ep.002 夜の女王
硬質な床をナタリアは音を立てずに歩いていた。音を絶つのは彼女の身体に染み付いたクセ。これから向かう場所にいるガンマ総帥に叩き込まれた技だった。
ナタリアは物心ついた頃からここにいる。その経緯は未だに知らない。知りたいとも思わないし、知る必要もない。ただそれだけ。
明るすぎず、暗すぎない程よい照明が廊下を照らしている。黒い軍服に身を包んだ男が向こう側から歩いてきた。男はナタリアの姿を見た瞬間、顔を強張らせて壁に肩を擦るほど少女から遠ざかる。
これは避けられた、ということなのだろうか。
微かな疑問が浮かぶ。その間にもナタリアは足を止めずに男の前を通り過ぎていた。
どうでもいいことだ。
冷めた思考で疑問を忘れ去った。
硬い階段を登り、この建物の最上階に辿り着く。他の階層とは違い、この階に人の気配はなかった。だが、それは何らおかしなことではない。それが《頭》の存在するこの階の日常なのだ。
《頭》はガンマの総帥の執務室のことを言う。
──ただの執務室?
そんな訳がない。
ここは暗殺者たちで構成された組織の上部。ガンマの暗殺者たちは、ほぼ例外なく冷徹で簡単に命令に従わない一癖も二癖もある曲者だ。ナタリアはその唯一の例外。命令されなければ稼働することを許されない。最凶の暗殺人形だ。
「ナタリアです」
何の変哲もない扉に声をかける。慎重にノブを捻り、飛び出した針に触れないように指を動かす。
扉を開けた瞬間に頭を動かして、耳元を通り抜ける刃を避ける。中に入っても警戒を解かず、足を動かす。
右左右、左左、一歩飛ばして斜め左……。
決まった順序で足が躍る。足元を見なくても、ナタリアの身体は
目の前には執務机があり、人の影がある。だが、机までの数メートルがあまりにも遠く、その上死の匂いを撒き散らす地獄。
総帥から呼び出しを受けて生きて帰らなかった者が存在するのはそれが理由だった。
そもそも、ほとんどの任務は間接的に与えられるものなので、最上階に行く人間はほぼいない。たとえ実力者だと認められても、死のトラップを掻い潜れなければ、ただの屍になるだけだ。そして、総帥はそんな死体に意識さえも割かないだろう。
逆に言えば、身体が覚えてしまうほどこの部屋に訪れる人間は稀だった。
「アリア様、ナタリアです」
執務机の前でナタリアは敬礼をした。机の人影が揺れる。
「ここまでよく来ましたね、ナタリア」
鈴のなるような玲瓏な声。黒のベールで美しい顔立ちを覆い隠した女がそこにいた。隠されているという事実がかえって女の漂わせる妖艶な美を引き立て、人に魔性の夢を抱かせる。
彼女こそが、帝国軍第三位組織ガンマの総帥。帝国の
本当の名もその正体も知る者はいない。
「久しぶりですね。元気にしていましたか?」
「はい。身体に異常はありません」
そうですか、とアリアはベールから覗く口元を笑みに変えた。ナタリアは静かに彼女からの命令を待つ。
「さて、ここに来てくれたということは、エルシオもきちんと仕事をしてくれているということですね」
そう呟くと、ベールの下からの視線が冷ややかで鋭利な刃物へと変わっていった。鋭い視線はナタリアの赤みを帯びた瞳を捉えて捕まえる。
「貴女に任務です。これは今まで誰にも与えていない最高難度の暗殺任務ですから、かかる時間は気にしなくても良いですよ。結果として、この世から抹消してくれさえすれば」
最高難度。
ナタリアでさえ、アリアの口からそんな言葉が漏れたことに驚きを禁じ得なかった。瞬きをして食い入るようにアリアのベールを見つめる。
「
アリアが微笑んだ。
「共和国の《
「死神……」
帝国と争い続ける敵国、共和国。共和国が擁する暗殺者に帝国が与えた名がそれだ。性別はもちろん、《死神》についての情報はほとんどない。
「ここに
薄っぺらい紙数枚をアリアは指し示す。ガンマの諜報力でもそれだけしか掴めなかったことを紙が示していた。
「ありがとうございます。ですが、今は停戦中では?」
書類を受け取りつつ、問いかける。数年前の停戦条約で停戦が決まっているはずだ。停戦中の軍事的な介入、一応ガンマも軍事組織だ、は禁じられていると記憶にある。
「些細な問題ですよ。そもそもガンマなど存在しません。私の権限によって共和国に手を出すことを許します。ですから存分に、貴女は《死神》を殺すことだけを考えていれば良いのです」
鈴を転がすような美しい声は優しくナタリアを諭した。
「はい。ならばご命令通り、《死神》を殺します」
ナタリアは顔色一つ変えずにそう言った。
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