日常

「であるからにしてー、この公式が成り立つのです」

そう言って教師が黒板に拡張現実で示された数式を指さす。

眼鏡型の拡張現実を外すと黒板には何も書かれてはいなかった。

黒板にはなにも書かれていないから余計に滑稽に見える。

僕は拡張現実を額にずらし、教室全体を見る。ほとんどの生徒がしっかりと黒板の方に目を向け、他は寝ていたり、手元のタブレットを凝視していたりした。

皆、同じように眼鏡型の拡張現実をつけているが不思議に思わないのだろうか?

ここに居る皆と同じように拡張現実をかけてタブレットでメモをとり、講師の説明を聴く。自分だけだろうかこの光景を不思議に思うのは。

視線を落とし、手元のタブレットを見る。

そこには自分の名前、学生ID、出席番号が映し出され、反対の片側には数式が書かれていた。

僕が見ている世界はこれだけ。

このタブレットに映し出された情報が僕をこの世界に存在していることを証明している。

変な話だと思いながら拡張現実をつけた。

黒板に視線を戻しながらふと思った。

完全に自分と呼べる証拠みたいなものがない気がする。

ふと僕は拡張現実をつけたまま窓の外を見てみた。

窓の外は青い空が広がり、遙か遠くの向こう側には巨大な積乱雲が浮かんでいた。

五月の初めでこれだけだから今年の夏は暑くなりそうだ。

そんなことを思いながら、拡張現実が写しだした雲の情報をチラリと一瞥した。

多分、この情報もすぐに忘れてしまう。

そう考え、すぐに授業のほうに集中することに意識を向けた。


 休憩時間は何となくボーッとしてしまう。

僕は食事を獲る前に少し、机にもたれかかり、休んでいた。

「また同じ格好でいるー」

僕が目を閉じていると暗闇のなかで声が聞こえた。

 僕が顔を上げるとそこには大きな瞳でこちらをのぞき込む女子がいた。

そしてその隣には短髪の長身の男子。

「ミナト君、本当にその格好するの好きだよねー」

瞼を開き特徴的な猫のように大きい瞳を爛々と輝かせながら隣の長身の男子の身体をベシベシと叩く。

長身の男子は気にすることなく気怠いといった感じで眠たそうな瞳をこちらに向ける。

「曳舟のこの姿は恒例だな」

ぽつりと低い声で呟き、自身の頭をボリボリとかいた。

「ああ、二人とも……」

「ああ、二人ともじゃないでしょ。 本当に寝るのが好きなんだね、ミナト君はー」

語尾を伸ばしながらまた隣の長身の男子をばしばしと叩く。

「ごめん、ごめん。カスミ、タクト」

僕は二人を呼んだ。

猫のように大きい瞳をこちらにむけ、にまりと笑う彼女の名前は笠原カスミ。

そしてその隣の長身の彼は長島タクトだ。

二人はクラスが違うのだけれど、なぜだか気が合い、今ではお互いのクラスに出入りしている。

ただ昼休みは必ず教室で寝ているため、二人がここの教室を訪れる。

それがほぼ毎日の習慣になっていた。

「ねーねー、ミナト君。 今度の日曜日、暇?」

カスミは突然、僕の方に顔を近づけ、瞳をのぞき混むように真っ直ぐに見つめてきた。

彼女はそういう性格なのだ。

まるで自分のパーソナルスペース、領域を分かっていないのか人の領域にグイグイと入り混んでしまう。

僕は思わず、たじろぎそうになりながら息をのんだ。

そして質問の返答をした。

「と、特にないけど……」

「やっぱりー。 じゃあさじゃあさ、タクトとミナト君と私たち三人で遊びに行かない?」

カスミは人差し指を頬に当てながら問いかけてきた。

「遊びに行くっていってもどこへ?」

「質問を質問で返すのはずるいねー」

そういいながら隣のタクトの腕をバシバシとたたく。

僕は隣に立つタクトは気にならないのだろうかとふと思ってしまう。

そんな僕の考えを裏切るかのようにタクトはいつもの無愛想な感じで口を開いた。

「隣町のアクシオンモールだ」

そこはこの近隣ではかなり大きいショッピングモールでそこには拡張現実で他の人間と情報を共有してゲームなどが出来るような設備が整っており、僕らここの生徒は大多数は使用したことのある定番の場所となっていた。

「いいよ。行こう。 特に予定はないから大丈夫」

僕は二人に向かって言った。

「よし。決定だね! じゃあ、ミナト君忘れないでよー」

元気にカスミは僕に向かい歯を見せて笑う。「タクトもだよー。 忘れたら怒るからねー」

カスミは隣に立つタクトの腕を小突く。

「オウ」

タクトは短く答えた。

それに満足したのかカスミはニシシシと擬音が聞こえそうな笑顔を見せる。

僕は気が付けば笑っていた。

そうこれがいつもの日常で変わらない三人でのやりとり。

この昼休みの時間が唯一の楽しみにもなっていた。

「じゃあ後で時間送っておくからよろしくねー」

そう言い残しカスミとタクヤは教室から出て行った。

僕はそれをただ笑って見送る。

そう毎日、その繰り返しだった。

でもそれはある意味喜びで、僕の短い人生の中での喜び。

家に帰ると話す人はいない。

そう言うと誤解されるのだけれど親がいないわけではない。

母は物心ついたときにはこの世界から姿を消していて、父は仕事と研究で、いろいろと転々としている。

たまに帰ってきても一言二言話すだけですぐにいつもの生活に戻る。

だから寂しいというのもあるのだろうけれどその前に来るのは楽しさ。

だから僕は毎日、この場所に入れるのが楽しみにもなっていた。

僕はふとそんな事を実感しながらまた短い仮眠に戻った。

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