八の二 行き着く所



「やあ。久し振り」

 天守には、月を背負った男が立っていた。

 回廊の高欄に後ろ手を掛けている。銀の髪に、滑らかな輪郭。瞳は血の様に赤く、しかしその表情は穏やかな物だった。まるで久方振りに会った友に挨拶するかの様に――或いは、それその物で在る様に。

「って、そうでも無いか。川で少しだけ、顔を合わせたしね」

「応。よくもやってくれたな」

「見逃してくれよ。自分では分からないかもしれないが、結構、君と向き合うのは怖いんだぜ」

 天守の最上階は、数百畳は有ろうかという大広間だった。

 そしてその畳の上に、幾十人の者共が倒れ込んでいる。騒ぎからもう数日。喩え結界の中に在っても飲まず食わずには限度が有る。辛うじて意識を保てるとすれば、それなりに術の使える者だけであろう。

 その意識の有る者の一人と、レキは、目が合った。

 見た事の無い顔――けれどその着る物と、隣に座る男の姿を見れば、何となく予想が付く。央扇の姫。今は怯えて、瞳に涙を浮かべて隣の男の袖を引いている。

 そして男……南前シオウは、まるで霊力を発さぬ状態で、長い髪を力無く、だらりと垂らしていた。

 無惨な有様だ――が、レキはそれを思うよりも先に、感服する気持ちがあった。身体に殆ど霊力が残っていない。あの様な状態になるまで力を吐き出せる術士を、他に見た事が無い。結界が砕けるよりも先に、心筋の動きが弱まっている……どれ程の研鑽を積めば、その領域に至る事が出来るのか。

「さて」

 ひょい、と『月』が高欄を押す様にして、身を起こした。

「それじゃあ決着と行こう。思ったより不利になってしまったけれど――」

「その前に」

 それに被せて、火鼠は言う。

 けれど『月』はそれに、大きな反応を返さない。予期していたかの様に……それが自然の成り行きだと知っていたかの様に、ただ穏やかに、瞼を細めた。

「訊きたい事が有る」

「『鳥』からは聞かなかったのかい」

 その言葉もまた、挑発では無く、純粋な疑問として。

「彼女が一番君達に入れ込んでいたからね。てっきり、其方から聞いた物だと」

「聞いた。その上で、だ」

 ひょい、と『月』は肩を竦めた。お手柔らかに、と。

「花精が死んだのは、あたしの為か」

「……恋の問いか。少しばかり、僕には難しいかもな」

「答えろ」

 間接的には、と。

 飾りの無い言葉で『月』は答えた。更に「順を追って話そうか」と彼は、

「僕と会った時には、もう迷い始めていたらしい。隠すのが上手かったから、僕も最後に相談されるまで碌に気付かなかったけどね。花と石。変わる物と、変わらぬ物。僕の故郷にも、似た様な話が在った」

「…………」

「本当は、君はもう七百年は眠らされる筈だった。千年の封印。幾ら君でも、流石に記憶が飛ぶだろう」

 如何だか、と火鼠は皮肉気に笑った。

「何時までも、昨日の事みたいに覚えてるかもしれないぜ」

 はは、と『月』は受け流す様に美しく目を伏せて、笑い返して、

「かもしれないね。此方としては、ぞっとする話だけど」

「三百年眠らされて腹を立てない奴が居たら見てみたいね。お前か?」

「僕はともかく。君は、裏切りの方に腹を立てているんだと思っていたけどな」

 まあいい、と彼は、その続き。

「しかし千年の封印は叶わなかった。花精が思いのほか早く死んでしまってね」

「理由は」

「恋慕」

 微かな沈黙。

 言っただろ、と『月』は。

「花と石。変わる物、変わらない物。……花に恋した者だけが死んで、花が死なない理由が在るか?」

「……三百年。それだけでか」

「詳しくは、僕もその場に居合わせていないから知らない。しかし千年耐えるつもりが三百年で終いと言うのは、降り積もった雪の重みに耐え切れず、という所だろうな。会えない程に想いは募る……君は、どうだった?」

 ちらり、と『月』が顔を上げる。

 それから「怖い顔するなよ」と、友人の様にはにかんだ。

「間接的、と言ったのはその為さ。君に恋したが為に死んだと言えば、確かにそうだ。けれど――知った口を利いて悪いが、『恋をする』なんて自分の心でする事だろう。もし君を慰めるつもりが僕に有ったなら、こう言うだろうな。『君の所為じゃない』」

「……そりゃ、どうもよ」

「有ったなら、の話だよ。実際は、別に無い。寧ろ僕が慰めて欲しいくらいだ。最後に残ったばかりに、こんな世話までする羽目になって」

 其処で不意に、『月』の目線が火鼠から外れた。

 強大な妖の視線と言うのは、それだけで一種の攻めになる。南前シオウの様子を窺っていたレキはそれを向けられて、反射的に刀の柄に手を掛ける――しかし、『月』はあくまで落ち着いたまま、

「君は、何か訊きたい事は無いのかな」

 月明りの様に凪いだ声色で、訊ね掛けて来る。

 幻を使うのか、と言うのが初めにレキの思った事だった。『鳥』と同じく、語り掛ける事で何らかの詐術に掛けようとしているのか。思い、しかし考え直す。そうした手合いが相手であれば、火鼠も最初からこんな時間は作らないだろう、と。

「……何故、国を襲った」

「ああ、良いね。そういう質問に答えたかった。何時も僕達は蚊帳の外だったから」

 注意を払って貰えるというのは嬉しい物だ、と本心の様に彼は言った。

「『風』はまあ、それ程説明する事も無いかな。力を欲していた。そして自分がそれを持っているという証を立てたがった。それだけだな。単純だが、単純だから強かった。三百年前も彼だけは本気で君を討ち取るつもりだった……やり方は、気に入ってなかったみたいだけど」

 残念だよ、と『月』は火鼠に笑い掛けた。少しだけ、悪戯っぽい表情で。

「計画通りに君が千年眠っていれば、力を付けた『風』が独りで君を破ってくれただろうに」

「……七百年の間に腑抜けておっ死ぬとは思わねえのか?」

「案外僕達は皆、昔のままの僕達ではなかったんだよ。……さて、『鳥』」

 彼女は複雑だね、と。

「というより、僕も彼女の考えていた事を正確には理解出来ていない。だが、案外その場その場で動いていただけの気もするな。花精の恋心に胸を打たれて、火鼠を封印した。すると掌を返して花精に追い出されて、放浪している内に今度は火鼠が可哀想になった。そう思いつつ花精が死んでこの国を獲りに行く事になれば、僕と『風』を放っておく訳にもいかない。火鼠が目覚めて来れば、しかし命を守る為に戦わねばならない……」

 彼女は反対に、と。

「複雑過ぎて、少し弱くなっていた。周りの言う事を正面から受け止め過ぎていたし、利では動かない自分を、自分で扱い切れていなかった。『風』との地力の違いを踏まえれば、君とも良い勝負が出来ただろうに……なんて。案外今も幻の中で生き延びて、こうして知った口を利いているのを遠くから嗤っているのかもしれないが」

 まあ、と。

 振り返って、『月』は空を仰ぎ見て。

「其方の方が、嬉しいかもね。……『風』の手番で出ていくのは、止めて欲しかったけど。お陰で僕は独りぼっちで、怖いお姉さんと対面だ」

「…………」

「当ててやろうか。今、『寂しい奴だな』って煽ろうとしたけど、自分にも返って来るから、言えないでいる」

 火鼠が、辛うじて肩を竦めた。

 あはは、と屈託なく『月』は笑った。

 不思議な男だ、とレキは思う様になっていた。向かい合って、これ程敵意を感じさせずに居られるものなのか。穏やかな口調も、親し気な素振りも、単なる装いとしての振る舞いとは思えない。

「貴方は、」

 だから、つい。

 望みがそのまま、口に出た。

「このまま、出て行ってはくれませんか」

 目を丸くしたのは、『月』だけだった。

 火鼠が何も言わなかった。何も言わずに少しだけ、レキの隣で肩の力を抜いた。

「このまま行ってくれるなら、追いません。何も取らず、出て行っては貰えませんか」

「……魅力的な提案だな。火鼠。君って、何処に行っても良い相手を見つけるね。正直、かなり羨ましいよ」

 本音の様に、彼は言った。

 独りぼっちで夜天に身を晒しながら、月の光にその髪と頬を輝かせて、それでも。

「でも、僕には僕の動機が有る」

 微笑んで、口にする。


「僕は、僕の国が欲しい。血を飲むんだ」


 一瞬、レキは反応が出来なかった。

 あまりにも明け透けな答えだったから。そして血肉を欲する妖としての在り方が、目の前のこの存在とはすぐには結び付かなかったから。

「……あの頃弱ってたのは、それか」

 代わりに、火鼠が言った。

「そうだ。君と『風』――『鎌鼬』に敬意を表して言うと、僕は元は人間でね」

「にん……、」

「術士か」

「そう。其方の君のお仲間って訳。尤も、比べると大分お爺さんにはなってしまうのだけど」

 居る、とは聞いた事が有った。

 妖成り……人から、妖へと転じた存在の事。

「蘇る死者。これもまた各地で見られる物だ。火鼠。君程の妖なら、僕の他にも会った事があるんじゃないか」

「ああ。……あれは、必ず悩む。『死者は代償無しには動けない』」

「生者もそうさ。ただ、死者の方が代償に限定が掛かる……生きている程、勝手には成れないと言うだけで」

 話は。

 もしもこうだとしたら、と最も不安に思う形で、結ばれる。

「僕は、人の血を飲まない事には生き永らえる事が出来ない。色々悩んだが、生き続ける事にした。だから、国を貰う。花精の育てた肥沃の地をそっくり頂いて、此処を僕の為の農場にする。元々、裏切られる前はそういう約束だったしね」

 じり、とレキは踵を浮かせた。最早避けられる物では無い、と分かったから。そしてそれに、『月』も気が付いた。お、と此方の足元に視線を遣る。

 それから、寂しそうに笑った。

「でも、君の恋人も酷いよなあ! 悪いけど、僕も『鳥』と同感だ。性悪だったぞ、花精は。使うだけ使っておいて『あの子を刺す奴は信用出来ない』『穏やかに暮らせる土地が良い』なんて、君への一撃で消耗した僕を後ろからだ。そりゃあ、僕も君を後ろから刺した訳だし文句は言い辛いんだけれど――」

「『月』」

 重たい声で、火鼠が名を呼べば。

 ぴたり、と『月』の言葉は止まる。先程までの言葉が、その寂しさを埋める為の嘘だったかの様に。

「ぺらぺら喋り散らかしてくれた礼だ。何処か他所に行け。二度と帰って来るな」

 示し合わせた訳では、決して無かった。

 そして火鼠もまた自分の言った事を真似た訳では無かろうと、レキは思う。ただ、偶々望みが一致した。

「あたしも追わない。好きな所で、好きに暮らせばいい」

「……丸くなったな。火鼠」

 まあな、と彼女は答えた。

 木の下に埋められて、挙句の果てには川に流されたもんでね、と。

「でも、それは出来ない」

 しかし、『月』は首を横に振った。

 強情と言う程の気配は無い――『風』よりも『鳥』の方が近い。

「元が人だから分かる。農場は、此処でなければもう作れない。……人の世は、進み過ぎた」

 他に如何しようも無い、という顔。

「この島の全土で、天下取りが行われている事は知っているか?」

「……いや」

「花精の庇護に在ったこの国が特別なんだ。侵略し、侵略され。今、人の世は欲と血を啜って、かつて無い程に肥え太っている。必ず何処かが天下を取る。バラバラの物を、一つに纏めた振りをする。……その時、人に仇成す者に居場所はない。消えてゆくんだ」

 だが、と。

「花精が――土地神になった『花神』が、三百年を掛けて君の為に作り上げたこの土地なら、話は違う。……妖にもまだ、望みが有る。僕はこの土地が欲しい。此処でなくては、駄目なんだ」

 火鼠、と彼は、彼女の名を呼んだ。

「反対に、此方から君に提案しよう。手を組まないか」

「…………」

「君を討ち取って王に、土地神に成るのが一番良い。力が増す。だが、それが叶わないなら、叶わないでも良い」

「……あたしの下に就く……いや。お前の上に立てってか。今更」

「僕の見立てが正しければ、君はもう僕達を許し始めている筈だ。全てが花精の思惑通りだったと聞いたから――惚れた弱みと言うには、少し惨いが。花精を恨む事が出来ない君は、既にその怒りの多くを鎮めている。違うか」

 暫くの、沈黙が在った。

 風が凪いでいる。火鼠の答えを『月』も、そしてレキも待ちながら。ただ月明りばかりがとくとくと、その白い光を地上に送り続けている。

 少しだけ、不思議に思った。

 注がれた光は、何処に消えていくのだろう。なぜ水桶の様に溜まって行かないのだろう。想像した。夜が更ければ更ける程に、光を海と湛えてゆく地上の底。眼裏に浮かんだそれは、いとも美しい光景に思える。

 けれど――、

「確かにあたしはもう、大して腹は立ててねえ。お前等がいい加減な事をするのなんざ慣れたもんだし……怒りも恨みも、長い命の連れ合いにはならねえ」

「…………」

「だが、駄目だ。封印を解かれた。命を救われた」

 時は流れ続け、誰の思惑も宵暗がりに消えてゆく。

 全ては、ただ一時の光だった。

「二つの恩に、一つの約定。行き着く所まで、あたしは行く。立場を変えるなら、お前の方だ」

 そうか、と『月』は言った。

 ふらり、と身体が揺れる。俯いて、前髪を揺らして、目元を見せずに、ほんの一呼吸。

「……そうだよなあ」

 それから、ぱっ、と顔を上げれば。

「君は、何時も裏切らないんだ」

 満月の様に、明るい笑みを浮かべていた。

「一応、訊いておこうか。其方の術士の君。君は、僕の方に寝返る気は無いか」

 その笑顔のままで、軽い調子で彼は訊ねて来る。

「僕の国は、強くて従順ならどんな者でも歓迎だ。結構、融通の利く方なんだぜ。其処の……南前シオウを生かしているのだって、後から仲間になってくれないかと期待しているからさ」

 それに、と。

 虚しい様な、寂しい様な……そんな気配の滲む声色で、彼は。

「望むなら、僕と同じ妖になって貰ったって、」

「――御免なさい」

 けれど。

 その誘いに対する答えは、初めから決まっていたから。

「私は、捨てられない」

 真っ直ぐに見詰めて、レキは言った。

 視線が交わる。一瞬だけ、『月』の笑顔が消えた気がした。唇が僅かに動く。遠い昔の名残のような響きが僅かに在って、それをレキが理解するより先、笑みは戻る。

「だよね。御免。わざわざ嫌な事を訊いちゃったな」

 高欄から『月』がその背を離せば、それが明確な合図となった。

 火鼠が二本の術指を立てた。レキはその隣で、すらりと刀を抜いた。

 畳の上を、彼は歩く。火鼠もレキも、何方からともなく、並んで前に出た。互いの距離は縮まる。皮肉にも、決裂がはっきりした後で。

 レキは、南前シオウを見た。

 動かない――援護は期待出来そうにない。代わりに、隣に居る者と目が合った。央扇の姫。瞳に涙。怖かっただろう。怖いだろう。だからレキは、頷いて応えた。

 頷いて応えるのが、自分のしたい事なのだと。

 今ではそう、分かっていた。

「なあ、火鼠」

「応」

 辿り着いて。

 堂々と受ける火鼠に、『月』は自嘲する様に微笑んだ。

「悪いな。何時も芸が無くて」

 彼が右手をすい、と挙げた、次の一瞬。

 城を抉り取る様な光の術が、炸裂した。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る