第2話 10月16日全改稿
「自分が誰か分からないって、記憶喪失って事ですか?」
「うん。そんな感じ」
こんな風に落ち着いて話せるようになるまでには、かなりご近所迷惑なドタバタ騒動があったのだけど、ご想像の通りなので割愛する。
ともかく、現実問題として彼女は幽霊で、特に害のある存在ではないらしい。
この部屋から出られないと言うし、取り乱していても始まらないので落ち着いて話し合う事にした。
「ある日気づいたらこの部屋に居て、自分が誰かも分からなくて、そんで今日に至ると」
「端折り過ぎじゃないですか?」
「だって特になにもなかったし。誰もあたしのこと見えないし、あたしも何も触れないし。何も起きようがないでしょ?」
拗ねたように女の子が言う。
本当かなぁ? と僕は思った。
「……なにその顔。疑ってるの?」
「だって、ここの家賃すごく安かったので。なにかあったとしか思えないと言うか」
「あぁ、それね。長く一緒に住んでると波長みたいなのが合ってくるのかな? 時々ちょっと見えたり、あたしの声が聞こえたり、気配を感じたりするみたい。で、その内怖くなってみんな引っ越してっちゃうの。そんなの、あたしは悪くないでしょ?」
「……まぁ、そうでしょうけど。じゃあ、なんで僕だけこんなにはっきり見えるんですか?」
「知らないよ。あたし、幽霊博士じゃないし。たまたますごく波長が合ったんじゃない?」
「そんな適当な……」
「それより、名前教えてよ」
ニコニコしながら女の子が詰め寄って来る。
「あ、阿知波ですけど。阿知波、早雲」
「え~! なにそれ、お坊さんみたい! もしかして、そういう家系?」
「多分違うと思いますけど……」
少なくとも、両親祖父母は違う。
それにしても、陽気な幽霊だった。
僕なんかよりよっぽど明るい。
足だってちゃんとあるし、身体が透けなければ幽霊だとは分からないだろう。
だから僕も、そんなに怖がらずにいられるのかもしれない。
「そっか。じゃ、あっ君で」
「えぇ……」
「いいじゃん! あっ君小さくて可愛いし、あっ君て感じじゃない? これから一緒に住むんだし、仲良くしようよ~」
女の子がぐりぐりと肩を寄せてくる。
力を入れると突き抜けてしまうだけで、向こう側には多少の抵抗があるらしい。
彼女の発言に、僕は「え?」という顔になってしまった。
途端に女の子の笑顔が曇る。
「え……。あっ君、嫌なの?」
「嫌ってわけじゃないですけど……」
幽霊と同居というのは抵抗があるけれど、他に条件に合う物件はないし、もう一度引っ越すお金もない。
彼女はこの部屋から出られないと言うし、一緒に住む他ないだろう。
「よかったあああぁぁぁ! もう、びっくりさせないでよ!」
変な事になっちゃったなと困惑する僕に、女の子がうりうりと肘をぶつける。
「あたしこの部屋から出れないし、何も触れないし、ずっと一人で退屈だったの。 こんな風にお喋りするのだって初めてだし。だからあっ君とは是非ともお友達になりたいなと!」
「うわぁっ!」
危うく唇が触れそうになり、僕は思わず仰け反った。
いや、幽霊だから触れはしないんだけど。それどころか、体温や吐息だって感じたりはしないのだけど。
それでも、見た目だけははっきりと存在しているように見えるのだ。
こんな可愛い子の顔が目と鼻の先にあったらドキドキしてしまう。
「あははは。真っ赤になってる。あっ君て結構照れ屋?」
「か、からかわないで下さい!」
「それは無理かも。あっ君てからかい甲斐の権化って感じだし。それよりお友達! なってくれる?」
「……それは、いいですけど」
そんな真正面から聞かれて嫌と言える人間はいないだろう。
これから一緒に住まないといけないとなれば猶更だ。
「じゃあ、お近づきの印に名前つけて貰おうかにゃ~?」
「え?」
「だって、名無しのままじゃお互いに困るでしょ?」
そりゃ困るけど。
「そんなの自分で付けたらいいじゃないですか」
「やだよ恥ずかしい」
「僕だって恥ずかしいですよ」
「それがいいんじゃん。あっ君のセンスが試される的な? ふ~んそういう名前をつけるんだ、的な?」
「勘弁してくださいよ……」
本当にこの子は幽霊なのかと疑いたくなる。
「だめ~! つけてつけて~。あっ君セレクトの可愛い名前つけてよ~」
しつこくされて、僕もだんだん意地になってきた。
「ていうか、なんで今までつけてなかったんですか? 記憶喪失だからって、名無しのままじゃ不便でしょ?」
「全然? だってあたし、名前呼んでくれる人なんか一人もいないもん」
「あっ……」
僕はバカか?
彼女は幽霊で、僕以外の誰にも見えないのだ。
存在しないのと同じで、名前なんか必要なかったのだ。
「……ご、ごめんなさい。そんなつもりじゃなくて……」
特大の地雷を踏み抜いてしまい、僕はおろおろした。
そんな僕を、名無しの幽霊はニヤついた顔で眺めている。
「じゃ~バツとして名前つけて」
負けを認めて、僕は肩をすくめた。
「……じゃあ、花子さんで」
「え~! やだ! もっとかわいいのがいい!」
「む、無理ですよ! 僕のセンスじゃこれが精一杯です!」
こんなに可愛い子に自分で可愛い名前なんかつけたら、恥ずかしくって絶対に呼べない。
「じゃあ、一文字変えてナナコでいいや」
「どんな字を書くんですか?」
「なんにしようかな~。
「えぇ? ナポレオンのナですか?」
「奈落の名と同じ奈だよ」
なら最初からそう言って欲しいのだけど。
「というわけで、よろしくね、あっ君」
ニコニコしながら奈々子さんが言う。
もう、早く名前を呼んで欲しくて堪らないという顏だ。
だから僕も、恥ずかしいのを我慢して名前を呼んだ。
「……よろしくお願いします。奈々子さん」
「きゃ~! なんか超うれしい! やっぱり名前があるっていいね! ねぇあっ君! もう一回呼んでよ!」
「い、嫌ですよ! 恥ずかしい!」
「お願いお願い! 一回だけ、もう一回だけ!」
片目を瞑って手まで合わせられたら断れない。
「う~……。な、奈々子さん……。これでいいですか?」
「はにゃ~。たまらん! お代わりで!」
「いい加減にして下さい!」
「い~じゃんケチ! 減るもんじゃなし! あたしは可哀想な地縛霊なんだよ!」
それを言われると僕も弱い。
結局その後、奈々子さんが飽きるまで名前を呼ぶことになってしまった。
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