七の三 うん



 本城は、小高い丘の上に在る。

 櫓に立っても、天守の上階に立っても城下の町が見下ろせる。城の中で起こっている事を――妖の襲来を察して、死んだ様に静まり返り、息を潜めている町が。

 一夜明けて、また一夜が来た。

 本丸の前。曲輪の二つを越えた先。門の上に、一体の妖が佇んでいる。

 茶色の髪に、長い襟巻。青年の容貌をしたその妖は、しかし薄笑いすらする事なく、よく鍛えられた鋼の様な面付きで見詰めている。

 視線の先には、三の丸。今まさに大手門を通り越した、二つの影が映っている。

 じっ、とその様を、この妖は見ていた。

「……何の用だよ。『鳥』」

 ぽつり、襟巻の下で彼は呟く。

 すると、先程まで何も無かったと見えた所から、不意に茶金色の羽根が舞い散った。女が現れる。金色の髪。門に座り込む青年に対し、女はその場に浮かび上がったまま。

「言っておくけど、」

 棘の有る声色で、彼女は言う。

「貴方が周りを気にせず戦えるって事は、火鼠に取ってもそうって事だからね」

「分かってる」

「貴方の方が、火鼠より速い。逃げようと思えば、逃げ切れる」

「分かってる」

 青年は言う。動かない。動きもせず、ただ頷いている。

 目線の先は、少しずつ近付いていた。二つの影が上って来る。三の丸を通り越して、二の丸へ。

 青年は、己が胸に手を当てた。逸る鼓動を、抑える様に。

「……分かってる」

 風が吹いていた。春の夜の、けれど冷たさの少ない、暖かな風。遠くから花の香りを運んで来る。雲を浚って、夜空に月が露わになる。

 煌々と輝く、満ちた月。

「――ああ、そ」

 そして、鳥は鳴いた。

 と、とほんの僅かに音を立てて、鳥が止まり木にする様に、女は門の上に降り立った。その微かな音がどれだけ響いたと言うのだろう、青年は目を外して、驚いた様に隣を見る。

「何」

「此方がだ。何だよ。友情のつもりか」

「そう」

 短く、女は答えた。

 二の句を継げずにいる青年に向かって、もう一度、

「そんな所」

 如何いう、と途中まで青年は口を開いた。

 けれど女がまるでこちらに頓着せずに真向いを見ている、その横顔に口を噤む。襟巻を鼻の辺りまで引き上げて、同じ様に真向いを見て、ただ一言、その続きの様にこう言った。

「吹き回すのは、オレか」

 ふ、と鼻で笑った声がする。



 平気か、と火鼠が何度か振り返ったけれど、その度にレキは痩せ我慢をして答える羽目になる。平気な訳は無い。けれどもう、迷いは無かった。

「うん」

 短く答えて、迷い路を行く。曲輪は幾重にも折り重なって複雑で、それ程通った回数も多くないレキにとっては、酷く理解し難い。腰に下げた刀も、背負った弓矢も随分と重く感じる。つい昨日の夜に死に掛けて、それ以前にも一度。短い間で二度も死の縁に目覚めれば、もうずっと、その隣に居る様な心地もして来る。

「此方か」

「よく、分かるね」

 けれど先を行く火鼠は、まるで迷う様子を見せなかった。妖燈を灯して先触れに、後は知った道を歩くかの様に、レキを導いている。

 振り向く。そうか、と納得する様な顔。

「感じ澄ましてみろ。今のあんたなら、きっと分かる」

 試しに、と瞼を閉じた。

 その位の事で転びはしない。けれど念の為だろう、火鼠が右の手をそっと握ってくれる。動くのは彼女に任せて、レキは六覚に心を入れる。成功する気は、余りしていなかった。

「あ、」

 それでも、見えた。

 瞼を開く。火鼠が首を少しだけ此方に向けている。目が合えば、「ほらな」と言う様に笑った。

 二の丸を歩き通せば、見えてきた。一際背の高いその建造物。優に三階分はあろうかという高さの城門。上部には櫓が在って、来る人々を見下ろして、確かめる役割が在る。

 けれど、その櫓の中には誰の姿も見えず。

 代わりにそれより上に、二つの影が、立っていた。

「――よう。来たぜ」

 砂利を蹴り付ける様にして、火鼠が立ち止まる。顎を上げて、挑発する様に。影もまた、月光に照らされてその顔を見せる。

 茶色の髪に、長い襟巻――三妖が一、『風』。

 金色の髪に、茶金の翼――三妖が一、『鳥』。

 それぞれが国を獲れるだけの力を持つであろう二体の妖が、其処に並んで佇んでいた。

 意外な事だ、とレキは思う。見立てでは、天守閣で二対三の乱闘になる物と考えていた。だって、如何考えたって数の有利を減らす意味は無い。それに、何より――、

「此処でやる気か? 悪いが、勝ち目は無いと思うぜ」

 火鼠が、まるで遠慮する必要が無い場所になる。

 周囲に建造物は在り、引火の可能性は否めない。が、この本丸門の前に、人の気配は無い。彼女がその焔を控える必要は、何処にも無いのだ。

「……憧れてた」

 答えは、片方の妖の口から零れ出した。

「ああ?」

「手前の名に、だよ」

 彼は少しだけ、微笑んでいた。

 気恥ずかしさを隠す、若者の様な顔。

「名声ってんじゃねえ。そんな物はオレだって持ってる。火鼠――その名だ」

 不釣り合いな様に、レキには思えた。

 川べりであれだけの攻防を繰り広げて、渾身の一手を決めて、それでも敵手が戻って来たにも拘わらず。

 何処か彼は――嬉しそうに、見えたのだから。

「火は仕方ねえよ。どうせ露呈する。だけど、鼠はどうだ? 言わなきゃバレねえ。言えばそれだけ不利になる。見ろ、『鳥』なんざ手前に幾つの有利を取ってる」

 小さく『鳥』が肩を竦める。笑う。

 火鼠の横顔を、レキは見た。皮肉気な言葉も表情も消えて、ただ。

 ただ真剣に、『風』の言葉を聞いていた。

「だが、手前は堂々とその名を名乗る。火鼠。天下無敵の大妖、ってな」

「それが、あたしの名だからな」

「そういう所によ、」

 最初から憧れてたんだ、と。

 言えば『風』は、大きく右の手を宙に突き出した。

「〈風斬り鎌〉」

 見るのは、レキも初めてだった。

 それは、武装の術。黒い妖力が『風』の右腕を覆う。それが形を成して、少しずつ前へ。前へと進んで、最後には肉を離れて、一つの形を其処に取る。

 黒い大鎌。

 妖が己の力のみを以てして創り出した妖刃が、顕現する。


「――――天下風来、『鎌鼬』」

 そして、『風』は名乗った。


 吹き荒れる風に、その襟巻を棚引かせ。

 真っ直ぐな瞳で――試練へ向かう武芸者の様な瞳で、火鼠を見下ろしていた。

「不意討ち奇襲、数に頼むも技の内……けどな。手前が死なずにのこのこ生き返って来たのが、オレは嬉しいぜ。火鼠」

 ふ、と火鼠が笑う。

 そうかよ、と言って地を踏んで、ぼう、と蜘蛛の巣の様に炎が広がった。

「今度は、生かして子分にゃしてやらねえぞ」

 続けざまに、レキもまた、刀を抜いた。

 それは当然、火鼠と風――『鎌鼬』の勝負に、割り込む為ではない。

「ふッ――、」

 ただ己に向けられた凶気を、払い除ける為。

 茶金の羽根。鋭く、針の様に尖ったそれらが飛来する。一刀の下にそれを斬り伏せて、痛む身体に歪む顔、無理矢理に抑え付けて向こうを見遣れば、女が独り、笑って手招きをしている。

「こっちはこっちで、ね。邪魔しないでいましょうか。かわいこちゃん」

 元より、そのつもりだった。

 二対二。火鼠と鎌鼬では、火鼠の地力が上。であるなら、自分がやるべき事は、たったの一つ。

 この『鳥』を決して身軽にさせず、彼女達の決闘に一切手出しさせない様にする事。

「レキ」

 隣り合って、火鼠が言う。目線は既に鎌鼬から外さないままで。けれど、心だけを僅かに傾けて。

「死ぬなよ」

 その言葉は、自分が口にしたい言葉でも在ったから。

 今度は瘦せ我慢をせずに、答えられた。

「うん」


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