七の五 情
「託すよ、君に」
一夜前。夜は更けに更け、朝の方がずっと近い。川辺。レキは漸く意識を取り戻して、これからの事を少しだけ話して、火鼠が馬を引いて来るのを待っている。
その時、東流セッカが差し出して来たのが、それだった。
霊宝――『蓬莱の玉の枝』。
「南前の、」
驚いて、レキはそれを受け取った。酷く重い。セッカと火鼠にどれだけ術で傷と体力を癒して貰っても、元の半分も戻っている気がしない。取り落とし掛けて、しかしセッカがその手を上から包んで、握らせてくれた。
「如何して、此処に」
「私が取って来ておいたから。いざと言う時、武器が『龍の首の玉』一つじゃ心許ない。城が取られた時点で霊宝が要になる事は目に見えてたから、一番城に近い南前は先に抑えておいたんだ」
感心すればいいのか、警戒すればいいのか。
川に叩き込まれる前は、てっきり南前にそれが在ると思い込んでいたのだ。それがこうして顔を出せば、もう、如何いう心持ちになれば良いのか分からない。
それに。
託す、とは。
「遠目にだけど、三妖の力量は大体測れた。火鼠の消耗も踏まえれば、君も対抗できる力の一つを持って損はない」
「しかし、その」
私では、とレキは不安になってそれを見た。一見すれば、何らの変哲もないただの枝である。しかしそれはこの土地の――或いは火鼠の言うところの「この島」の何処を歩いても見つからない。根が銀、茎が金、そして実に真珠を持つ樹の一枝。この枝自体もまた、それら金銀白玉の霊力と性質を、その表皮の奥に隠し持っている様に思われる。
これだけの物を、己の拙い霊術で扱えるのか。
「名前」
レキの懸念をよそに、セッカは呟いた。
「誰から貰ったんだ。君のそれは」
「……知りません」
質問の意図が分からず素直に答えれば、そうか、と頷いて、
「礫。川の流れに、磨かれた石」
良い名だ、と静かな声色で彼女は言う。
「出来るさ。己を知る者の術は強い」
❀
りいん、と弦が鳴って、一息に霧が払われた。
霊宝『蓬萊の玉の枝』。その端と端に、糸を括り付けて弓とした。簡易な間に合わせ。単なる武器として見れば、矢を前に飛ばすのも難しい。
けれど込められた霊力を鑑みるなら、これで十分。虎が、大蛇が朧と消えてゆく。幻術破りの弓弦音。霊宝に込められた力が辺りに漂う妖気を祓い、隠された姿を暴いてゆく。
彼我の力の差は歴然――『鳥』が上。
だからこそ、奇襲で一息に討ち取る。
ぴいぃ、と一声、それでも鳥の甲高い鳴き声が響いた。ずお、と一息に気配が膨れ上がる。再び現れるのは、本丸門の前を埋める夥しい数の獣、獣、獣――。どれ一つを取っても幻とは思われず、今まさにそれらは、この世の物として肉を得ようとしている。
それが形を成し切るより先、再びレキは瞼を閉じた。
ぴぃいい、と声は長く響いている。笛の鳴る様にも、猿の泣く様にも聞こえる寂しい声。呼応して霧が再び立ち込め始めている。火鼠と鎌鼬の争う夜天まで、白く昇ろうとしている。
けれどそれに、レキは耳を澄まさない。
風の運ぶ花の香りも決して香わず、霧の欠片を食らいもしない。
茶金の羽根が五本、飛来した。手に持った枝をひゅ、と振るう。手応えはない。身体に痛みもない。生じたも生じなかったも、其処にレキが知れる事は何も無い。
肉の五覚。視。聴。嗅。味。触。悉く閉じれば、代わりに開く物が在る。
霊宝に、矢を番えた。
「――――!」
何かを、『鳥』が言っている。
けれどレキには、それはもう届かない。真実でない言葉も、真実である言葉も。まやかしも現も全てが等しい夜の一瞬。
霊が司る、第六覚。
其処に居るのが、レキには分かった。
夜天の縁。月を背にして、風を受け、流れ着いた花弁に身を飾った、一羽の小鳥。寂しがりの小さな獣。
ただ独り、莫迦々々しいと知りながらも『花』の意を汲み。
ただ独り、情と義理とでこの場に居合わせた、己とも似た妖を。
「〈我が芯石通じて降れ〉――」
言葉を発して、霊宝内部の金気を此処に。吸い寄せられる様に雷気は夜空に燻って。
「――〈雷招道〉」
稲妻が、空を割った。
❀
そして、二妖の最期の合図は、その稲妻になる。
雷に、空が光った。目も眩む様な、昼と見紛う様な一瞬の明かり。何方も決してその目を瞑る事は無い。それでも一瞬、互いは互いを見失い。
先に叫んだのは、鎌鼬。
「――〈禍つ風〉!!」
疾風という言葉では、とても収まらない。〈風斬り鎌〉は稲妻が光り終えるまでの間に、既に振り切られている。
黒い大風が放たれた。何処より来りて何処へ至るか、未だ何者も知らぬ不吉の風。花城国を覆う夜天の端から端を一息に引き裂いて、風の刃は飛来する。
それを、火鼠は。
「〈花鳥〉」
二本の術指を立てて、堂々受けて立つ。
正面勝負だった。
焔の壁が風の刃を受け止める。拮抗する。互いに技の工夫は在る――けれどそれは、この二妖に取って当たり前の事だった。攻めの心得も受けの心得も、何方も当然として働いて、結果としてはこう見える。
何処までも一途な、力比べ。
「ぐ、う、ォオオオオオオ――!」
鎌鼬が叫んだ。
鼬の妖から放たれたとは思われない、途轍も無い妖気の奔流。黒く溢れ出したそれは大蛇の尾の様に暴れ狂う。二の丸に収まらない。広がり切ればこの国全土を破壊し尽くすだろう、恐るべき力。空が悲鳴を上げている。針の様な鋭さに貫かれて浮雲に穴が開く。天に昇れば地平に星を送り返す様な、途方も無い力だった。
焔の壁も押し返されて。
火鼠の頬が、指が、引き裂けて血を流す。
「〈風月〉」
それでも彼女は、それを唱えて。
最期の一瞬、漸く目が合った。
「――――〈一切、灰燼〉」
懐かしい顔だ、と思った次の瞬間に。
大いなる火が、全てを焼き尽くした。
❀
雷に、左の手が痺れて動かなくなっている。
それでも二本の脚で確と立ちながら、今し方の残光微かな夜の空を、レキは見上げている。
勝った、と。
思えば不意に、と、と隣に降り立つ音がした。
「討ち取ったか」
火鼠。
首の皮と、肉の半寸程度を抉られて。流した血を火で焼きながら、彼女はレキと同じ様にして空を見上げた。
「仕留めたかは分からない。でも、手応えは有った。当てた、と思う。……当たった」
「そうか」
それで十分だ、と火鼠は言うが、十分以上の結果だった、とレキは己で思っている。
元より『鳥』との対峙は己が務めるつもりではあった。隠し刀の霊宝『蓬莱の玉の枝』。それを基にした弓が――金気を呼び水とした雷の霊術が最も通りやすいのは、『鳥』の名を持つ彼女であると、そう思っていたから。
けれど、正直な所。
勝てた事が、不思議でならなかった。獣狩りの相性。激流の果てに得た霊覚が、幻術を貫いた事。それらを合わせてもまだ、向こうの方が遥かに格上だった筈。
もしも、次手にまで勝負が長引けば。
仮にあの雷撃を防ぐ手段を『鳥』が持っていれば……或いは、奇襲として十分に手を果たせなければ、必ず自分は負けていた筈だと思う。
それでも、とレキは右手を強く握る。
生き残ったのだ、と。
「『風』……『鎌鼬』を仕留めた一撃にも、横槍が入らなかった。て事は『鳥』も、生きてたってあたしたちの邪魔する気力は無いだろうよ」
さて、と火鼠は城門を見上げた。
あれだけの戦いを目の前にして、しかしその門は毀れ果ててはいなかった。『棺』の結界。流石に火鼠と鎌鼬を前にしては無傷とはいかなかったようだが、それでも余波をしのぐ程度の事は易々やってのける。
出番だ、と言う様に火鼠がレキに振り向いた。『燕の子安貝』。その霊宝に秘められた力で以て、この結界を破壊してくれ、と。
「……あのさ」
けれど、それよりも先に気になる事が、レキには有った。
「『鳥』は、情に篤かった?」
「情……」
思わぬ言葉、と目を丸くして、それから「ああ、」と火鼠は納得した様に頷いた。
「霊視で見えたのか。かもな。幻術遣い……情に働き掛ける奴は、極端に情が有るか無いかの何方かだ。んで、まあ、」
無い方ではなかっただろうなと。
燃え落ちた空を見詰めながら、火鼠が言う。だから、レキは迷った。言うべきか、言わざるべきか。
まだ、可能性は有る。あれすらも惑わしだったのかもしれない。明らかに力では向こうが上だった。勝ったと思った後にも油断は出来ない。ひょっとすると、仕留めたと思った事すらも欺きで、まだ彼女は眈々と逆転の目を狙っているのかもしれない。
それでも、と思ったのは。
きっと、初めて見た時から。
「さっき、『鳥』が――」
火鼠の抱える寂しさに、心当たりが有ったからなのだと思う。
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