七の二 嫌だ
「…………」
信じられない、という気持ちで火鼠が眺めれば、眺められた当人もまた、信じられない、という様な面付きで、己が右の手を見詰めている。
東流セッカ。
ずぶ濡れの彼女が、川の下流、引き揚げられた三人を前に、茫然と立っている。
暫し、見つめ合う様な時間が在りながら、
「げほっ、げっ」
「――大丈夫か!」
レキが水を吐いたのに反応して、慌てて火鼠は彼女の介抱に掛かる。腕も足も、冗談みたいに痛む。今突然それが千切れてぼとりと川石の上に落ちたとしても、当然と受け止める他あるまい、と思う。
けれど、生きている。
自分だけではなく、レキも。そしてまた、
「おい、そっちは――」
「生きているよ」
東流タツセ。
『月』に抱えられてあの水撃を放つ羽目になった娘もまた、叔母のセッカの腕の中で、微かに、けれど息をしていた。
「……仕方ない。其方は平気かな。レキ殿の体力を戻す様な術は、何か」
「心得は有る。其方こそ平気か」
「分担しよう。傷は私が塞ぐから、君は体温を戻すのに専念を」
仕方ない、ともう一度彼女は言った。
温めるのは火の術の範疇だ。レキはすぐさまレキの身体に触れる。掌で額を触って、それから随分冷え込んでいる事が気に掛かって、身を起こさせて抱き締める。空いた手で東流タツセの額にも触れた。体温は、何故だかタツセの方が多く残っていた。
じわじわとレキの身体が熱を取り戻せば、不思議と己の妖力も戻って来た。「明かりを」と言ったセッカの言葉に応じて、妖火を周囲に撒く位の力は、何とか。
嘘の様に静かな川べりだった。水の微かに流れる音だけがずっと響いている。激流に驚いたのか、鳥の声も風の声もない。月光も今は凪いだ雲に隠れて、人霊の様に漂う幻燈ばかりが、辺りを照らしていた。
「がっ、う……」
もう一度レキが水を吐けば、良し、とセッカが息を吐く。手当は、一段落が付いたらしい。
「大丈夫なのか。其方の娘は」
「元々、東流の者は川では溺れない。殆どはこの首に空いた二穴――噛み痕か。此処から少しばかりの血と霊力が流れ出たが為の昏倒でしょう」
それより以前に随分と術を酷使したのも有るだろうから、とセッカが言えば、漸く全容が火鼠にも見えてきた。
東流の者。これが恐らく、例の名目当主だろう。本城で結界を張っていたのがとうとう根負けして、『月』の手駒に使われた。霊力の殻を破られた状態で川に投げ込まれ、強力な水撃の媒介とされた。
だが土地の術士らしく、この女は川と強烈に結び付いていた。祖に水妖の類が居るのかもしれない。どれだけ消耗した状態で投げ込まれても、決して溺れ死ぬ事は無い。水が彼女を避けて通る。あの水撃を見れば、元の霊力も大した物なのだろう。それだけに、影響はより強く。
その彼女を水の中で捕まえた、一人の娘が居て。
その娘にまた掴まれたが為に、己は今、生きている。
「引き上げたのはあんたか。助かった」
「ええ、まあ。……引き上げるとは、自分でも思わなかったけれど」
じっ、と右の手を見ながらセッカが言う。「ああ、余計な事を」とも彼女は言ったけれど、他に流れる会話も無くて、だから自然、夜の静かはその続きを促した。
「恨んでいると思ってたのに」
そっと彼女は、膝の上に眠る姪の髪を長い指で整えて、
「身体が不意に動いた。……こんなになるまで術を使う。霊力ばかりで術が未熟だから、力を込めるだけ己も傷付いている。挙句の果てにはいい様に使われて、捨てられて……愚かで先の見えない子だと、そう思っていたんだけど」
「…………」
そうか、と。
水が滴り落ちる様に、酷く自然に、彼女は視線を落として、
「助けてしまうんだな。私は」
独り言の様な言葉だったけれど。
それでも火鼠は、訊ねたい事が在った。
「なあ、」
「――ん、」
けれどその時、目を覚ました者が居た。
火鼠の腕の中。驚いた事にあれだけ水を飲んで、吐いて、傷も負って、血も体温も失って、それでも先に意識を取り戻したのは。
「う、あ……」
レキ。
髪先の青く染まった術士が、薄く目を開けていた。
「……セッカ、殿」
「おい、無理するな。そのままでいい」
それでも頭を下げようとするレキを、セッカもまた「寝ていなよ」とあしらった。起きて直ぐに彼女の姿を探した所を見れば、引き揚げられるまでは意識を保っていたらしい。
よく人の身でこれ程、という思いと。
何故人の身でこれ程、という思いの二つが織り交ざって。
彼女の瞳が震えなくなって、空の星の一つをその真中に据える様になった頃、漸く火鼠は彼女の手を握って、こう訊ねた。
「何故だ」
「…………?」
「如何して――」
それ以上の言葉が、それでもまだ、出て来ない。
代わりにその先を紡いだのは、虚ろに動いたレキの唇だった。
「弟、が、」
譫言の様な響きで、実際にそうだったのではないかと思う。
此処ではない何処かを見ながら……空の星の、たった一つを見詰めて。見詰めたままで、彼女は言う。
「ずっと、待ってた。私が森から出て来るのを、ずっと、待ってた」
「…………」
「土が、へこんでた。足跡が付いてた。無くなった。無くなっても、ずっと待ってた。私が、ずっと、」
ずっと待ってた、と。
涙が。瞬きもしない瞳を守る様に、じわりと浮き出して。
「死ぬのが、嫌だ」
届きもしない星に手を伸ばす様に、レキは、喉を震わせる。
「自分が死ぬのより、人が死ぬ方が、嫌だ……」
後は、泣き声だけが続いてゆく。
わんわんと、幼子が悲しみのままに泣く様に。火鼠は抱き留めた。ただ、抱き留めたいと思ったから。震える冷たい身体を少しでも温められればと思った。背を擦った。己も、と思う。己もこんな風に泣くのだろうか。泣けば良かったのだろうか。
気が付いた事が在った。
「火鼠」
泣き疲れたレキが眠りに落ちた頃、東流セッカが不意に言った。彼女は西の空を見て、だから見詰め合った火鼠は自然、東の空を見た。海の向こう。誰も知らない土地の果て。少しずつ、空が白み始めている。
「本城は、保って明日の夜。以前に結界役……南前シオウと会った事が有る。それから急激に霊力を伸ばしていない限り、まず間違いは無い。今直ぐに出れば、何とか間に合うだろうけど」
西の空には、本城が在る。
花城国。大陸からやって来た花の姫が、供の鼠を葬って後に改めた、墓標の様な城が、其処に。
「貴方はこれから、如何するつもりなのかな」
ふ、と火鼠は指先を宙に伸ばした。
何時の間にか、柔らかな風が吹いていた。だから掴み取ろうとして、宙を切る。其処には何もなかった。香りだけが鼻の先に残る。下ろしてみれば、岸辺の砂礫が手に当たる。
「……そうだな」
薄く微笑む。不敵には程遠い。けれど不安とも、また遠い。
不思議な――まるで今までとは違った表情で、彼女は言う。
「長い付き合いだ。葬式くらい、顔を出すさ」
夜明けの気配が、近付いていた。
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