第33日-10 止めるために ★

 ――〝〟!


 そう呼びかけた俺に、マーティアスが両目を見開く。

 俺たち二人の間を隔てていたシールドが消え失せたことで、その表情の変化は手に取るようにわかった。


「〝マーサ、空想と予想を混ぜこぜにしては駄目よ〟」


 七年前、あの爆発事故より少しだけ昔のこと。

 『ディタ・プロスペリータ』――実家の食堂のいつもの窓際の席で、幾度となく繰り返されたアヤとマーサのやりとり。


「〝研究を進める上で大事なのは、百パーセント信頼できる事象を見つけることでは?〟」

「な……ぜ……」


 マーティアスの唇がわなわなと震える。混乱しているようだった。

 なぜ、アヤしか呼ばないその愛称を知っているのか。なぜ、マーティアスしか知らないアヤの台詞を知っているのか。

 言葉にならなかったその先は、そんな想いだろうか。


 グラハムさんは俺に「止めろ」と言った。だけど、俺ではマーティアスを止められない。

 彼女――〝アヤ・クルト〟でなければ。


「〝マーサ、根拠が無ければ、それはアイディアではなくただの妄想よ〟」

「違う!」


 ひときわ大声で叫んだマーティアスは、

「違う、妄想なんかじゃ……」

と独り言のように呟き、ふるふると首を横に振った。そしてゆっくりと、銃と黒い筒を構えた両腕が下がっていく。

 しかし思い直したかのように顔を上げ、俺を睨みつけた。


「検証した! 何度も!」

「〝マーサ。懸念材料をたとえ百個潰したとしても、百一個目の可能性が残されているならその実験は押し進めるべきじゃないわ〟」


 思い出せ。アヤ・クルトは日々どんな顔でどんな口調で『マーサ』をたしなめていたか。

 一度は固く奥にしまわれていた、過去の記憶。静止画のまま止まっていたあの光景を、いまこの場で鮮明に蘇らせる。


 親友として親愛の情を持ち、科学者として崇拝し、禁忌の研究を行ってでも彼女を生き返らせようとしているマーティアスならば、彼女の言葉を忘れるはずがない。


 マーティアス、どうか思い出してほしい。

 過去の自分を殺し、多くの人間を犠牲にしてまで生き返らせようとしているアヤは、本当にそんなことを肯定するような人間だっただろうか? 

 ――あなたが至高の存在として崇拝する、アヤ・クルトという人間は。

 

「理論上は可能なはず! 絶対に――」

「〝研究において、『絶対』ほどあてにならない言葉は無いわ〟」

「……っ……」


 言葉に詰まった彼女を見つめながら、一歩前に足を進める。

 背後で、ピートが何かを必死に叫んでいる声がした。


 駄目だ、邪魔はさせない。もう、そちらの世界には戻らせない。

 音と気配からピートの場所を察知し、マーティアスの視界に入らないように自分の身体で遮る。


「〝九十九回失敗して、初めて一回の成功が得られるというでしょう〟」


 アヤ・クルトはやや首を右に傾ける癖があった。そして、話をするときは両腕を胸の前で組んでいることが多かった。

 興奮するマーティアスをたしなめるように、落ち着いた低めの声色で。

 淡々と、一つ一つの言葉を丁寧になぞるように言い聞かせていた。思いのほか、優し気な瞳で。


 そのときの様子を頭に描きながら、再現する。

 どうかマーティアスがあのときの彼女を思い出すように、と。


 そんな祈りにも似た俺の気持ちが通じたのか、マーティアスは食い入るように俺を見つめていた。

 いや、俺じゃない――その向こうの、かつのアヤ・クルトの姿を。


 一歩、また一歩。

 わずかだが……でも確実に、距離を縮める。


「〝マーサ、忘れないで。発展した科学は、諸刃の剣。決められた領域を超えた科学は、全てに――自分にも向けられた兵器だということを〟」

「……それ、は……」


 目の前二メートル先に、マーティアスがいる。

 眉間に皺を寄せ、苦悶の表情を浮かべた彼女が。


 俺は『アヤ』の模倣を解いた。組んでいた腕をほどき、右手を差し出す。


「アヤを救うというこの実験――それで本当に、あなたも救われるのですか?」


 俺自身が、彼女に問いたかった言葉。

 思い切って投げかけると、マーティアスがギュッと口元を引き締めた。

 あの頃、よく見た表情だった。持論を却下され、悔しそうにしながらもどこか納得したような、それでも諦められないような、複雑な顔。



「――マーティアス・ロッシ」


 いつの間にか、グラハムさんが俺のすぐそばまで来ていた。そのまますうっと通り過ぎ、マーティアスの両手を掴み上げる。


「オーパーツの不法所持ならびに不正使用――〈未知技術取扱基本法FLOUT〉違反で逮捕する」


 手首を捻り上げて右手の拳銃を手放させ、左手の中の黒い筒も取り上げる。

 その間も、マーティアスは一切抵抗しなかった。


 ピートは……とわずかに首を曲げて背後を見ると、両足はグラハムさんの氷弾で凍結させられて動けなくなっており、両腕は後ろに回されてすでに手錠が掛けられていた。

 芋虫のように床に転がされながらも顔を上げ、必死に声を振り絞っていたピートは、魂が抜け出たような彼女の様子に

「スーザン……」

と悔しそうに呻き、そのまま床に突っ伏した。


「リュウ、手錠」


 グラハムさんに声をかけられ、我に返る。

 被疑者確保のため、捜査課・警備課問わず持たされている手錠。しかし警備課任務の場合、その場にはたいてい捜査官もいて、逮捕は捜査官の役目だ。

 そして特捜任務でも、動けないように拘束することはあっても正式に手錠をかけることは無い。

 俺にとって、初めての経験だった。


 空っぽになったマーティアスの両手をとる。カシャン、という金属音が、吹き抜けからドーム型の天井へと小さく響く。

 しかしその音にも、マーティアスは殆ど反応しなかった。


 驚くほど冷えた、痩せこけた手。

 彼女がこの手で死に追いやった人間は、いったいどれぐらいいるのだろう。

 その罪の重さを自覚したとき、彼女は本当に狂うかもしれない……。


「お疲れ、リュウ」

「……はい」


 グラハムさんが俺の肩を叩く。大丈夫か、しっかりしろ、と言われたようにも感じたが、目の前に白い靄がかかったようで、俺は満足に頷くことができなかった。


 七年前のあの光景を必死で思い出した。マーティアスを止めるために。

 だけどそのせいで、「どうしてこうなってしまったのだろう」という答えのない問いが頭の中をぐるぐる駆け巡っていた。


 鮮やかに蘇った、若き日のマーティアス。アヤに叱られながらも、自分の研究が意味のあるものだと信じて、前向きに生きていた。

 それが今は数々の事件を引き起こした犯人として手錠をかけられ、虚ろな表情で項垂れている。顔はやつれ、別人のように痩せ細り……。


 いや、自分の研究を純粋に追いかける、それは今も変わらないのか。アヤを救うにはこれしかない、と思いつめた。

 手段は選ばない、と狂気に満ちた目でその手を血に塗れさせ、闇に堕ちた。


「やめて!」


 突然マーティアスが叫んで駆け出そうとしたので、咄嗟にマーティアスの両腕を掴んで制止する。

 それでもマーティアスは俺を越えんばかりに肩から身を乗り出した。


「お願い、やめて! あと少しなの! 本当にあと少しなのよ!」


 彼女を押し留めながらも振り返ると、グラハムさんがあの巨大なオーパーツの前に立っていた。右手には、オーパーツと大型機械を結ぶ配線の束が掴まれている。


 マーティアスの声に、グラハムさんはゆっくりと振り返った。

 しかし配線の束は右手から離さなかった。聞くだけ聞いてやる、とでも言わんばかりに左眉を上げる。


「あの事故から、アヤを救い出したいだけなの! ただそれだけなのよ! シャルトルトをどうしようとか考えていないの。そんなことはどうでも良い。ただ、あの日の間違いを正そうと……それだけなの!」


 マーティアスの碧の瞳があっという間に潤み、大粒の涙がこぼれた。頬を伝い、顎を伝って俺の左肩に落ちる。


「だからお願い……やめてください……」

「……」


 グラハムさんは一切表情を変えなかった。そのまま右腕に力を込め、勢いよく振り上げる。

 ブチブチッという、何かが引き千切られるような音。パシンという、機械がその鼓動を止める音。


「いやああ――! やめて、やめて――!」


 マーティアスの悲鳴が俺の左耳をつんざく。それにも構わず、グラハムさんは機器の配線をひたすら抜き続けた。

 わずかに振動し、メーターの針がゼロへと戻る。数値を計測していたモニターがブツリと暗転し、金属片が散乱した床に影をもたらした。


「どうしてっ!」


 マーティアスが手錠をかけられたままの両腕で俺を押しのけ、オーパーツへと駆け寄ろうとする。

 俺はすかさず彼女の背後に回り、両腕を掴んでグッと引き戻した。マーティアスとグラハムさんが真正面から向き合う形になる。


「ロッシさん……あんた、間違ってるよ」


 グラハムさんはマーティアスを睨みつけたまま、乱暴に配線の束を放り投げた。それを見たマーティアスが、ビクリと身体を震わせる。


 間違いを正すため、これは正しいこと。

 そう信じ、スーザン・バルマとして生きてきた七年間を、完全に否定する言葉。


 俺からは、彼女の無造作に縛り上げた金色の髪しか見えなかった。しかし震えが治まらない彼女の両腕から、そのショックの大きさは十分に窺い知れた。


「アヤさんのことは、本当に不幸だったと思う。認めたくない気持ちも分かる。でも、アヤさんが死んだ後のこの世界が――現在が間違っているなんて、そんなことないんだよ」

「違う、違う、そんなことない! アヤが居ないこの世界が間違ってる!」


 髪を振り乱し、マーティアスがグラハムさんに食ってかかる。その両腕を押さえながら、彼女の横顔を覗き見た。

 狂気が消えた、と思ったのはまやかしだったのだろうか。そう思うぐらい、彼女の様子は常軌を逸していた。

 ああ、まだ。まだだ。

 マーティアスは、自らの呪いに封じ込められている。


「だって……いつだって、あの子の方が正しかったんだから!」

「――本当に?」


 マーティアスの肩越しに話しかける。ビクッと肩を震わせた彼女は、驚いたように俺の方を振り返った。


「アヤ・クルトが言ったんですか? 〝私の言う事がいつも正しいんだ〟と」

「そんなこと、アヤが言う訳が……」

「こう言っていませんでしたか? 〝秤にかけるものが違う〟」

「……っ」


 マーティアスが息を飲む。何かを言おうと少しだけ唇を震わせたが、言葉にはならなかったようだった。


 それは、当時のO研の研究者に話を聞いた調査報告に書いてあった。

 RT理論を禁じるのは可能性のある未来を潰すことになる、と息巻くマーティアスに、アヤ・クルトが


「可能性のある未来のためにこの現在を潰すかもしれないことに手を出すの? 未来のために現在を犠牲にするのは間違いよ。秤にかけるものが違うわ」


とたしなめたこと。

 たまたまそのやりとりを聞いていた研究者仲間が、


「滅多なことを言うものじゃない」


と研究所に抜擢されたばかりの二人に注意したこと。


 だからマーティアスは、二人しかいないときにもっぱら持論を展開していたのだろう。そして『ディタ・プロスペリータ』も、そんな場所の一つだった。

 俺が見ていたのは、そんな二人だけの、どこまでも自由な空間。


「〝いつだってあの子が正し〟。――過去の話ですね」

「そうよ、だから私は……」

「一つだけ、解っていることがあります。都合の悪い事実を無かったことにすること、捻じ曲げることは間違いだ、ということです。研究者が実験結果を捏造――あり得ますか?」


 俺の言葉に、マーティアスが大きく目を見開く。


「いまこのときに、正しいも間違いもありません。ですが、は変えてはいけないんです。〝決められた領域を越えてはいけない〟んです」


 マーティアスは何も答えなかった。

 わずかに口を開き、ゆっくりと正面――巨大なオーパーツの方へと視線を向ける。


「……」


 マーティアスの口がわずかに動く。アヤ、と声にならない声で呼びかけた彼女は、そのまま呆然としたように視線を上にあげた。丸いドーム型の天井、吹き抜けを突き抜けるように立てられている巨大な金属の円筒を。


「もう一度尋ねます。――〝マーサ〟」


 ひどく傷んだマーティアスの後ろ髪を見つめながら、ゆっくりと問いかける。


「アヤが生き返って、それで本当にあなたは救われるのですか?」

「……」

 

 俺の言葉が聞こえているのかいないのか――彼女はぴくりとも反応せず、何も答えなかった。

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