるから生き物には慣れてるの」
自己紹介をして腰をかがめ、シトロンへ向き直る。シトロンは得意げに話し始めた。
「あのね、バロメッツはね――」
舌足らずなシトロンの説明を、エールの推測で補完して総合すると――バロメッツは見た目どおり、羊のような白い体毛を刈るために飼育されている家畜である。収穫した毛は熱湯で茹で、毒を無害化してから出荷される。夏は高原の湖を拠点に、冬は麓の川の支流が流れ込む沼を中心に放牧する。夏の暑さに弱く、冬は高原の湖が凍るため、拠点を移動する遊牧生活が確立されていったという。
『毒はアルカロイド系の神経毒。ごく弱いものですが、人によってはかぶれることもあるでしょう』
「弱いってどれくらい?」
『毒の含まれる毛を成人男性に一度に大量摂取させると致死量の半分で死に至ります』
「どういうこと?」
『飲み込ませても毒性が弱すぎて中毒死する前に窒息死することになります』
「触れ合う分には問題ないのね」
「そうだよ。ふわふわしてとってもかわいいの。あたしのリボンちゃん」
シトロンは真っ白な仔バロメッツをいとおしそうに抱きしめる。ジンジャーもかつてその手で育ててきた仔牛たちを思い返していた。懐かしくも、もういない肉牛たちである。
バロメッツの寿命は分からないが、いつかシトロンより先んじて命をまっとうするのだろう。そんな未来を想像すると、幼い頃の自分をシトロンの姿に重ねて、ジンジャーは親近感を覚えずにはいられなかった。
「その仔のこと大事にしてね、シトロン」
「うん。ずっといっしょにいる。ジンジャーおねえちゃんと約束する」
シトロンが差し出すちいさなゲンコツから突き出した親指に、ジンジャーは自分の親指を重ねて約束を誓った。
懐かしい気持ちに心をほぐされていると、ジンジャーの元に歩み寄る女の姿があった。列車の中で隣り合った若手のルポライターだった。
――『災厄』いや、ジンジャーは不思議な魅力をもつ少女だった。彼女は知り合ったばかりの現地の子供とすぐに打ち解けていた。かくいう私も彼女の魅力の尻馬に乗って現地の遊牧民と引き合わせてもらった。(もちろん当時出版したルポタージュ「山を登る綿毛(ポポロビレッジ刊)」に彼女のことは書いていない)
ジンジャーは列車の発車時刻まで村で休んでいるつもりだった。実際に彼女は知り合った子供と和やかな時間を過ごしていた。村を見て回り、共に食事を取り、笑い合う。とても穏やかな時間だった。
だが『災厄』と呼ばれる女にそんな時間が長く続くはずもなく、私たちは混乱と恐怖のるつぼに叩き込まれることとなる。
最初に倒れたのは私だった。呼吸が苦しくなり、頭痛と吐き気にみまわれ、激しい悪寒が全身を包んだ。すぐに同じ症状が隣にいた子供にも現れ、周囲の村人たちもしだいに苦しみだした。
ただひとり、ジンジャーだけが戸惑いの表情で彼らを見ていた。このとき彼女の髪は神秘的な赤い色に染まっていた。(よく誤解されるが、彼女の本当の髪色は赤ではない)
「シトロン! しっかりして、シトロン! ねえエール! どうなってるの!」
急変した状況に、ジンジャーは周囲の目も気にせず虚空を怒鳴りつけた。
『敵です。私としたことが、出現を感知できませんでした』
ジンジャーは素早く辺りに視線をめぐらせる。具合を悪くしてうずくまる人影がそこかしこにあるばかりで、見えるものといえばバロメッツたちだけだった。
「このバロメッツたちの中から敵を探せってこと……?」
『近いですが違います。群れの中から敵の個体を探すのではありません。敵はバロメッツに寄生して、彼らの毒性を強めています』
「寄生虫の、魔獣……」
敵によって急激に強められたバロメッツの毒が、その毛や体液に宿って空気中に漂う。周囲の人間は皮膚や口からそれらを吸収して中毒症状を発っしている。
「なんでわたし以外の人が苦しむの? 敵はわたしを狙ってるんじゃないの?」
『貴女にも毒は効いています。行動に支障をきたさないよう、私が脳をだましているのです。敵の潜む個体を探し出して処理しなければ、いずれ呼吸が止まります』
「見分ける方法は?」
『毒を放っている個体を探してください。唾液を噴き出しているとか、体毛を撒き散らしているといった特異な個体です』
「そんなこと言ったって……」
ジンジャーは目を皿にしてバロメッツたちを見渡した。家畜である彼らは世話人たちがバタバタと倒れていく状況に戸惑っている様子でどこか落ち着きがない。
ふとジンジャーの目は風の中に漂う白い煙を捉えた。いつもより重くなった脚を繰り出して近づくと、煙の出所はバロメッツの角だった。頭の角に粉がふいて、それが風に乗って飛んでいる。
『お嬢さま、その個体を絶命させてください。可及的速やかに』
「こいつが敵なの?」
『早く脳を吹き飛ばしてください。その角から毒が流れ出しています』
普段よどみなく落ち着いて喋るエールが珍しくまくしたてるので、ジンジャーは素早く腰の拳銃を抜いて撃鉄を起こし、バロメッツの後頭部、ふたつの角の間に狙いを定めた。
「ごめんなさい。飼い主の人」
ためらわず引き金をひく。鍋のフタを取り去るようにバロメッツの頭が吹き飛び、辺りに毒の体液が飛び散る。両の角からふいていた白い粉末は湧き出さなくなった。
「宿主が死ねば止まるのね。これで終わり……?」
『まだです。お嬢さま、敵は寄生虫ではありません。菌です』
「菌? 牛乳をチーズとかヨーグルトにするあれ?」
『その理解で構いません。私たちはひとつの誤認を抱えていました』
「敵が小さすぎて気付かなかったって話?」
『バロメッツのことです。これは動物ではありません。植物です』
「何を言ってるの? 頭に毒が回ったの?」
『植物が動物型の魔獣になったのか、動物が植物型の魔獣になったのか、元の生物は定かではありませんが、バロメッツは動物の生態を獲得した植物です。放牧地に水が必要なのは光合成のため。体毛は体内温度を確保するためでしょう。おそらくバロメッツは口から食べた草を腹の中で菌類に分解させて栄養を得ている。彼らは菌と共生関係にあるのです』
「じゃあさっきまで頭から振り撒いてた白い粉は……キノコの胞子!」
『はい。敵の子株です。子株が別のバロメッツに感染し、その個体の毒性を強め、再び毒を帯びた孫株が散布される。これによって周囲一帯のバロメッツを猛毒化させます。魔獣であった来歴を考えれば先祖がえりといったほうが近いかもしれません』
「ネズミ算で増えるんじゃ手の打ちようが無いわ!」
『敵の本体を探してください。親株の宿主を活動停止させれば子株も連鎖的に消滅します』
「消滅……死体が残らない……これ、魔獣じゃない」
『ご推察のとおり。敵は魔獣ではなく悪魔。お嬢さまの言葉を借りればキノコの悪魔です』
人類の天敵は大別して二種類存在する。魔獣と悪魔である。
どこからともなく自然発生し、人間を害することは両者に共通している。
魔獣は動物――とりわけ猛獣の姿をして直接人間を襲うが、動物ではない。死後に解体しても消化器官が見つからないのだ。生まれ出でた際に与えられたエネルギーで活動し、死ぬまで人間を襲う。動物の形をなした殺人装置といっていい。
悪魔が何なのかは現代の人類には定義できていない。決まった姿を取らない。人型、動物型、器物、果ては影まで。魔獣でない天敵を悪魔と呼んでいるフシさえある。
人を襲うのは魔獣と同様だが、縄張りの内で人間を狩るような動物的な習性は見られない。神出鬼没。いつどこに現れるのか分からず、出現すれば必ず人を害する。
悪魔のなによりの特徴は、単純で強力な能力を必ずひとつ備えていることだ。魔獣のような純粋な暴力とは違う。機能といっていい。人を殺すためだけの機能である。
そして死ねば死骸を残さず消滅する。少なくとも解剖できる魔獣のように分解・解析の余地は無い。
今遊牧民たちを巻き込んでジンジャーを殺そうとする敵もまた、その悪魔である。エールはそう断じた。
「人間には毒で、バロメッツにだけ感染するなら、そっちを片っ端から殺せばいい。毒が熱に弱いなら、爆裂の魔弾を使うわ」
『炎はおすすめしかねます。上昇気流を生んで胞子を空にばら撒いてしまう。上空の気流に乗れば胞子はどこまでも飛んで、今度はバロメッツ以外の猛毒の生き物を生むでしょう』
「拳銃の弾じゃどう考えても足りないわ」
ジンジャーの拳銃は旧いパーカッション式リボルバーである。弾を撃ち尽くすと再装填に非常に時間がかかる。
『散布された胞子から成長したキノコは同心円状に分布します。現在の感染状況を遡っていけばおのずと最初の一株に辿り着きます』
「その親バロメッツを殺せば――」
決着がつく。そう言いかけて、ジンジャーの喉に言葉がつかえた。
バロメッツの毒で最初に倒れたのは自分と同じ列車でやってきた若い記者。その次は彼女のそばにいたシトロン。ならば最初の一株――キノコの悪魔が宿ったバロメッツは……。
ジンジャーの視線は苦しそうに倒れ伏すシトロンへ走り、その傍らに寄り添う一頭の幼いバロメッツに吸着される。
「リボンちゃん」
シトロンがいとおしそうに呼んでいた名を口にする。見つめる先のバロメッツは呼ばわれたのに気付いたのか、深緑の双眸でジンジャーを見返した。
「ごめんなさい。シトロン。約束、守ってあげられなくて。けどそれ以外は守ってあげる」
撃鉄を起こし、ジンジャーは躊躇いのない足取りで悪魔を宿すバロメッツへ近づく。
同時に、ジンジャーを見るバロメッツの両目が光を放った。
「化けの皮が剥がれたようね」
『お嬢さま、銃をしまってください。敵は奥の手を出すようです』
エールの警告。ジンジャーは一瞬、意味をつかみかねた。目の前の家畜の頭を吹き飛ばせば片がつくはずなのに。
彼女に戸惑う暇も与えず、幼いバロメッツはシトロンのそばから離れ、ジンジャーの前へ一歩一歩近づいてくる。
その足を踏み出すたびに、肉体が膨れ上がってゆく。新芽が若木に、若木が老木に、老木が大樹に――時間を加速させて成長する樹木のように、バロメッツは柔らかさとしなやかさを引き換えに、見上げるほどの巨体へと変貌を遂げた。
「促成栽培が過ぎるわよ……」
ジンジャーは血相を変えて逃げ出した。こんな村の只中で暴れさせるわけにはいかない。シトロンたちを踏みつぶされてはかなわない。
走り出したジンジャーの肉体も赤い光を放ち、巨大な人型へと姿を変える。
高原の村で赤い巨人と毛むくじゃらの巨獣が向かい合っていた。
『お嬢さまの肉体はすでに激しい運動には対応できません』
「毒が回ってたんだったわね」
『ですが巨人に意識を移せば、お嬢さまの肉体を治療できます』
「治癒魔法が使えるの?」
『いいえ。意識のない肉体を高熱で炙って毒を無害化するだけです』
「火傷とか残らないわよね……?」
『一瞬ですから大丈夫ですよ。ただ血管が脆いと脳溢血の危険があります。コレステロールは摂っていますか?』
「脅さないでよ」
『もう終わりました』
承諾もなく毒を取り去られ、ジンジャーは束の間、呆気に取られた。
『ここで始末をつけましょう』
「またフェザーを使うの?」
『敵の本体は菌です。狙って切り裂くのは不可能です。こちらの勝利条件は親株を倒すことですが、これが複数あった場合、風に乗って逃亡する可能性があります』
エールが話している最中に、眼前の巨獣は巨人目掛けて突進してくる。
ふかふかと柔らかな毛にうずもれながら受け止め、ジンジャーは巨大な足を踏みしめた。
「なら他の手を打たなくちゃ。でも火はダメなんだっけ?」
『はい。ですからあそこまで押し返してください』
エールの声が示すほうへ視線を向ける。木立の中にぽっかりと開けたそこは、遊牧民がここを拠点として選んだ理由――高原の湖だった。
ジンジャーは強く力を込め、巨大化したバロメッツを抱き上げると、のっしのっしと湖へ向かう。敵の喉からは獣の鳴き声のような、空洞に吹き込む風の音のような、重く暗い音が響いてくる。
「こういうことでしょう!」
ジンジャーは担ぎ上げた巨獣を湖目掛けて頭から投げ込んだ。起き上がろうとする敵を仰向けに寝かせて押さえ込む。四つの脚が虚空をかく。
「羊の毛刈りなら見たことあるわ」
『不動化反射ですか。さすがですお嬢さま。反射であれば脳を操る敵は即座に対抗できません。早く仕留めてしまいましょう』
「ええ。このまま溺れさせる!」
湖の中で馬乗りになった赤い巨人の手がバロメッツの長い首に伸び、湖面の下に頭部を沈める。頭は悶えながら呼気を吐き出し、水面をぶくぶくと泡立たせる。
『お嬢さま、残念ながらその作戦にはふたつの欠点がございます。ひとつは植物であるバロメッツが溺死するか分からないこと。もうひとつは、仮に溺死するとして、それまで相手を押さえつけておく時間がないことです』
「そういえばさっきから急かしてるふうだけど、何かあるの?」
『今まで説明していませんでしたが、巨人化できる時間はきっかり三分間です』
「そういう大事なことは早く言いなさいよ!」
『補足すると再度巨人化するためには丸一日時間を置かなければなりません』
「だからそういうことは先に――じゃなくて、残り時間は?」
『一分半です』
「溺れ死ぬわけがないわ!」
『ですからこのまま全身を茹でます』
バロメッツの首を絞め上げ、押さえつける赤い手が、ゆらぐ水面を透かしてまばゆい輝きを放ち始めた。
すぐに周囲の水が湯気を立て、ぐつぐつと沸き立つ。
『本来は熱と衝撃を伴う光の奔流を放つ技――名付けるならばジャッジメントレイ――なのですが、今回は熱だけを利用します』
「熱い……これ、間に合うの……?」
『問題ありません。さあ、貴女に勝利を』
巨人の手が、溶けた鉄より熱くなっている。ジンジャーは自分の腕のずっと先のほうでその熱を発しているのが分かった。人間が骨まで燃える温度だと直感で理解できるのに、その熱に自分が耐えていることが理解できず、不気味な違和感がひとかたまりの岩になって彼女の胸の内に押し込められてしまう。巨人の尺度での違和感だ。少女の胸に収まる大きさではない。
ただただ不気味な暴力が湖面を煮えたぎらせ、茹だった水面に死んだ魚がプカプカと浮いてくる。シトロンがかわいがっていたバロメッツが動かなくなり、焦げた肉のように固くこごっていく。ジンジャーは敵の喉首を絞めつける手応えを感じながら、ばかに巨大な暴力を眺めているしかなかった。
バロメッツが何の抵抗も示さなくなってどれほど時間が経っただろう。ジンジャーは湯気の立ち上る蒸し暑い湖のほとりで、赤い髪をして立ちつくしていた。
「……おねえちゃん」
遠慮がちな声がジンジャーを呼んだ。振り向けば木立の道を駆けてきたシトロンが赤い頬をさらに上気させて息を弾ませている。
「リボンちゃんは?」
自分の服がしわくちゃになるのも構わずに胸を握りしめて、まっすぐに問いかけてくる。
ジンジャーはシトロンの元気な様子を認めて、言った。
「死んだわ」
うっ、と息を詰まらせて、シトロンは両目にいっぱい涙を溜めた。犬のように大きな黒い瞳がぐちゃぐちゃに滲んでいく。小さな桜色のくちびるがわななき、息をしゃくり上げる音が静かな湖畔に響いた。
シトロンを追って若い記者がまだふらつく足取りでやってきた。
彼女は立ち木に寄り掛かり、赤い髪のジンジャーとさめざめと泣くシトロンとを交互に見ていた。
ジンジャーはシトロンの前に屈みこむと、約束を交わしたときと同様に親指を立てて拳を突き出した。
シトロンはその手をはたいて拒絶する。幼い目が恨みがましい視線でジンジャーを睨みつけ、つぼみのような口が必死に言葉を絞り出した。
「うそつき」
ジンジャーは黙って頷いた。それだけが真実であるように。
そうして彼女だけが遊牧民たちの村へと引き返して行った。
村ではまだ多くの村人たちが倒れたままだった。アナフィラキシーの影響ですぐに毒が抜けないのだとエールは説明していた。バロメッツの毒と触れあう期間が短い者ほど回復が早いのだと。
ジンジャーの耳にそんな言葉は届いていなかった。シトロンに言われた言葉だけが彼女の頭の中で繰り返し繰り返し響いていた。
――彼女は村に戻ると老婆のように背中を丸めて「しょうがないじゃない」と地面に向かって何度もつぶやいていた。気丈な娘の影はもうどこにも見出せなかった。
これが私の出会った『災厄』と呼ばれる前の少女、ジンジャーの姿だ。このときの彼女はまだ小娘だった。少なくとも私が列車の中で出会ったときは確実に。けれど、現地の少女に拒絶されたとき、いや、少女との約束を破ると決めた瞬間、彼女はアウトローとしての一歩を踏み出したのではないだろうか。私は伝説のアウトローが生まれる貴重な瞬間に立ち会っていたのかもしれない。
彼女はその日のうちに列車に乗って山を降りていった。偶然にも駅舎には連邦保安官が立ち寄っており、彼は『赤毛の魔女』と呼ばれる賞金首の手配書を掲示して、あろうことかジンジャーと同じ列車に乗り込んでいった。数々の賞金稼ぎがその命を狙ったという『赤毛の魔女』は、物騒な通り名をつけられる前に呼ばれたジンジャーの通り名である。
私は保安官にジンジャーのことは何も告げなかった。あの赤毛を見ていたのにだ。
新聞記者の道を諦め、ルポライターの道へ進み始めていた当時の私には、しょぼくれた彼女の姿が、かつて失意の底にあった自分自身と重なって見えて、ひどく懐かしく思えたからだ。誰も彼女から何も奪わないでほしいと願ってやまなかった。
それでも伝説のアウトローとなる彼女は、この先に幾度も辛酸を舐めることとなるのだろう。いつかそれを追ってみるのも悪くないが、今はここで筆を置くことにする。
列車が山を降りていく。キイキイと小動物をいじめたようなひどい音を立てて。
車窓から見晴らす遠くの荒野を眺めるジンジャーへ、出し抜けにエールが言った。
『お嬢さまには足りないものがあります』
「顔のいい恋人?」
『腸内細菌です。毒を無害化する際にほぼ死滅してしまいました。人間もまた微生物と共生関係にあるのです。このままだと便通に影響が出ます』
「旅行中の便秘は避けたいわね……」
『車内販売にキャベツの酢漬けがありました。乳酸菌を摂取してください』
エールの助言を受けてジンジャーは、たっぷりの酢漬けをパンに挟んで腹に詰め込んだ。
「酸っぱいわ……。ビネガーを効かせすぎよ。鼻にツンとくる。どうしましょう」
独りごつ彼女の目に、涙が滲んでいた。
「ねえエール。わたしには嫌いなものが三つあるわ」
『存じております』
「ひとつは母さんのラズベリーパイ。もうひとつは生まれてすぐに死ぬ家畜」
『三つ目は?』
「約束を破る奴よ」
『覚えておきます』
ジンジャーは中折れ帽を目深にかぶって客車の壁にもたれかかって眠った。
列車に揺られるうちに再び身体はあちこち悲鳴を上げるだろう。だが目覚める頃には痛みに耐えることに少しは慣れているはずだ。
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