八の三 それだけの事



 春夢の様に短い、束の間の出来事。

 それがこれから起こる、全ての事だった。

 一手目。手番は『月』。光の大妖術が放たれた。

 とても即興で出せる様な規模の物では無い。だから簡単な結論に至る。それは問答の間、『月』が死角で練り上げた物だった。

 天守の更に上。建物の外。人界と空の狭間でそれは妖力を蓄え、そしてたったの一瞬で飛来した。どれ程の研鑽が有ればそれを成す事が出来るのか。レキには、想像も付かない。

「〈閉――」

 けれど『奇襲が有る』という事だけは、あらかじめ勘付いていた事だから。

 二手目は、レキが取った。

「――じ、ろ〉!」

 霊宝『燕の子安貝』。

『棺』の結界の解除にも用いたそれを握り込んで、即座に守りを展開する。分かっていた事だ。あの会話。本心が無かったとは言わない。けれど、その時間をただ決裂の為だけに使う程愚かでは無かろうという確信が、レキの反応を早くした。

 妖術が、結界にぶつかる。

 湯を掛けられた雪の様に、あまりにも容易く結界は熔けて行った。一つを数える時間も保たない。けれどやはり、それで十分。

「――〈灼火〉!」

 三手目を、火鼠が取ったから。

 天から墜ちる光に、彼女が触れた。

 赤と白。強烈な色が奔流の様に溢れ出す。その熱と光が、どの様にして拮抗したのかレキには分からない。瞬時、肌を焼く熱が広間に拡がった事、それでも誰も灼け死ななかった事だけが、その三手目の効果を伝えていた。

「〈血閃爪〉――」

 四手目は、火鼠の腹に目掛けて吐き出された。

『月』の左手が、槍の様に突き出された。間合いは遠い。けれど、妖相手に間合い程信用ならない物は無いとレキは知っている。だから動く。踏み込み三足。瞬きよりも疾く。

「はッ――!」

 五手目。

 刀を振れば、二合で折れた。黒い血で出来た無数の妖短刀。一つ一つが黒鉄を潰したよりも遥かに重く手応えて、蜘蛛狩りの――恐らく霊刀と化していたのだろう――退魔刀も、此処が役目の限りと半ばに折れた。剣先が宙に舞う。光を返して白く煌めく。

 斬り払えなかった分は、左腕に食わせる。

「ぐ――」

 激しく痛んだ。血を根こそぎ抜かれる様な心地がした。が、死ぬよりマシで、その左手を払って流せば、何より火鼠に傷を負わせる事なく、五手目をやり過ごせる。

 六手目。

「――〈水、」

 その声は、『月』が動き出すよりも早く。

「龍、槍〉!」

 城の遥か外、誰の耳にも届かない場所で響いた。

 回廊の、高欄の先から、横合いから飛来する。龍の形を取った水の大霊術。夜天を食い千切る暴威。尾は夜に映り黒。近付くにつれて光を受けて、角は白。一本の川がそのまま意志を持った様な激流。これ程の術を使える者を、レキは一人しか知らない。

 東流セッカ。

 不意討ちも奇襲も、何も妖だけの物ではない。奇しくも東流の川で争った時と逆構図――今度は此方が、伏兵を使う番。誘き寄せて、『龍の首の玉』を用いた最大威力を、無防備な所にぶつけるのが此方の策。

 水の龍が、夜の向こうに顎門を開く。

「――――、」

 その時、『月』は面相を引き攣らせて。

 それでも恐るべき、七手目を取った。

「ま――」

 ずい、と声に出す時間が惜しく、レキは辛うじて動く右の手で、背中から弓を引き抜いた。『蓬莱の玉の枝』。左の手は〈血閃爪〉に貫かれて動かない。だから矢を銜える。弦に留めて、右の手をぐい、と前に突き出す。

 口で射る。それが八手目。

 けれど九手目、苦し紛れの矢は容易く『月』に掴み取られ、七手目がそのまま叶った。

「〈棺椁――」

 辿り着かれた。霊宝『御石の鉢』。

 南前シオウの手元に在ったそれに、『月』は血の触腕を伸ばした。ばち、と火花が弾けたのは、シオウの最後の抵抗か。しかし怯む事無く『月』は『御石の鉢』に触れる。妖力を込めた黒血が第三の手となって、その身を灼きながら掴み取る。巻き取られる。『月』の手に落ちたその力が、結界を展開しようと試みる。それは勿論、六手目の水龍を凌ぐ為で――

「――な、」

 それが用を成さぬと分かった瞬間に彼に走った動揺は、如何程の物だっただろうか。

 六手目は、『月』本体では無く、光の大霊術とぶつかり合った。

 膨大な量の水が怒涛の様に押し寄せる。一瞬の気化と過反応の爆発が、この世の物とは思えぬ光と音を放つ。驚いたのはレキもだった。事前の取り決めも何も無い、奇妙の一手。

 けれど、それで全てが決まった。

 水龍が『月』に辿り着くよりも。

 水龍によって自由になった火鼠が間合いを詰める方が、ほんの一瞬、早かった。

「〈花鳥風月〉――」

『棺』の結界が展開される。遅い。間に合わない。閉じた領域の中に、火鼠の身体が入っている。

 受けるべくして術を使い、それが叶わなかった者と。

 打ち込むべくして低く踏み込み、間合いを詰めた者。

 同じ力量で在れば、何方が勝つかは明白で。

 その一瞬、二妖が見詰め合うのを、レキは見た。お互いがただ一瞬、ただ一瞬だけ。

 友と夜明けに、別れる様な顔をして。

「そうか、」

 それだけの事に、決着が着く。


「漸くか」

「〈一切、灰燼〉」

 たった十手の、夢の終わりだった。




 ふと火鼠は、目を覚ました。

 不思議な言い方になるが、そう言う他ない。決して眠っていた訳ではない筈だ。それでも、昼よりも遥かに明るい熱と光が過ぎ去って、夜が戻って来て。春の夜の冷たい空気に触れて、彼女はふと、目を覚ましたのだ。

 夢から覚めた時と、同じ心地。

 それまで在った物が目の前から消え果てて、代わりに。

 代わりに――、

「火、鼠」

 声が、彼女を引き戻す。

 振り返れば、先程まで肩を並べていた少女が、其処に立っている。襤褸々々だった。左の腕が特に酷い。『鳥』を仕留めた雷撃も、『月』の放った妖短刀も、全てそれで受けている。二本の脚で立っているのが信じられない位だった。妖でも膝を突く。気を失う。形を保てなくなってもおかしくない。それ程、酷い姿だった。

「大、丈夫?」

 その癖、彼女は本気の声色で、そんな事を言うのだ。

「ああ」

 短く答えて、近寄った。肩を貸してやる。幸いにして、まだ治癒の術を使うだけの余力は残っている。これ程丈夫な娘なら、早い内に少しばかり手当てしてやれば、後は勝手に己で治すだろう。術士の内でも肉体に力が寄った者は、程度の差こそあれ、往々にしてそういう所がある。

 支えてやれば却って崩れ落ちるかと思ったが、それでもレキは殆ど己の脚で立っていた。横顔を窺えば、熱で赤くなった顔が夜の冷気に晒されて、少しずつ白く澄んで来ている。

 目は、空に向いていた。

「悪いな」

 だから火鼠も顔を上げて、それを見た。

 崩れ落ちた城の天井から、夜が覗いている。戦いの爪痕が、其処に残っていた。

「ううん。有難う」

 短く、レキも応えた。

 城の半分程度。屋根が壊れて、剥き出しのまま空に晒されている。そして壊れた部分は全て『月』との対峙の中で熱に焼け、灰と化し、空に散った。だから天守閣は荒れ果ててこそいるものの、散らかった印象は無い。ただ、其処に在った物が無くなっただけ。吹き晒しの寂しさばかりが、新たに得られた物の様に思える。

「皆は……」

 けれど残された物も、確かに在る。

 レキが呟いて見るから、火鼠も釣られて周囲を見た。広間に集められていた幾人もの人々。誰も起きてはいない。が、ひょっとすると同じ様に、誰も死んでいないのかもしれない。『月』が治国の企てが為にわざと生かしたか、それとも戦いの最中にはレキの展開した守りの術が、そして戦いの前は『御石の鉢』によって張られた結界が、それを成した物か。

 それを知るのは、此処に眠る一人の男だけなのかもしれない。

「シオウ殿」

 レキが呼び掛ける。動かない。彼はこの広間に入った時から一指も動かさず、一言も発せずにいたのだ。元より意識が有ったかも疑わしく、それこそ今、央扇の姫すら妖力に気を失っているこの場所で、生きているのが不思議な位だ。

 それでも彼の身体は、僅かに覆い被さる様にして、姫に重なっている。

「東流セッカも大概だが」

 思わぬ姿を見て、ぽつり、火鼠は零した。

「此奴もだな。三妖合わせて掛かられて結界を保たせたのもそうだが、霊力の絞り方が特に」

 骨の見えるまで、血肉を刮ぎ落とした様なものだ。

 そう思う位には、霊力が残っていない。想像される元の力の量を鑑みれば、異様な事だった。それ程まで削り切らなければ保たせる事が出来なかったか、或いは東流タツセが『月』に操られたのを見て、『操られる余地が無くなるまで』己の力を使い果たす事と決めたか――何れにせよ其処に、目を見張る様な尽力が在った事は確かだった。

 少しばかり力を分けてもやった。他の者共も含めて、世話する者がこの広間にやって来るまでの間に合わせ。

「セッカ殿は……まだ、掛かりそうかな」

 仰ぎ見たレキの横。こくりと小さく火鼠は頷いた。『月』の為の奇襲。意識の外から刺す為に、城より外の高台から、彼女はあの水龍を放った。一撃だけとはいえ消耗も著しかろう。それにレキとは異なり術に寄った者で、あの様子ではそれ程健脚でもあるまい。手勢を率いて三の丸、二の丸を歩き通して此処に着くまでには、まだ暫くの時間が掛かる。

 其処まで思えば。

 不意に何も、する事が無くなった。

 何時の間にか、月が雲に隠れていた。この場所に踏み入った時にはあれ程大きく感じたそれが、今は酷く、か細い物だったかの様に思える。風も無く、雲は払われない。光の無い空だから、夜鳥が飛んでいたとしても、とても見つけられない。

「……有難う。火鼠」

 ただ。

 触れ合う肩ばかりが、温かかった。

「ん?」

「私達の事を、助けてくれて」

 横目に窺えば、思いの外はっきりと、真っ直ぐにレキは此方を見詰めていた。

 変わった、と思う。最初に会った時とは、まるで違う者に見えた。か弱くもなければ、途方に暮れてもいない。短い命の生き物は、そうでない者の長い歩みを時に、ほんの一瞬で飛び越してゆく。

 それと比べて己は、と。

 問い掛ける前に、口を動かした。

「気にすんな。言ったろ」


 ――――面倒見てやるよ。こんな惨めな、死体で良ければな。


 思い起こされたのは、自分が口にしたその言葉。けれど、と自嘲して火鼠は笑う。面倒を見られていたのは、果たして何方だったか。

「でも、」

 レキは、尚も言った。

 反論では無かったのだと思う。言葉の感じに、嫌みが無かった。しかしでは、その言葉が如何して出て来たのか、後になっても火鼠には、よく分からない。


「好きだったんでしょ。皆の事」


 その時になって漸く、一本の樹が生えている事に気が付いた。

 無論、城の外での話だ。広間を囲む高欄から見えていたのよりも、ずっと下。回廊の床に阻まれて見えなかったのが、城の半分崩れたのに合わせて、火鼠の目にも映る様になっていた。

 花を付けていない。

 枯れ木の様に見える。元の姿を知らなければ、名前も分からない。

 知っているから、名が分かる。

「――大きな、うねりが在る」

 それを口にしたのは。

 きっと、其処に自分の姿が見えたからだ。

「生まれた時から、あたし達はそのうねりの中に居る。だけどそのうねりは、一つじゃない。長さも違えば、向きも違う。行き着く所まで行き着けば、ぶつかるのも離れるのも、当たり前の事だ。……なのに偶々、何かの拍子に、ずっと一緒に居るもんだから――」

 今になって、気が付いた。

 自分もまた、そのうねりの中に居る。長く生きる事は、何も特別な事ではない。少なくとも、己にとってはそうだった。

 だから、こんな風に。

「勘違い、して――、」

 森の中、彼女の手を引いて歩いた日の事を覚えている。

 明るい日だった。歩き慣れない彼女は、裸の足を草の上に躍らせて、自分はそれを、笑って見ていた。彼女の髪に、光が当たる。握る手は小さくて、一生、離れない様な気がしていた。

 全てが始まった日の事を、今でも火鼠は、覚えている。

 そっと、背に掌が当てられた。よくやる、と思う。左の手。動かさなくたって、死んでしまう様な痛みだろうに。それを決して震わせないまま、安心させる様に撫でられて、だから。

 少しだけ、泣きそうになって瞼を瞑る。

「火鼠」

 彼女が名を呼ぶ。

 だから瞼を開けて、こう応えた。


「時が流れて、寂しくなる。たった、それだけの事だ」


 花の匂いが、香った気がした。

 直ぐに消えてしまったから、夢だったのか如何かも、よく分からない。


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