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島田(武)
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小川陽貴の通う佐倉総合高校は全校生徒のおよそ四人に一人が吹奏楽部員である。運動部顔負けの基礎練習メニューに全国大会金賞は当然という厳しい世界。併せて甲子園常連の野球部を筆頭とした運動部の活躍も目覚ましく、吹部以外の文化部は存在しないも同然の扱いだ。特に陽貴の所属する文芸部は創設五年――因みに理科部と茶華道部も兼ねている――部員数は六名。そのうち幽霊部員が二名という弱小部活である。
桜のつぼみが膨らみ始めた校庭を見下ろしながら、陽貴は西日の差す部室で年季の入った頁を捲った。バックミュージックはおなじみ、一年先輩の七海温子の詩的イグノーベル賞トークだ。今日も彼女は焦げ茶の瞳を爛々と輝かせ、真剣な面持ちを保ったまま、至極常人には興味の薄い内容を論じている。だから陽貴は今日もまた、初めてミミズの話をダーウィンから聞いた友人のように、呆れと一種の羨望を隠し曖昧な相槌を返していた。
「人間はよく出来ているよね。例えば目。もし人間が百メートル先の微生物までハッキリと見えたら、情報量が多くて混乱しちゃうだろうな。過不足なく、きっと必要な情報と不必要な情報を瞬時に判断できる範囲しか見えないように作られてるじゃないかな」
「そうですね」
「それもきっと、単純な視力だけの話じゃない気がする。……例えば『恋は盲目』『恋をすると世界が鮮やかに見える』両方とも恋する気持ちが視野に関係してくるって事じゃない? 感じ方だけじゃなく処理できる情報、或いは処理したいと思う情報に変化が出てくるって事に通じないかな?」
「一理あるとは思いますけど」
肯定と否定の混ざる返事に温子は唇を尖らせる。
「そこは素直に肯定して欲しいなぁ。これ、佐藤先輩の名言なんだよ? 私認定だけど」
「何度も聞いたんで知ってます。『どれも当人にとっては真実であり、その時感じたものに~』うんたらかんたらでしたよね?」
陽貴は頁を捲る手を止め、不服そうな温子から視線を外した。校庭では大勢の吹奏楽部部員が列を成し、険しい表情で走っている。花粉症の人間を考慮しない窓から、生温かい湿った風が吹き込む。
「はぁ……。佐藤先輩は凄かったな。本当に頼もしくて優しくて。格好良いのに甘い物が好きっていうギャップも人気だったんだよ。小川君もいつかこの部を引き継ぐんだから、初代部長、佐藤先輩の四分の一くらいは爽やかさと凜々しさと賢さと、あと品行方正さと顔の良さ……ああもう、何でも良いから色々やって色々会得して欲しいよ」
「欲張りすぎじゃ?」
「四分の一だから大丈夫。小川君にもギリ出来る。素質はある」
「あざっす」
「と期待を込めて百点」
「……益々不安に」
「ごめんごめん。でも大丈夫、不安を払拭する力も小川君にはある。それに腐っても生徒会書記。先輩のように会長は無理でも、このままいけば、あわよくば裏から手を回して部費を増やす計画も無くは無い。コミュ力がつけばその顔面偏差値の高さを売りに部員を増やす計画も容易に遂行できる……!」
「品行方正さ何処行ったんっすか」
苦笑する陽貴に、温子は「へへっ」と照れ笑いするおっさんのような声を出した。
「半分は冗談だけどね。とにかく、先輩は凄い人なんだ。さっきの名言がきっかけで先輩はT大の理学部に進んで、今は……」
再び。窓からの風が温子の黒髪を揺らした。まとわりつくような三月の風、伏し目がちに語る温子。それから温子の話す聖人君子と名高い先輩も。陽貴は同じように苦手かもしれない。
「……まあつまり。小川君には色んな事を自分なりに考えて、色んな人と関わって確かめながら大成して欲しいんだなー。私みたいに、とは言えない有様だから。先輩みたいに」
陽貴は緩む温子の頬をチラリと見やり、窓の外に返す言葉を探す。
「わ、まだ残ってたんだね」
その時、入り口付近から聞き慣れた男の声がした。
「あ、高野先生」
「あ、まさ君か」
「高野先生ね、七海さん」
苦笑する顧問の高野真輝に、温子はどこ吹く風か「もう、細かいんだから」と反省の色無し。幼馴染み同士のやり取りは、陽貴が入学した頃から微塵も変わっていない。
「そろそろ帰るんだよ。あと小川君、」
手招きされ、陽貴は素直に従った。
「進路表、そろそろね。とりあえずで良いから。これから面談とかで一緒に探しても良いし」
高野は温子に聞こえぬよう、耳打ちするように告げると頼りなさげな下がり眉を更に下げる。
「……はい」
ぬるく、絡むような風が陽貴の肺を占めていった。
「あ、ごめん。小川君。そう言えば今日は『メカニック共和国の聖女に転生したら、隠れオタク王太子に溺愛されて困ってます!』の新刊の発売日だった。いやーうっかりしてた! 本屋さんはあっちだから、ごめんね!」
唐突に始まった謝罪から行く先の確認まで。陽貴に対し、温子が息つくまもなく一気に告げたのは夕闇が影を落とし始めた校門だった。
陽貴の極短い返事も待たずに、彼女は踵を返し校門の角を曲がる。
「は、はあ……?」
それはほんの少しの。濃い紫の夜の気配の中に混じったざらりとした違和感。
確かに書籍は流行のライトノベルで、作家が地元出身の事もあってか地元の書店にまで特設コーナーが出来ている。アニメ化による二冊同時刊行は1日――――などというポップも見た覚えがあった。当然、駅構内に小さな書店もあるし、彼女が唐突に何かを思い出し行動する事も不思議ではない。
「でもあの七海先輩が?」
陽貴はぼそりと呟く。陽貴の知る七海温子は些細なことが気になって仕方の無い先輩だ。そして黒く艶やかなポニーテールと透き通るような肌、切れ長の瞳……という涼やかな風貌に似合わぬ暑苦しさと強かさを持つ。
件の書籍について言えば、読む前から「書名の日本語に違和感を感じるのは気のせいかなー? それにメカニック共和国なのに王太子に聖女……?」などと野暮な事を言い出しそうな雰囲気だ。それに面倒臭い性格だとは言え、彼女はただの後輩との別れ際に行き先を報告し、更に位置を確認するような面倒臭さはないように思えた。
必然とでも言う程の速さで、陽貴は後を追う判断を下す。
「ああ、もう! 六回目だぞ!」
陽貴はガシガシと頭をかき、温子の消えた路地へと歩みを早める。飛び出た愚痴は黒歴史を繰り返そうとする己の浅はかさに対して。苛立ちはきっと、選んだ答えを正当化する理由を探し始めた己の臆病さに対して。
甚だ腹立たしいが。好奇心と純粋な興味、そして僅かな疑問や不安を捨て置けないあたり、きっと小川陽貴も七海温子と同類なのだ。
温子に気付かれぬよう後を追って間もなくして。陽貴は彼女の視線の先に見知った顔があることを知った。
くたびれ気味のワイシャツに絶妙な塩梅によりデパート広場の芸人を想起させてしまう紺のサマーニット、凡庸なスラックス。別れた際の格好のままの高野だ。温子はまるで今の陽貴のように。高野に気付かれないよう一定の距離を置き、時々スマホを弄りながら後をつけていた。
二人は駅への最短距離を進むと同じ電車へと乗る。陽貴も倣うように通勤客に揉まれながらも後を追う。
幸か不幸か、未だ高野は温子の食い入るような視線には一切気付かず。温子も陽貴の不安と疑念の混ざった視線に気付かない。奇妙な二重尾行は偶然を重ねて成功していた。
高校から一番近い繁華街の広がる駅で乗り換え、県名と同じ駅に降り立つ。高野は改札口前階段を降りた下、ロータリー前の前衛的なモニュメントの前で歩みを止めた。
既に時刻は午後7時少し前。帰路を急ぐ者、待ち人を探す者、談笑し店内に入っていく者等々。駅は人でごった返す。時折吹く湿った風には潮の匂いが僅かに混じっていた。
このおかしな尾行も潮時だ。陽貴は目的の人物へ足早に距離を詰め、華奢な手首を掴んだ。
「先輩! 偶然ですね!」
陽貴の声に温子はびくりと肩を揺らし振り返った。焦げ茶の瞳が小鳥のように丸くなる。
「小川君……」
偶然を装い温子に話しかければ……そんな陽貴の浅知恵が、じっとりと手を汗ばませる。
互いの声は既にざわめく雑踏の中に消え、陽貴の不自然な笑みと温子の硬い表情だけがその場にポツンと残されてしまった。
一瞬の間を置いて。
「……これは、違うんだよ…………ただ、高野先生が心配で」
温子は俯きながら呟くと、意を決したように陽貴へと向き直った。
「……実は私見ちゃったんだ。高野先生がこっそり女の人と会ってる所」
「……え?」
「その人、さ……、まさ君の婚約者じゃ無かった。小さくて細い感じの女の人で……信じられなくてさりげなく今日聞いてみたけど、まさ君は右手で頭かいて『知らないなぁ。そんな女の人』なんて。私は女の人なんて言ってないし、その癖、まさ君が嘘つく時にするって知ってるんだから」
温子は苦虫を噛み潰したように高野の不審な行動を陽貴に話し始める。
一昨日、塾帰りだった温子は偶然高野と見知らぬ若い女性がウィンドウショッピングをしている所を見かけてしまったらしい。
家族ぐるみで付き合いのあった温子は婚約者の顔も知っている。近く執り行われる式にも参加する予定だ。親密そうな二人の様子に衝撃を受け、温子は逃げるように帰宅した。帰宅後ようやく落ち着いた温子は考えたが、見間違えかなにかだろうとの考えに至った。しかし今日、部活帰りに高野へ確認した事で、疑惑の靄は再び濃くなってまったと言う。
不安になった温子はすぐさま行動にうつし、幸か不幸か高野は一昨日と同じ駅に来た。件の女性を確認し、必要あらば更に後をつけ……その先は固く結ばれた唇によって告げられることはなかった。
「人の男女関係にあれこれ言うのは筋違いだし、見間違えとか勘違いじゃないだろうかとは思ってるよ。馬鹿な妄想だとも思ってるけど……」
「ええ」
「でもこのままじゃ私……私、結婚式で『おめでとう』なんて……言えない」
弱々しく吐かれた声は湿った夜風に乗って雑踏の中へと消えていく。
陽貴は視界の端で高野が未だ手持ち無沙汰に両手でスマホ弄っているのを確かめ、大きなため息をついた。
「乗りかかった船です。確かめましょう」
「えっ? いやいや、小川君は帰って良いよ! 私はただ止めないでくれって……」
「不安です」
「えっ?」
「なに驚いてるんすか。先輩今ポンコツでしょう?」
「ええっ?! 私が? ポン……」
「そうですよ。自覚ないんすか? いつもおかしいですけど、今はその数百倍おかしいです。不確かな事に対して勝手に思い込んで勝手に落胆して。挙句の果てに軽率に行動して。冷静さを失った先輩が調べるなんて、酔っ払いが壊れた飛行機操縦して海底遺跡の調査するようなもんですよ」
「うっ……」
「だからサポートします。先輩だけだと見えないものを見えると思ったり、逆にちゃんと見えるものを見落とすでしょう? 一緒に尾行して高野先生の潔白を証明しましょう」
陽貴はにこりと微笑む。遠くから軽快な打楽器から始まる楽しげなメロディーが聞こえた。駅前の仕掛け時計が午後七時を告げたのだ。
「あはは、ありがと」
強く真っ直ぐな瞳は、焦げ茶の瞳から溢れかけていた雫をピタリと止めた。
「相手の人、遅刻してるのかな? 七時をもう随分過ぎてるよね?」
「もともと七時待ち合わせじゃないんじゃないすか? 先生はマメな人です。ギリギリになるような待ち合わせはしないでしょうし」
陽貴と温子はちょうどモニュメント前面からは死角となる位置――――大きな柱の陰に身を潜め、高野の様子をうかがっていた。
温子から聞いた話によると婚約者は背が高く、相当な美人らしい。あまり派手な格好は好まない性質で、おそらくモノトーンで揃えているだろうとの事だった。一方、先日見かけた女性は小柄で美人と言うよりは愛らしい雰囲気らしい。
まずは高野と会う約束をした人間が婚約者か、先日の女性か、はたまた第三の人物かを確かめる。その後の事はその時にまた、二人で検討する。という曖昧な計画を立て今に至る。
「そっか。まさ君は昔から真面目だもんな……」
「それにほら。リズムゲーだと思うんですけど、さっきまでしてたのに今は止めてるじゃないですか」
陽貴が指さした先では確かに高野は片手にスマホを持ち、時々宙を仰いでは再び視線を手元に戻している。
「う、うん……? そうだけど。それが?」
首を捻る温子に陽貴は淡々と続けていく。
「イヤホンをしてたら声をかけられてもわからないこともあるでしょう? ゲームに熱中していたら尚更。俺なら待ち合わせ時間が近づいたら止めて、時々周りを見ます。それにここは駅です。相手の電車に合わせて待ち合わせすることもあるんじゃないですか?」
「そっか……」
「あ、なんか先生打ってますよ。そろそろじゃないですか」
陽貴の予測通り、しばらくして高野は目的の人物を見つけたようだ。改札方面に彷徨わせていた視線が留まり、ふっと表情を緩めたように見えた。
同時に隣の温子の動きが鈍くなる。彼女の視線が高野を離れ、ゆっくりと無機質な道路へと落ちていく様を陽貴は逃さなかった。
「大丈夫です」
一言。視線を逸らさずに陽貴は告げる。その根拠の無い自信に溢れた物言いに、温子の視線も僅かに上がる。が、高野と相手を確かめるまでに至らない。
無情にも人の波は途絶えずも視界を覆うほどのものでない。高野達の様子は離れた場所からもハッキリと見て取れた。
「最低だね……私」
温子の唇から冷たい何かが零れて、喧噪と生温かな風に溶けて混じる。
「大丈夫です」
もう一度。同じ言葉を告げ、温子の手を握った。視線は高野に留めたまま、意識はほんの少しだけ汗ばんだ手を気にしながらも。陽貴はその手に力を込め祈る。
「真実を見届けるのは先輩だけじゃないです」
陽貴の言葉に感化されて、などとという単純な希望的観測かどうかは置いておいて。温子は汗ばんだ手を握り返すと、大きく息を吸い顔を上げた。
二人の視線の先には笑顔の高野。そして相手は小柄な女性。若緑のスカートがふわりとひらめく。
「やっぱり……」
「先輩? え、ちょっ」
陽貴の手を握り返したまま、温子は改札へと踵を返す。予想外の力強さに陽貴は引っ張られるまま温子の後を追う。握ったばかりの時よりも、その手はずっとずっとひんやりとしていた。
「ごめん、小川君。帰ろう。やっぱり無理。見届けても処理できない」
震えてもいなければ、か細く弱々しくも無い。淡々と、無機質に伝えられる温子の言葉に陽貴は困ったように眉を下げた。
「わかりました。ですが先輩。一つだけ約束してくれませんか?」
「何?」
「一日だけ待ってくれませんか。行動するにしても、しないにしても。可愛くない後輩に免じて一日だけ。明日の午後七時半まで、この件については忘れて、何もしないで下さい」
「……」
「あと良かったら、一日経って何か行動する時は連絡下さい。可愛い後輩は先輩のことが心配なんで」
俯いたままの温子が何を思ったかはわからない。それでも一瞬の間を置いて、「矛盾してるじゃん」と淡く笑う声が聞こえた。
陽貴は歩みを速めていた。
「信じている」と念を押し、陽貴は温子の家の最寄り駅で彼女と別れた。兎にも角にも時間が無い。不安な気持ちを振り払い、陽貴は改札を通りスマホのメッセージアプリを起動する。呼び出したのは元文芸部幽霊部員。つまるところが陽貴と温子の先輩である。緩い部活にとりあえず所属しておこう、との理由から入部し卒業したコミュニケーション能力お化けの先輩だ。
「あ、もしもし? 小川です。文芸部の。ご無沙汰してます。今ちょっと良いですか? ――――あ、そうです。――――ありがとうございます――――実はお願いがあって――――」
その名前を告げると電話先の彼は得意げに話し始める。自慢話にそこそこに相槌を打ち本題を告げれば快い返事が返ってきた。
「ありがとうございます。今度また大学での活躍を聞かせて下さいね」
スマホを耳から外し、陽貴は時刻を確認する。午後八時二十分。塾帰りとでも言い訳すればまだまだ通用する時間である。
「まだ開いてるかな……」
タイミング良くホームへと入ってきた電車に飛び乗り、陽貴は車内の電光掲示板を振り仰ぐ。繁華街で有名な三駅先を確認し、再びスマホを取り出した。母からの大量のメッセージに寝過ごした旨を入力し帰宅予定時間を足して送信。そして先程入手した新規連絡先をタップする。
不意に『ご高名はかねがね聞き及んでおります』などという冗談めかした挨拶が浮かぶ。以前の陽貴ならば、少なくとも今日の午後までの陽貴ならば、かねがね聞き及んでいるだろう可愛くない後輩らしく皮肉を言ってやろうと考えたかもしれない。
【突然申し訳ありません……】
ゆらゆらと揺れる車内で、陽貴は至って無難な挨拶文を打ち始める。車内をそのまま映し出す暗い窓には細かな雫がまとわりつき始めていた。
一夜明け、機嫌を損ねたままの空は朝から降ったり止んだりを気まぐれに繰り返していた。温く暴力的な風は学校中の窓という窓を余すこと無く叩いている。すべての授業が終わり、風がほんの少しだけ弱くなった事を吹奏楽部員が感じ取り、帰宅を促すバッハが流れ始めても。文芸部の部室に温子が顔を出すことはなかった。午後から登校した陽貴に対して、温子は体調不良で欠席したのだ。
頁を捲る手を止め、陽貴はあくびをかみ殺す。スマホを確認すれば、ニヤニヤ笑いの猫のスタンプが陽貴を見返した。
【母に感謝しなさい。ところであのマカロンどうしたのかなぁ?】
期せずして協力者となった母からの冷やかしは無視して。陽貴は先輩とのトーク画面を開く。
【ありがとう。本当にごめんなさい】
柴犬が膝をつき頭を下げるスタンプを確認し、陽貴は席を立つ。放課後の校舎を満たす賛美歌が、今は出陣の合図にも思えた。
「やっぱり本当の事だけはもう一度、まさ君に聞いておこうと思う。その後を決めるのは二人だとしても」
公園のベンチで開口一番、温子は思い詰めた様子で陽貴に告げた。
陽貴が温子から連絡を受けたのは放課後、日没間近。すぐに温子の家の近くの公園と午後六時という時間を指定し、陽貴は目的の場所で温子と落ち合った。
茜色の舞台で影絵を映していた空も、今は遠くの街明かりを残して濃紺の幕を降ろしている。温子の長いまつ毛が作る影の周りは腫れており、乏しい表情と丸まった背中は疲労を隠せていない。その中で生気の宿る焦げ茶の瞳だけは普段の温子と同じ温度を感じた。
「小川君、聞いてくれる? 独り言なんだけど」
「どうぞ」
陽貴がため息とともに緩く肯くと温子は立ち上がり、少年のように悪戯っぽく微笑む。
「私、まさ君がずっと好きだった。やっぱり『恋は盲目』だったよ」
くるくるとその場で温子は回る。両手を広げ、まとわりつくような温い風を振り払うみたいに。ゆっくりと回って、回って、はぁっと大きな息を吐く。何も言わぬ陽貴へと白い歯を見せながら、温子は満足げに笑んだ。
「検証は終わり。付き合ってくれてありがとう! 私のようにはならないよう」
某黄門様のようにカッカッカッと笑い隣りへと戻る温子に、陽貴は緩く笑う。そして。
「まだですよ。穴だらけ、間違いだらけの検証に、可愛くない後輩がいいねを押すとでも?」
陽貴の言葉に温子は瞳を見開いた。
「ここからは独り言なんですけど、今日ある人に会ってきました。マカロン持って」
「え……?」
更に瞳を大きくさせ驚く温子に、陽貴の眉間にシワが寄る。
「色々聞きますから。初対面ですし……俺だって菓子折持って行きますよ。どっかの先輩から食の好みや性格とか散々聞いてましたしね」
「あ……会ったの?」
「ええ。思ったよりも普通の、優しい感じの人ですね。さて、俺は最近先輩に会ったか彼女に確認しました。案の定、一週間前に会ったと答えてくれました。それからやっと……心配し始めたんですよ。あの時少し愚痴を言ってしまったが、先輩に何かあったのかって。あんまりムカついたんで全部ばらしてやろうかと思いましたが……」
「……やめて!」
温子の悲痛な叫びが夜の公園に響く。陽貴は悔しそうに唇を噛むと、声のトーンをわざと落とした。
「大丈夫です。我慢しました。彼女は何も知りません。それに先輩は勘違いしてます」
そう言うと陽貴はゆっくりと温子の前へとしゃがみ、驚きに瞬く瞳を見上げる。
「先輩もあの適当な仮説を推してたじゃないですか。『恋は盲目』『恋をすると世界が鮮やかに見える』は感じ方だけじゃなくて処理できる情報や処理したいと思う情報の変化にもよるんじゃないかって。つまり先輩が得たあの少ない情報で、しかも処理能力に不安のある先輩が正しく見ようとするなんて、土台無理なんですよ」
陽貴は一気に告げると、眉間の皺を緩めてにっと笑った。
「ですから、その為の俺です」
「小川君……」
「話は戻りますが、高野先生の様子から密会の人物と親しい間柄なのは見てわかりました。さて誠実そうで慎重な高野先生が果たしてあんな目立つ場所で、見られてはいけない相手と会うでしょうか? 答えはノーです。駅周辺は県内屈指の学習塾の激戦区。午後七時過ぎ、表改札前の巨大モニュメントの前で浮気相手と待ち合わせなんてリスクが高過ぎます。都内住みの彼女が七海先輩に会うのもあの駅だそうじゃないですか。ならば高野先生の密会相手は先生とどんな関係なのか。婚約者ばかりか式に呼ぶ程に親しい幼馴染みにもその存在を隠している。ですが最悪ばれてしまったらばれてしまっても良い、或いは本当に誤解されたくない人にはとりあえずその場だけでも誤魔化すことが出来る。そんな相手と結婚が近い高野先生は何をしていたのか? おおよそ見当は付きます。だから彼女に聞いて見ました。『雰囲気の違う素敵なお姉さんをお持ちですか?』って」
「お姉さん……」
へなへなと温子は脱力する。陽貴の顔が近付いて、慌てて温子は姿勢を正す。
「新郎と新郎新婦一家でサプライズを用意しているみたいです。新婦と来場者をびっくりさせたいって。まあ、先輩と会った後すぐに彼女は気付いたみたいですが、折角なので気付かないフリをして見守っているそうですよ。高野先生って、意外とお茶目なんですね」
「あはは。そうなんだよね。真面目でびびりでさ。優しいけれど、あんな変な人を好きになるなんてびっくりだよ。でも佐藤先輩は、先輩はそんなまさ君を好きになったんだよね」
ポロリと温子の眦から雫が零れた。陽貴が動揺してまごつく間に、温子は自らの手で零れたそれを拭う。
「どうして気付いたの?」
「異世界なんちゃらの話を聞いた時に……。確信したのは高野先生の話を聞いた時です。七海先輩、『佐藤先輩』って言いかけてましたし」
「ああ……。違う、違う。聞いたのは私がなんでこんなに悩んでいたのかって方」
「……すぐわかりましたよ」
「はは。はぐらかすね!」
俯く陽貴の背中を温子は雑に撫でさすると、瞳を細め宙を見つめた。
「恋かなんて……本当はあの気持ちがなんなのかさえ、最後までわからなかったんだよ」
ざあっと、温子の涙を春風が攫っていく。
「名前なんか付けなくても良いじゃないですか。先輩が佐藤先輩を大切に想っている事は真実でした。俺にはそう、見えました」
「……そっか。ありがとう。小川君は優しいね」
くしゃりと笑う温子に同じ言葉を伝えられるほど、陽貴に素直さがあれば苦労はしない。代わりに陽貴がしたことと言えば、温子と九十度真逆にある公園のこぶしの花を見やるという可愛げのない行動だった。
「あーあ。でも、やっぱり強い感情は処理する情報の量や質に関わってくるのかも。いつか調べたいなぁ。今度部活でやろうか?」
「無理ですよ。誰が誰に強い感情を抱いて、どう証明するんですか」
陽貴の正論に温子は萎れる。
「ううん、まあそうだよね。とにかく、これからは気を付けよう! 卒業までには、ちょっとだけで良いから私も小川君という可愛い後輩に尊敬されたいもんね」
温子は大きくのびをすると「帰ろうか」と立ち上がる。ポニーテールがふわりと舞う。
「先輩」
「ん?」
振り返り目を瞬かせる温子に、陽貴はまだ言えない。証明など、陽貴の中ではとうに完成していることを。
「いえ、なんでもないです」
「えっ、何? 気になるよ? もしかして……面倒臭い先輩に愛想が尽きたから退部的な……?!」
「三分の一くらいはあってますよ」
どの部分が合っているのかと、未だ面倒臭さを発揮する温子に陽貴は笑う。
頬を撫でる温く湿った風が気持ち良く感じるのは安堵からか、はたまた少しだけ熱くなっているせいか。
それについては未だ、陽貴にもわからなかった。
dpiの証明 島田(武) @simada000
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